アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第三の波 第13章 脱画一化へ向かうメディア(2-1)

2015年03月24日 20時22分42秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第13章 脱画一化へ向かうメディア(2-1)
 秘密情報員は、もっとも強烈な現代の象徴のひとつである。これほど見事に現代人の想像力をとらえているものはない。何百という映画が、007をはじめとする、向こう見ずなフィクションの世界の同類たちを、英雄的に描き出す。テレビやペーパーバックスも、無謀で、ロマンチックで、およそ道徳と無縁の、
実在のスパイよりはるかに大きい(時には小さい)スパイ像を、次から次へと描き出す。一方、政府も、諜報活動に何十億という金をつぎ込む。KGB(ソビエト国家保安委員会)やCIA、そのほか何十と言う情報機関が、互いにしのぎをけずりながら、ベルリンからベイルートへ、マカオからメキシコ・シティへと暗躍している。
 モスクワでは、西側の新聞記者がスパイ容疑で告発される。ボンでは、スパイの手が内閣にまでのび、高官が失脚する。ワシントンでは、連邦議会の調査官が、アメリカ、韓国、双方の秘密情報員を同時に摘発し、犯罪行為をあばきだす。そして、頭の上では偵察衛星がひしめき合い、地球上のどんな微細な点も逃さず、写真に収めている。
 スパイは歴史的に見て、新しいものではない。それでありながらなぜ、いまになってスパイへの関心が高まり、私立探偵や刑事、カウボーイを脇に追いやって、スパイが世間の人びとの想像力を支配するようになったのか、これは一考に値する。誰でもすぐ気がつくことは、これらの伝説との人物たちと、スパイとの間には、重要な違いがあるということである。物語に登場する両者を比較してみると、刑事やカウボーイは、もっぱら拳銃と腕力に頼っているが、スパイの方は、最新の、しかも魅力あふれるテクノロジーで武装している。たとえば、エレクトロニクスを使った盗聴器、コンピュータ、赤外線カメラ、空を飛び、水中を走る車、ヘリコプター、ひとり乗り潜水艇、殺人光線等々である。
 しかし、スパイが脚光を浴びるようになった深い理由が、もうひとつある。カウボーイ、刑事、私立探偵、冒険家、探検家、こうした書物や映画でおなじみの伝統的な英雄たちは、放牧のための土地を求め、金を欲しがり、羊を捕え、女を物にしようとした。つまり、手に触れることのできるものを追い求めた。だが、スパイはそうではない。
 スパイの大事な仕事は情報である。情報は、世界でもっとも急成長した。もっとも重要なビジネスであろう。スパイは、いま、情報体系を一新しようとしている革命の、生きたシンボルと言えるのである。

 イメージの貯蔵庫
 情報爆弾というひとつの爆弾が、現代社会のまっただなかで炸裂している。ばらばらに砕けたイメージの榴散弾が大雨のように降り注ぎ、われわれはこれまでの知覚の方法や行動の原理を、根底から変えなければならなくなっている。第二の波から第三の波の情報体系への転換期に当たり、われわれは、みずからの精神構造の変革を迫られている。
 われわれは、みなそれぞれの頭の中に、現実に対応する模型をつくり上げている。つまり、イメージの貯蔵庫である。イメージの中には、目に見えるもの、耳で聞くことのできるもの、あるいは触って確かめることのできるものさえある。また「知覚」によってしか認識できないもの、たとえば目の端にちらっと感じる青空のように、周囲の状況についての情報の痕跡といったものもある。さらに「母」と「子」といいう二つの単語のように、相互の関連を示す「連鎖」もある。単純なものがある一方で、複雑で概念的なものもある。たとえば「インフレーションは賃金の高騰によって起こる」という考えがそれだ。こうしたイメージの総体がわれわれの世界像であり、これが時間と空間のなかにわれわれを位置づけ、個人と周囲との関係の網の目をつくりあげるのである。
 これらのイメージは、どこからともなくあらわれる、というものではない。それがどのような方法で形成されるのかはわからないが、周囲から送られてくる信号や情報から、イメージはできあがる。仕事、家庭、教会、学校、政治的な取り決めなどが、第三の波の衝撃を感じ取り、周囲の状況の変化につれて揺れ動けば、われわれを取りまく情報の海もまた変化する。
 マスメディアが出現する以前のことを考えてみよう。第一の波の時代には、こどもはゆっくりと移り変わる村のなかで成長し、ほんの一握りの情報源にもとづくイメージによって、現実に対応する模型を頭のなかに描いていた。情報源は、学校の教師、僧侶、村長や役人、とりわけ、家族といった範囲にとどまっていた。未来心理学者ハーバート・ジェルジョイはこう記している。「昔はラジオやテレビが家庭になかったので、こどもは、さまざまな人たち、さまざまな人生を歩む人たちに接する機会がなかった。まして外国人に出会う機会などあろうはずもなかった。外国の都市を見物したことのある人も、ほとんどいなかった。・・・したがって、手本として見習うべき人はごく少数であった。」
