March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
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(続き)
本書のようにスケールの大きな統合的著述を試みるに当たっては、単純化、一般化、それに要約ということが不可欠であった。(さもないと、こんな広範な領域にわたる問題を、一冊の本にまとめ上げることなど、とうてい不可能であろう。)その結果、本書は文明を農業段階の第一の波、産業段階の第二の波、それに現在はじまりつつある第三の波という、わずか三段階に分けた。歴史家のなかには、こうしたやり方に対して反対の方もあろうかと思う。
農業文明がまったく異質な複数の文化から成り立っていること、産業主義自体が現実には実にさまざまな発展段階を経過していること、そうした指摘は容易である。過去を十二に分けることも可能なら、三十八にも百五十七にも分けることができよう。未来だとて同じことである。しかし、そんなことをやりはじめたら、どこまで細分化してもきりがなくなり、大きな区分を見失ってしまうことになろう。さもなければ、同じ問題を扱うのにとても一冊の本では間に合わず、ひとつの図書館が必要になってしまう。われわれの目的のためには、多少粗雑ではあっても、単純な区分の方が、より効果的である。
広い視野に立つ本書は、ほかにも近道をとる必要があった。たとえば、私はしばしば、第一の波、あるいは.第二の波がこういうことをやった、ああいうことをやったなどと、文明自体を主体化している。もちろん、文明がなんの行動も起こすはずがないことは、私も十分に知っているし、読者も知っているはずだ。行動を起こすのは、あくまでも人間である。しかし、時によって、文明があれをやった、これをやったと書くことで、時間の節約にもなるし、無駄な論議を避けることができる。
歴史家であろうと、未来学者であろうと、経済計画の立案者から占星術師や伝道師にいたるまで、だれひとり未来を知っている人間はいないし、また知りうるはずもない。そのことを聡明な読者はよくご承知のはずである。私がある事柄が起こるだろうと言う時には、当然読者はそれが起こるか起こらないか、一定の留保をしながら読んでもらえるものだと思って書いている。こうした書き方をしないと、次から次へと不必要な留保ばかり多くなってなにがなんだかわからなくなり、とても読むに耐えない冗長な書物ができ上がってしまうであろう。第一、社会予測というものは、いくらコンピューター化されたデータを利用しようと、けっして客観的な、価値観と無関係なものにはなりえない。その意味では科学的とも言いがたい。『第三の波』は客観的な予測の書ではないし、その内容に科学的根拠があると主張するつもりもない。
しかしながら、こう言ったからといって、この書物のなかで展開した考え方が恣意的なもので、体系的でないという意味ではない。事実読んでいただければすぐわかるように、本書は多くの例証にもとづいて書かれており、文明のかなり体系的なモデルとも言うべきものと、それに対するわれわれの関係を出発点としている。
本書はほろびつつある産業文明を、「技術体系」、「社会体系」、「情報体系」、「権力体系」という面から分析し、それら体系がいずれも今日の世界で、いかに革命的変革をとげつつあるかについて記述している。そして、前記四つの体系相互の関係を明らかにすることはもちろん、さらに進んで四つの体系と、「生命体系」、「精神体系」との相関を明らかにするようにつとめた。なぜなら、こうした人間相互の心理的、内面的つながりをとおして、はじめて外界の諸変化は、人間のもっとも個人的な生活にまで影響をおよぼすようになるからである。
『第三の波』は、文明というものも、それ自体がある種の方法と原則を援用することによって現実を説明し、その文明の存在自体を正当化する「スーパー・イデオロギー」を発展させるものだ、という考え方をとっている。
こうした体系、方法、原則の相関関係を理解し、それらが相互にどのような変化をせまり、それによっていかに激しい変化の潮流が生じているかを理解できれば、今日、われわれの生活に打ち寄せている巨大な変化の波について、はるかに明確な理解を持つことができる。
