最終章 終わりに-始まりは終わった を抜粋せずに全編を2回に分けて紹介します。
2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(下)
終わりに ー 始まりは終わった 富の未来(下)P.330~P.340
悲観論をとなえるものは、賢明さを装いたい人にとってとくに便利な方法のひとつだ。そして、悲観的になる材料は山ほどある。だが、いつも悲観論をとなえていては、考えることを放棄する結果になる。
「悲観論者が天体の神秘を解明したことはないし、地図のない土地を発見したことはないし、人間の精神に新しい地平を切り開いたことも無い」と、ヘンレ・ケラーは書いている。幼児のときに視力と聴力を失いながら、世界三十九か国を訪問し、十一点の本を書き、その人生を描いた二本の映画がオスカー賞を受賞し、視聴覚障害者の権利のために八十七歳で死ぬまで戦った人物だ。
ドワイト・アイゼンハワーは第二次世界大戦でノルマンディ上陸作戦の指揮をとり、戦後にアメリカの第三十四代大統領になったが、もっとあけすけにこう語っている。「悲観論で勝てた戦いはない」
二十一世紀の今後、恐ろしい事態になりうる点をあげていけば、きりがないように思える。中国とアメリカが戦争に突入する可能性。1930年代型の世界的大恐慌で何千万人もが失業し、数十年にわたる経済発展が無に帰す可能性。テロリストが核兵器、炭素菌、塩素ガスを使うか、企業と政府の決定的なコンピュータ・ネットワークへのサイバー攻撃を仕掛ける可能性。メキシコからイラン、南アフリカにいたる世界各国で水不足が深刻になる可能性。対立するNGOの間で武力衝突が起こる可能性。ナノ・レベルの新たな病気が蔓延する可能性。マインド・コントロール技術が広まる可能性。クローン人間が大量に生まれる可能性。そしてこれらが組み合わされ、収斂する可能性。これら以外にもちろん、地震があり、津波があり、森林破壊があり、地球温暖化がある。
これらはすべて、心配する価値があることだ。だが、いまの悲観論の多くは流行にすぎない。19世紀半ばに産業革命がヨーロッパ全体に波及し、反対派に恐怖を与えた時期に似ている。近代化への恐れと怒り、近代化に伴う世俗主義と合理主義の拡大への恐れと怒りから、ロマン派の悲観主義が生まれ、バイロンやハインリッヒ・ハイネの詩、リヒャルト・ワグナーの音楽、ショーペンハウワーの悲観論哲学で表現された。忘れてはならないのはマックス・シュテルナーだ。アダム・スミスの著作をドイツ語に訳した無政府主義哲学者だが、何よりも悲観論の専門家であった。母親は精神障害に苦しんだ。妻は出産の際に子供とともに死亡した。再婚した後、妻の資産を投資して全額を失った。そして二番目の妻も死んでいる。
ノスタルジア軍団
新しい文明が古い文明を浸食する時期には、二つをくらべる動きが起こるのは避けがたい。過去の文明で有利な立場にあった人や、うまく順応してきた人がノスタルジア軍団を作り、過去を称賛するか美化し、まだ十分に理解できない将来、不完全な将来との違いをいいたてる。
見慣れた社会の消滅で打撃を受け、変化のあまりの速さに未来の衝撃を受けて、何百万、何千万の欧米人が工業経済の名残が消えていくのを嘆いている。
職の不安に脅え、アジアの勃興に脅えているうえ、とくに若者は映画、テレビ、ゲーム、インターネットで暗黒の未来のイメージにたえず接している。メディアが作り上げ、若者の憧れの的とされている「スター」は、街角のチンピラや傍若無人な歌手、禁止薬物を使うスポーツ選手などだ。宗教家からはこの世の終わりが近いと聞かされている。そしてかつては進歩的だった環境運動がいまでは大勢力となり、破局の予言をふりまいて、「ノーといおう」と繰りかえし呼びかけている。
だが、これからの時代にはあらゆる種類の驚きが満ちあふれ、善と悪、良いものと悪いものという区分がつきにくくなるだろう。そして何よりも大きな驚きとして、本書で論じてきた革命的な富の体制と文明によって、さまざまな問題があっても、もっと素晴らしく、健康で、長生きで、社会に役立つ人生を送る機会を数十億の人類が得られるようになるだろう。