 「手本と目される人達自身が、村人以外の人とつき合う経験に乏しいのだから、こどもたちが手本として選択できる範囲は、いっそうせまかった。」従って、村のこどもが抱く世界像は、極端に狭いものであった。
 その上、こどもたちが受け取るメッセージは、少なくとも二つの点で、冗長であった。まず第一に、ポーズや繰り返しの多い同じお喋りの形で、そうした情報を聞かされたからである。次に、同じようなことを何人もの口から聞かされるので、それに関する一連の観念が出来上がり、しかもそれが次第に増幅していくのであった。たとえば、「汝らかくあってはならじ」という同じ言葉を、教会でも学校でも教え込まれる。国や家族が言うことを、さらに教会と学校が繰り返したわけである。こどもは生まれた時から、共同体の一致した意見に従い、順応することを強いられていたため、こどもが脳裏に描きうるイメージと行動の範囲は、ますます限定されたものになった。
 ところが第二の波の時代になると、人びとが脳裏に描く現実像の手がかりになるカイロが、無数に増えることになった。もはやこどもは、自然や周囲の人びとからだけでなく、新聞、大量の発行部数を持つ雑誌、ラジオ、のちにはテレビから、イメージを与えられるようになった。それ以前は、教会や国家、家庭、学校などが、相互に補い合って、同じことを、繰り返し語りかけていた。しかし今や、マスメディアが巨大な拡声器となったのである。マスメディアは、地域、民族、種族、言語の境界線を越えて、その強大な影響力を行使し、社会思潮を形成しているさまざまなイメージを規格化したのである。
 視覚的なイメージと中には、きわめて広範囲に流布され、何百万という人びとの記憶の中に定着し、いわば聖なるイメージと化したものもある。風にはためく赤旗のもとで勝ち誇ってあごを突き出したレーニンのイメージは、十字架にかかったイエス・キリストのイメージと同様、何百万という人びとにとって、聖なるイメージとなっている。山高帽とステッキ姿のチャップリン、あるいはニュールンベルクで熱狂するヒットラーのイメージ、ブーヘンワルト強制収容所で薪のように山積みされた人間の死体、チャーチルのVサイン、黒マントのルーズベルト、風にひるがえるマリリン・モンローのスカート、そのほか何百というマスメディアのスターたちのイメージ、さらに世界的に知られた何千という商品、たとえばアメリカのアイボリー石鹸、日本の森永チョコレート、フランスの清涼飲料水ぺリエ、これらはすべて、世界的なイメージ目録にファイルされた、定評あるイメージとなっている。
 マスメディアは、こうしたイメージを集中的に大衆の心に植えつけることに寄与したが、その結果、産業主義にもとづく生産方式にとっては不可欠である、人びとの行動の規格化が助長された。
 第三の波は今日、いままで述べてきたことすべてを、一変させようとしている。社会の変化が加速されれば、われわれの精神もまた、これに呼応して変化せざるをえない。われわれは、新しい情報を受け取り次第、イメージ目録の修正を求められるのだが、その速度はますます速くなっている。過去の現実に根ざした古いイメージを捨て去り、それを常に更新しなければ、われわれは現実から遊離し、現実への適応能力を失う。現実に対処できなくなるのである。
 われわれの内部で、イメージが具体的な形をとってあらわれる速度がスピードアップされるわけだが、このことは、イメージが永続性のない一時的なものになっていくことをも意味する。ちらし広告、一回かぎりのホーム・コメディ、ポラロイド写真、ゼロックス・コピー、使い捨ての美術印刷、これらはいきなりあらわれて、すぐに消えていく。着想、信条、心構えも、意識のなかに忽然とあらわれ、挑戦を受け、抵抗に遭い、たちまちのうちにどこへともなく消えてしまう。科学や心理学に関する諸学説は、日ごとにくつがえされ、駆逐される。イデオロギーは打破される。何人もの著名人が、ダンスのつま先旋回のようにくるりとまわったかと思うと、もうその姿は見えなくなっている。政治や道徳の、相矛盾するスローガンが、われわれを悩ませる。
 走馬灯のように、めまぐるしくわれわれの心中を去来する一連の幻想がどういう意味を持つのか、またイメージの形成過程がどのように変わりつつあるのか。これを正確に理解することは、なかなかむずかしい。というのは、第三の波が、情報の流れをこれまで以上に速めただけでなく、われわれの日常行動を左右する情報の構造そのものを、奥深いところで変質させたからである。