本書で用いた重要な比喩は、すでに明らかなように、変化の波と波とがぶつかり合いという比喩である。この波、というイメージは、別に独創的なものではない。ノーバート・イライアスは彼の著作『文明のプロセス』のなかで、「何世紀にもわたって完成度を高めていく文明の波」について触れている。1837年には、アメリカ大陸西部への移住を、次つぎと押し寄せる「波」になぞらえる者もあらわれた。まず草分け時代の開拓者、つづいて農民、そして企業関係者が、移住の「第三の波」だというのである。1893年には、フレデリック・ジャクソン・ターナーが彼の古典的名著『アメリカ史におけるフロンティアの意味』において、同じ表現を用いて書いている。したがって、波という比喩は別に新鮮でもなんでもない。要は、それをいかに今日の文明の変化にあてはめるかにある。
波という比喩を用いることは、本書の場合、まことに適切であることが、次第に明らかになるであろう。波という考え方は、極端に多様化した大量の情報を組織化する道具として使えるだけではない。荒れ狂ったように変化する現象の、背後を見通すのに役立つのである。波の比喩を用いることによって、さまざまに錯綜した事態の筋道が明白になる。日頃見慣れた事態が、新しい光のもとに、しばしば目を見はるほど新鮮なものとして見えてくるのである。
ひとたび変化の波がぶつかり合い、重なり合い、われわれの周囲に相克や緊張を生んでいるのだという考え方に立ってみると、私の場合、変化そのものに対する見方まで変ってきた。教育や健康の問題からテクノロジーの問題まで、あるいは個人生活から政治の問題にいたるまで、さまざまな変革のなかで、単にうわべだけの変化、つまり過去の産業社会の延長にすぎない変化なのか、それとも本当に革命的な変化なのかということを見分けることができるようになったのである。
しかし、もっとも有効な比喩といえども、部分的な真理をあらわしているにすぎない。あらゆることを、あらゆる側面から語りつくす比喩などは、所詮、ありえないのである。したがって、未来への展望はおろか、現代の展望すら、けっして完全なものでも終局的なものでもありえない。十代の後半から二十代のはじめにかけて私がマルクス主義者であった当時-すでに四分の一世紀も前のことになるが-私も青年の常として、自分はすべてに答えうると考えていた。しかし、私はすぐに自分が「答え」と考えたものが偏見にみち、一方的で、陳腐なものにすぎないことを悟った。もっとはっきり言えば、たいていの場合、正しい問いかけの方が、間違っている問いに対する正しい答より重要だ、ということに思いいたったのである。
私は『第三の波』が、あれこれと問題に答えると同時に、多くの新鮮な問いを発することを願っている。
完璧な知識など存在しないし、全面的に真理をあらわす比喩もありえないという認識は、それ自体、まことに人間的である。こうした認識さえあれば、狂信におちいる心配はない。反対論者にも一面の真理はあるものだし、自分自身にも誤りがありうる。規模の雄大な統合的見解を展開しようとすると、特に誤りをおかす危険性がついてまわる。しかし、評論家ジョージ・スタイナーが書いているように、「より大きな問いを発することは物事を取りちがいかねない危険性があるが、まったく問いを発しないことは、知的生活を無理矢理、抑制するようなものである。」
個人の生活がばらばらに引き裂かれ、これまで確固としていた社会秩序が崩壊する一方で、奇妙に新しい生活様式が澎湃として起こっているこの爆発的変化の時代に、われわれの未来に関する最大の問いを発することは、単に知的好奇心の問題ではない。これは、人類が生き残れるかどうかの問題なのである。
自覚しているいないは別として、われわれの大半は、すでに新しい文明の創造に参加しているか、あるいはまた、それを拒否する勢力に荷担しているか、そのいずれかである。われわれひとりひとりが、そのどちらかを選ぶかの選択にあたって、『第三の波』が役立って欲しいというのが、著者である私の願いである。(序論-了)P.6~P.16