本書で強調してきたように、通常の経済学の枠組みでは新興の富の体制は理解できず、この制度の将来をかいま見るだけのためですら、先史の昔からいままで、そして将来まで、あらゆる富の創出の土台にある基礎的条件の深部に注目する必要がある。
これも本書でみてきたように、基礎的条件の深部には仕事の種類、分業、交換、エネルギー供給、家族制度、特徴的な自然環境などがある。だが、基礎的条件の深部にある要因のうち、ほとんど検討されていないが、将来にとってとくに重要なものに、時間、空間、知識があり、いずれも専用の図書館が必要になるほどのテーマである。
毎日のニュースでワン・フレーズの形で取り上げられる経済学は、エコノランドでいや
というほど議論されているが、経済の現実のうちごく一部に焦点をあてているにすぎないのは明らかである。本書ですら、ひとつの本という制約があるので、富の創出というテーマで考慮すべき要因を常識的な見方よりはるかに拡張しようと試みたものの、完全な像を示すまでにはまったくなっていない。
それでも本書では、いま仕事の場でも家庭でも、時間が極端に不足していると感じる人が多い理由を示した。毎日のスケジュールが不規則になり、企業に時間を盗まれ、無給の「第三の職」を押し付けられていることを示した。商品を市場に出し、やがて引き揚げるペースが変化していることも示した。そして本書で示したように、活動の一部を同時化することで、他の部分でかならず非同時化が起こり、そのためにどれだけのコストがかかるかは分からない。いま、富の基礎的条件の深部にある時間要因で、革命的な変化が起こっているのである。
それと同時に、富の空間的な場所が劇的に変化し、富を生み出す企業と技術の空間的な場所も劇的に変化している。これも本書で示したように、いまの反グローバル化の活動家が全員、荷物をまとめて家に戻ったとしても、経済統合の動きは遅くなり、経済以外の面では世界的な統合の動きが速まるだろう。これも、時間と空間の接点が変化し、非同時化が起こっている例のひとつである。
しかし、これらの変化も知識システムで起こっている革命的変化との関連でみていかなければ、いま起こっている変化がもつ革命的な変革力の全体像をかいま見ることもできない。いまの変化は経済だけに影響を与えるものでなく、企業にとって、「知識管理システム」を作ればそれで安心というわけにはいかない。
いまの変化は決定を下すときの方法に影響を与え、決定の基礎に有る真実と嘘の見分け方にまで影響を与える。いま、真実と嘘を見分ける長年の基準すら、攻撃を受けている。そして知識のうち、経済の発展にとくに重要な自然科学が大規模な攻撃を受けている。
自然科学は前述のように、ほとんどの人が考える以上に厄介な状況にある。基礎研究に割り当てられる資金が減っているといった目先の問題より、はるかに深刻な危機に陥っている。自然科学が生き残っているのは、それを受け入れる文化があるからだ。そしてその文化が自然科学に敵意をもつようになってきた。この点をよく示すのは、進化論に対する攻撃が強まっている事実だ。1925年のスコープス裁判で決着がついたとみられていた創造論者による攻撃が復活しているうえ、いわゆる「知的計画」運動による攻撃がくわわっている。
自然科学はいま、ポストモダン思想の残滓と大はやりのニュー・エイジ宗教を中心とする主観主義の砂嵐を浴びている。自然科学の影響力を弱めている要因にはさらに、科学者と製薬会社などの企業との関係で不祥事が起こっている事実である。マスコミが繰り返し、科学者を悪魔として描いている事実がある。今後予想されるバイオ技術の発達で、人間とそれ以外を分ける基準が脅かされるという恐れがある。
それ以上に重要な点として、科学的方法が攻撃されている。攻撃しているのは「真実の管理者」であり、神秘的な啓示から政治的、宗教的な権威まで、自然科学以外の基準に基づく判断を好んでいる。真実をめぐっていま起こっている戦いは、基礎的条件の深部にある知識との関係が変化していることの一部である。
生産消費者の経路
このように時間、空間、知識の使い方が革命的に変化している事実を背景に、もうひとつ、予想されていなかった歴史的な動きが起こっている。本書で論じてきたように、「生産消費」が復活しているのだ。
太古の昔、われわれの祖先は食料、衣料、住宅をみずから生産していたのであり、通貨が発明されたのははるかに後のことだ。当時、消費する必要のあるものは自分で生産していた。その後、何万年もの間に徐々に、人類は生産消費を減らし、通貨と市場に依存するようになった。この点を考えた人の間でも、生産消費は減少しつづけるというのが常識になっていた。市場外で非金銭的な価値を生み出す人はさらに減少し、無視できるほどになるとみられていたのだ。
だが、正反対の動きがいま起こっている。生産消費は第一の波の形では減少しているが、新しい第三の波の方法で急速に増加しているのである。生み出す経済的価値が増え、金銭経済に提供する「タダ飯」が増え、その経路も増えている。金銭経済の生産性を高めているのであり、WWWとリナックスの例が示すように、世界でもとくに強大な政府や企業の一部にすら挑戦している。
生産消費によっていずれ、たとえば失業という問題の扱い方が変わる可能性もある。1930年代の大恐慌とケインズ経済学の勃興以来、公的資金を金銭経済に注入し、消費需要を刺激し、それによって職を生み出すことが失業問題の典型的な解決策の一部となっている。この政策では、百万人が失業しているのなら、百万の職を創出で問題が解決するというもっともな想定が基礎になっている。
しかし、知識集約型の経済では、この想定は成り立たない。第一に、アメリカでも他国でも、いまでは失業者が何人いるかすら分からなくなっているし、失業者という言葉の意味すら分からなくなっている。いわゆる「職」と個人事業主とを組み合わせていたり、無給の消費活動で価値を生み出したりしている人がきわめて多くなっているからだ。
第二に、それ以上に重要な点として、たとえ五百万の職を創出しても、百万人の失業者が新しい労働市場で求められている知識やスキルをもっていなければ、失業問題は解決できない。失業は量の問題ではなく、質の問題になっているのである。職業訓練や再研修すら考えられるほど役立つわけではない。新しいスキルを学び終わったときにはすでに、経済で求められる知識が変化している可能性があるからだ。要するに、知識経済での失業は工業経済での失業と違っている。構造的なものなのだ。
ほとんどの場合に見逃されている事実がある。失業者すら、実際には働いているのである。失業者も現代人の例にもれず忙しく、無報酬の価値を生み出している。この点も理由のひとつになって、富の体制のうち金銭セクターと非金銭セクターの関係を再検討する必要が生まれている。この二つのセクターはいってみれば、未来の頭脳経済を構成する右肺と左肺のようなものである。
強力な新技術によって生産消費の生産性が向上する。生産消費による金銭経済への刺激の効率をもっと高めるにはどうすればいいのか。富の体制を構成する二つの部分の間で価値がもっとうまく流れるようにする方法はないのだろうか。リナックスとWWW以外にモデルはないのだろうか。報酬が支払われてこなかった貢献に報酬を支払う方法はないのだろうか。おそらくコンピュータを使った多角的なバーターか、ある種の「準通貨」が使えるのではないだろうか。
悲観論者の代表
新しい問題を解決するには、既存の知識の限界を超える思考が必要であり、悪化を続ける世界的エネルギー危機ほど新しい思考を必要としている問題はない。
いま、既存のエネルギー・システムは明らかに、最終的な大崩落に向かっている。エネルギー需要が増えているからというだけではない。インフラが集中型になっており、独占が行き過ぎているからである。このどちらも、工業経済には適していたし、おそらくいまでも適しているだろう。だが、無形資産への依存度を高めている分散型の知識経済には、まったく適していない。
中国、インドなどの国で経済が発展し、エネルギー需要が増加する一方、石油掘削のコストが上昇しており、化石燃料への依存度が高まって環境問題が深刻化している。そして、原油が世界でもとくに政治的に不安定な地域で生産されているという問題にもぶつかっている。