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
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(続き)
本書のようにスケールの大きな統合的著述を試みるに当たっては、単純化、一般化、それに要約ということが不可欠であった。(さもないと、こんな広範な領域にわたる問題を、一冊の本にまとめ上げることなど、とうてい不可能であろう。)その結果、本書は文明を農業段階の第一の波、産業段階の第二の波、それに現在はじまりつつある第三の波という、わずか三段階に分けた。歴史家のなかには、こうしたやり方に対して反対の方もあろうかと思う。
農業文明がまったく異質な複数の文化から成り立っていること、産業主義自体が現実には実にさまざまな発展段階を経過していること、そうした指摘は容易である。過去を十二に分けることも可能なら、三十八にも百五十七にも分けることができよう。未来だとて同じことである。しかし、そんなことをやりはじめたら、どこまで細分化してもきりがなくなり、大きな区分を見失ってしまうことになろう。さもなければ、同じ問題を扱うのにとても一冊の本では間に合わず、ひとつの図書館が必要になってしまう。われわれの目的のためには、多少粗雑ではあっても、単純な区分の方が、より効果的である。
広い視野に立つ本書は、ほかにも近道をとる必要があった。たとえば、私はしばしば、第一の波、あるいは.第二の波がこういうことをやった、ああいうことをやったなどと、文明自体を主体化している。もちろん、文明がなんの行動も起こすはずがないことは、私も十分に知っているし、読者も知っているはずだ。行動を起こすのは、あくまでも人間である。しかし、時によって、文明があれをやった、これをやったと書くことで、時間の節約にもなるし、無駄な論議を避けることができる。
歴史家であろうと、未来学者であろうと、経済計画の立案者から占星術師や伝道師にいたるまで、だれひとり未来を知っている人間はいないし、また知りうるはずもない。そのことを聡明な読者はよくご承知のはずである。私がある事柄が起こるだろうと言う時には、当然読者はそれが起こるか起こらないか、一定の留保をしながら読んでもらえるものだと思って書いている。こうした書き方をしないと、次から次へと不必要な留保ばかり多くなってなにがなんだかわからなくなり、とても読むに耐えない冗長な書物ができ上がってしまうであろう。第一、社会予測というものは、いくらコンピューター化されたデータを利用しようと、けっして客観的な、価値観と無関係なものにはなりえない。その意味では科学的とも言いがたい。『第三の波』は客観的な予測の書ではないし、その内容に科学的根拠があると主張するつもりもない。
しかしながら、こう言ったからといって、この書物のなかで展開した考え方が恣意的なもので、体系的でないという意味ではない。事実読んでいただければすぐわかるように、本書は多くの例証にもとづいて書かれており、文明のかなり体系的なモデルとも言うべきものと、それに対するわれわれの関係を出発点としている。
本書はほろびつつある産業文明を、「技術体系」、「社会体系」、「情報体系」、「権力体系」という面から分析し、それら体系がいずれも今日の世界で、いかに革命的変革をとげつつあるかについて記述している。そして、前記四つの体系相互の関係を明らかにすることはもちろん、さらに進んで四つの体系と、「生命体系」、「精神体系」との相関を明らかにするようにつとめた。なぜなら、こうした人間相互の心理的、内面的つながりをとおして、はじめて外界の諸変化は、人間のもっとも個人的な生活にまで影響をおよぼすようになるからである。
『第三の波』は、文明というものも、それ自体がある種の方法と原則を援用することによって現実を説明し、その文明の存在自体を正当化する「スーパー・イデオロギー」を発展させるものだ、という考え方をとっている。
こうした体系、方法、原則の相関関係を理解し、それらが相互にどのような変化をせまり、それによっていかに激しい変化の潮流が生じているかを理解できれば、今日、われわれの生活に打ち寄せている巨大な変化の波について、はるかに明確な理解を持つことができる。
本書で用いた重要な比喩は、すでに明らかなように、変化の波と波とがぶつかり合いという比喩である。この波、というイメージは、別に独創的なものではない。ノーバート・イライアスは彼の著作『文明のプロセス』のなかで、「何世紀にもわたって完成度を高めていく文明の波」について触れている。1837年には、アメリカ大陸西部への移住を、次つぎと押し寄せる「波」になぞらえる者もあらわれた。まず草分け時代の開拓者、つづいて農民、そして企業関係者が、移住の「第三の波」だというのである。1893年には、フレデリック・ジャクソン・ターナーが彼の古典的名著『アメリカ史におけるフロンティアの意味』において、同じ表現を用いて書いている。したがって、波という比喩は別に新鮮でもなんでもない。要は、それをいかに今日の文明の変化にあてはめるかにある。
波という比喩を用いることは、本書の場合、まことに適切であることが、次第に明らかになるであろう。波という考え方は、極端に多様化した大量の情報を組織化する道具として使えるだけではない。荒れ狂ったように変化する現象の、背後を見通すのに役立つのである。波の比喩を用いることによって、さまざまに錯綜した事態の筋道が明白になる。日頃見慣れた事態が、新しい光のもとに、しばしば目を見はるほど新鮮なものとして見えてくるのである。
ひとたび変化の波がぶつかり合い、重なり合い、われわれの周囲に相克や緊張を生んでいるのだという考え方に立ってみると、私の場合、変化そのものに対する見方まで変ってきた。教育や健康の問題からテクノロジーの問題まで、あるいは個人生活から政治の問題にいたるまで、さまざまな変革のなかで、単にうわべだけの変化、つまり過去の産業社会の延長にすぎない変化なのか、それとも本当に革命的な変化なのかということを見分けることができるようになったのである。
しかし、もっとも有効な比喩といえども、部分的な真理をあらわしているにすぎない。あらゆることを、あらゆる側面から語りつくす比喩などは、所詮、ありえないのである。したがって、未来への展望はおろか、現代の展望すら、けっして完全なものでも終局的なものでもありえない。十代の後半から二十代のはじめにかけて私がマルクス主義者であった当時-すでに四分の一世紀も前のことになるが-私も青年の常として、自分はすべてに答えうると考えていた。しかし、私はすぐに自分が「答え」と考えたものが偏見にみち、一方的で、陳腐なものにすぎないことを悟った。もっとはっきり言えば、たいていの場合、正しい問いかけの方が、間違っている問いに対する正しい答より重要だ、ということに思いいたったのである。
私は『第三の波』が、あれこれと問題に答えると同時に、多くの新鮮な問いを発することを願っている。
完璧な知識など存在しないし、全面的に真理をあらわす比喩もありえないという認識は、それ自体、まことに人間的である。こうした認識さえあれば、狂信におちいる心配はない。反対論者にも一面の真理はあるものだし、自分自身にも誤りがありうる。規模の雄大な統合的見解を展開しようとすると、特に誤りをおかす危険性がついてまわる。しかし、評論家ジョージ・スタイナーが書いているように、「より大きな問いを発することは物事を取りちがいかねない危険性があるが、まったく問いを発しないことは、知的生活を無理矢理、抑制するようなものである。」
個人の生活がばらばらに引き裂かれ、これまで確固としていた社会秩序が崩壊する一方で、奇妙に新しい生活様式が澎湃として起こっているこの爆発的変化の時代に、われわれの未来に関する最大の問いを発することは、単に知的好奇心の問題ではない。これは、人類が生き残れるかどうかの問題なのである。
自覚しているいないは別として、われわれの大半は、すでに新しい文明の創造に参加しているか、あるいはまた、それを拒否する勢力に荷担しているか、そのいずれかである。われわれひとりひとりが、そのどちらかを選ぶかの選択にあたって、『第三の波』が役立って欲しいというのが、著者である私の願いである。(序論-了)P.6~P.16