21世紀初めに、年に推定約40京BTU(英国熱量単位)のエネルギーが世界のエネルギー市場で取引されている。石油、天然ガス、石炭、核燃料が中心であり、このなかでもっとも多いのは石油で、全体の約40%を占める。アメリカのエネルギー省が2004年に発表した予想では、2025年には世界のエネルギー需要が62京3千兆BTUになり、54%増加するとみられている。
需要がここまで増加しても、化石燃料価格は「比較的低い水準に止まる」とエネルギー省は予想している。ただし、京都議定書で規定された温室効果ガスの排出削減が実行された場合にはそうはならず、その場合には「原子力が、そして水力、地熱、バイオマス、太陽、風などの自然エネルギーがもっと魅力的になるだろう」という、要するに、興奮するようなことは何も起こらないとエネルギー省は予想する。
これをエネルギー産業専門の投資銀行家として影響力があり、悲観論者の代表といえるマシュー・R・シモンズの予想と比較してみよう。シモンズはエネルギーの将来を示すものとして石油の状況を分析し、世界の主要な油田で埋蔵量の減少が「深刻」になっており、業界が発表する推定埋蔵量は信頼できず、新たな油田の発見のコストが上昇し続けていると論じる。
そのうえ、タンカー、製油所、掘削リグ、人員がいずれも「稼働率が100%に近い」状態になっており、この問題は「解消に10年から数10年かかる」という。それだけでなく、石油会社と電力会社も他の業界の企業と同様にジャスト・イン・タイムに移行しており、供給予備力をぎりぎりまで絞っていて、大惨事が起こりかねない状況になっていると語る。
前述のように、エネルギー危機には非同時化が生み出した劇的な結果という側面がある。業界と市場の予想よりはるかに急激にアジアの需要が増加した結果なのだ。この点で、タンカーの建造が遅れ、製油所が不足し、緊急時用の備蓄が不足している理由が説明できる。
シモンズは説得力のある分析を示した後、この世の終わりのシナリオから離れ、楽観的にこう語る。「人類が創造力をとくに発揮するのは、深刻な危機の時代のようだ」
だが、これらの予想は、全体像を良い方向にか悪い方向にか大きく変えうるさまざまなシナリオを適切に考慮していない。たとえば、中国やインドで社会が混乱し、経済が減速するシナリオ、感染症が蔓延して人口が大幅に減少するシナリオ、中国がマラッカ海峡など、産油地帯の中東からアジアまでの海上までの海上交通路を支配するシナリオがある。そして、ほとんど注目されていない技術変化によってエネルギー需要が減少するシナリオがある。たとえば、製品の小型化がさらに進み、重量が減り、輸送と保管の必要が低下する可能性がある。
それ以上に重要な点は内燃機関の時代が終わり、水素を使う燃料電池に代わる時期が近づいていることである。アメリカ連邦議会下院で科学委員会の委員長をつとめたロバート・ウォーカーはこう語る「何年かたてば、中国で百万台の燃料電池車が使われるようになるだろう。アメリカとくらべて、中国では既存のガソリン流通システムの重荷がはるかに小さい。いずれ110キロワットの燃料電池を積んだ車が、補助電源としても使われるようになる。今後の道筋にはいくつもの失敗があるだろうが、化石燃料の時代は終わろうとしている。
2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(下)
終わりに ー 始まりは終わった 富の未来(下)P.330~P.340
悲観論をとなえるものは、賢明さを装いたい人にとってとくに便利な方法のひとつだ。そして、悲観的になる材料は山ほどある。だが、いつも悲観論をとなえていては、考えることを放棄する結果になる。
「悲観論者が天体の神秘を解明したことはないし、地図のない土地を発見したことはないし、人間の精神に新しい地平を切り開いたことも無い」と、ヘンレ・ケラーは書いている。幼児のときに視力と聴力を失いながら、世界三十九か国を訪問し、十一点の本を書き、その人生を描いた二本の映画がオスカー賞を受賞し、視聴覚障害者の権利のために八十七歳で死ぬまで戦った人物だ。
ドワイト・アイゼンハワーは第二次世界大戦でノルマンディ上陸作戦の指揮をとり、戦後にアメリカの第三十四代大統領になったが、もっとあけすけにこう語っている。「悲観論で勝てた戦いはない」
二十一世紀の今後、恐ろしい事態になりうる点をあげていけば、きりがないように思える。中国とアメリカが戦争に突入する可能性。1930年代型の世界的大恐慌で何千万人もが失業し、数十年にわたる経済発展が無に帰す可能性。テロリストが核兵器、炭素菌、塩素ガスを使うか、企業と政府の決定的なコンピュータ・ネットワークへのサイバー攻撃を仕掛ける可能性。メキシコからイラン、南アフリカにいたる世界各国で水不足が深刻になる可能性。対立するNGOの間で武力衝突が起こる可能性。ナノ・レベルの新たな病気が蔓延する可能性。マインド・コントロール技術が広まる可能性。クローン人間が大量に生まれる可能性。そしてこれらが組み合わされ、収斂する可能性。これら以外にもちろん、地震があり、津波があり、森林破壊があり、地球温暖化がある。
これらはすべて、心配する価値があることだ。だが、いまの悲観論の多くは流行にすぎない。19世紀半ばに産業革命がヨーロッパ全体に波及し、反対派に恐怖を与えた時期に似ている。近代化への恐れと怒り、近代化に伴う世俗主義と合理主義の拡大への恐れと怒りから、ロマン派の悲観主義が生まれ、バイロンやハインリッヒ・ハイネの詩、リヒャルト・ワグナーの音楽、ショーペンハウワーの悲観論哲学で表現された。忘れてはならないのはマックス・シュテルナーだ。アダム・スミスの著作をドイツ語に訳した無政府主義哲学者だが、何よりも悲観論の専門家であった。母親は精神障害に苦しんだ。妻は出産の際に子供とともに死亡した。再婚した後、妻の資産を投資して全額を失った。そして二番目の妻も死んでいる。
ノスタルジア軍団
新しい文明が古い文明を浸食する時期には、二つをくらべる動きが起こるのは避けがたい。過去の文明で有利な立場にあった人や、うまく順応してきた人がノスタルジア軍団を作り、過去を称賛するか美化し、まだ十分に理解できない将来、不完全な将来との違いをいいたてる。
見慣れた社会の消滅で打撃を受け、変化のあまりの速さに未来の衝撃を受けて、何百万、何千万の欧米人が工業経済の名残が消えていくのを嘆いている。
職の不安に脅え、アジアの勃興に脅えているうえ、とくに若者は映画、テレビ、ゲーム、インターネットで暗黒の未来のイメージにたえず接している。メディアが作り上げ、若者の憧れの的とされている「スター」は、街角のチンピラや傍若無人な歌手、禁止薬物を使うスポーツ選手などだ。宗教家からはこの世の終わりが近いと聞かされている。そしてかつては進歩的だった環境運動がいまでは大勢力となり、破局の予言をふりまいて、「ノーといおう」と繰りかえし呼びかけている。
だが、これからの時代にはあらゆる種類の驚きが満ちあふれ、善と悪、良いものと悪いものという区分がつきにくくなるだろう。そして何よりも大きな驚きとして、本書で論じてきた革命的な富の体制と文明によって、さまざまな問題があっても、もっと素晴らしく、健康で、長生きで、社会に役立つ人生を送る機会を数十億の人類が得られるようになるだろう。
本書で強調してきたように、通常の経済学の枠組みでは新興の富の体制は理解できず、この制度の将来をかいま見るだけのためですら、先史の昔からいままで、そして将来まで、あらゆる富の創出の土台にある基礎的条件の深部に注目する必要がある。
これも本書でみてきたように、基礎的条件の深部には仕事の種類、分業、交換、エネルギー供給、家族制度、特徴的な自然環境などがある。だが、基礎的条件の深部にある要因のうち、ほとんど検討されていないが、将来にとってとくに重要なものに、時間、空間、知識があり、いずれも専用の図書館が必要になるほどのテーマである。
毎日のニュースでワン・フレーズの形で取り上げられる経済学は、エコノランドでいや
というほど議論されているが、経済の現実のうちごく一部に焦点をあてているにすぎないのは明らかである。本書ですら、ひとつの本という制約があるので、富の創出というテーマで考慮すべき要因を常識的な見方よりはるかに拡張しようと試みたものの、完全な像を示すまでにはまったくなっていない。
それでも本書では、いま仕事の場でも家庭でも、時間が極端に不足していると感じる人が多い理由を示した。毎日のスケジュールが不規則になり、企業に時間を盗まれ、無給の「第三の職」を押し付けられていることを示した。商品を市場に出し、やがて引き揚げるペースが変化していることも示した。そして本書で示したように、活動の一部を同時化することで、他の部分でかならず非同時化が起こり、そのためにどれだけのコストがかかるかは分からない。いま、富の基礎的条件の深部にある時間要因で、革命的な変化が起こっているのである。
それと同時に、富の空間的な場所が劇的に変化し、富を生み出す企業と技術の空間的な場所も劇的に変化している。これも本書で示したように、いまの反グローバル化の活動家が全員、荷物をまとめて家に戻ったとしても、経済統合の動きは遅くなり、経済以外の面では世界的な統合の動きが速まるだろう。これも、時間と空間の接点が変化し、非同時化が起こっている例のひとつである。
しかし、これらの変化も知識システムで起こっている革命的変化との関連でみていかなければ、いま起こっている変化がもつ革命的な変革力の全体像をかいま見ることもできない。いまの変化は経済だけに影響を与えるものでなく、企業にとって、「知識管理システム」を作ればそれで安心というわけにはいかない。
いまの変化は決定を下すときの方法に影響を与え、決定の基礎に有る真実と嘘の見分け方にまで影響を与える。いま、真実と嘘を見分ける長年の基準すら、攻撃を受けている。そして知識のうち、経済の発展にとくに重要な自然科学が大規模な攻撃を受けている。
自然科学は前述のように、ほとんどの人が考える以上に厄介な状況にある。基礎研究に割り当てられる資金が減っているといった目先の問題より、はるかに深刻な危機に陥っている。自然科学が生き残っているのは、それを受け入れる文化があるからだ。そしてその文化が自然科学に敵意をもつようになってきた。この点をよく示すのは、進化論に対する攻撃が強まっている事実だ。1925年のスコープス裁判で決着がついたとみられていた創造論者による攻撃が復活しているうえ、いわゆる「知的計画」運動による攻撃がくわわっている。
自然科学はいま、ポストモダン思想の残滓と大はやりのニュー・エイジ宗教を中心とする主観主義の砂嵐を浴びている。自然科学の影響力を弱めている要因にはさらに、科学者と製薬会社などの企業との関係で不祥事が起こっている事実である。マスコミが繰り返し、科学者を悪魔として描いている事実がある。今後予想されるバイオ技術の発達で、人間とそれ以外を分ける基準が脅かされるという恐れがある。
それ以上に重要な点として、科学的方法が攻撃されている。攻撃しているのは「真実の管理者」であり、神秘的な啓示から政治的、宗教的な権威まで、自然科学以外の基準に基づく判断を好んでいる。真実をめぐっていま起こっている戦いは、基礎的条件の深部にある知識との関係が変化していることの一部である。
生産消費者の経路
このように時間、空間、知識の使い方が革命的に変化している事実を背景に、もうひとつ、予想されていなかった歴史的な動きが起こっている。本書で論じてきたように、「生産消費」が復活しているのだ。
太古の昔、われわれの祖先は食料、衣料、住宅をみずから生産していたのであり、通貨が発明されたのははるかに後のことだ。当時、消費する必要のあるものは自分で生産していた。その後、何万年もの間に徐々に、人類は生産消費を減らし、通貨と市場に依存するようになった。この点を考えた人の間でも、生産消費は減少しつづけるというのが常識になっていた。市場外で非金銭的な価値を生み出す人はさらに減少し、無視できるほどになるとみられていたのだ。
だが、正反対の動きがいま起こっている。生産消費は第一の波の形では減少しているが、新しい第三の波の方法で急速に増加しているのである。生み出す経済的価値が増え、金銭経済に提供する「タダ飯」が増え、その経路も増えている。金銭経済の生産性を高めているのであり、WWWとリナックスの例が示すように、世界でもとくに強大な政府や企業の一部にすら挑戦している。
生産消費によっていずれ、たとえば失業という問題の扱い方が変わる可能性もある。1930年代の大恐慌とケインズ経済学の勃興以来、公的資金を金銭経済に注入し、消費需要を刺激し、それによって職を生み出すことが失業問題の典型的な解決策の一部となっている。この政策では、百万人が失業しているのなら、百万の職を創出で問題が解決するというもっともな想定が基礎になっている。
しかし、知識集約型の経済では、この想定は成り立たない。第一に、アメリカでも他国でも、いまでは失業者が何人いるかすら分からなくなっているし、失業者という言葉の意味すら分からなくなっている。いわゆる「職」と個人事業主とを組み合わせていたり、無給の消費活動で価値を生み出したりしている人がきわめて多くなっているからだ。
第二に、それ以上に重要な点として、たとえ五百万の職を創出しても、百万人の失業者が新しい労働市場で求められている知識やスキルをもっていなければ、失業問題は解決できない。失業は量の問題ではなく、質の問題になっているのである。職業訓練や再研修すら考えられるほど役立つわけではない。新しいスキルを学び終わったときにはすでに、経済で求められる知識が変化している可能性があるからだ。要するに、知識経済での失業は工業経済での失業と違っている。構造的なものなのだ。
ほとんどの場合に見逃されている事実がある。失業者すら、実際には働いているのである。失業者も現代人の例にもれず忙しく、無報酬の価値を生み出している。この点も理由のひとつになって、富の体制のうち金銭セクターと非金銭セクターの関係を再検討する必要が生まれている。この二つのセクターはいってみれば、未来の頭脳経済を構成する右肺と左肺のようなものである。
強力な新技術によって生産消費の生産性が向上する。生産消費による金銭経済への刺激の効率をもっと高めるにはどうすればいいのか。富の体制を構成する二つの部分の間で価値がもっとうまく流れるようにする方法はないのだろうか。リナックスとWWW以外にモデルはないのだろうか。報酬が支払われてこなかった貢献に報酬を支払う方法はないのだろうか。おそらくコンピュータを使った多角的なバーターか、ある種の「準通貨」が使えるのではないだろうか。
悲観論者の代表
新しい問題を解決するには、既存の知識の限界を超える思考が必要であり、悪化を続ける世界的エネルギー危機ほど新しい思考を必要としている問題はない。
いま、既存のエネルギー・システムは明らかに、最終的な大崩落に向かっている。エネルギー需要が増えているからというだけではない。インフラが集中型になっており、独占が行き過ぎているからである。このどちらも、工業経済には適していたし、おそらくいまでも適しているだろう。だが、無形資産への依存度を高めている分散型の知識経済には、まったく適していない。
中国、インドなどの国で経済が発展し、エネルギー需要が増加する一方、石油掘削のコストが上昇しており、化石燃料への依存度が高まって環境問題が深刻化している。そして、原油が世界でもとくに政治的に不安定な地域で生産されているという問題にもぶつかっている。
21世紀初めに、年に推定約40京BTU(英国熱量単位)のエネルギーが世界のエネルギー市場で取引されている。石油、天然ガス、石炭、核燃料が中心であり、このなかでもっとも多いのは石油で、全体の約40%を占める。アメリカのエネルギー省が2004年に発表した予想では、2025年には世界のエネルギー需要が62京3千兆BTUになり、54%増加するとみられている。
需要がここまで増加しても、化石燃料価格は「比較的低い水準に止まる」とエネルギー省は予想している。ただし、京都議定書で規定された温室効果ガスの排出削減が実行された場合にはそうはならず、その場合には「原子力が、そして水力、地熱、バイオマス、太陽、風などの自然エネルギーがもっと魅力的になるだろう」という、要するに、興奮するようなことは何も起こらないとエネルギー省は予想する。
これをエネルギー産業専門の投資銀行家として影響力があり、悲観論者の代表といえるマシュー・R・シモンズの予想と比較してみよう。シモンズはエネルギーの将来を示すものとして石油の状況を分析し、世界の主要な油田で埋蔵量の減少が「深刻」になっており、業界が発表する推定埋蔵量は信頼できず、新たな油田の発見のコストが上昇し続けていると論じる。
そのうえ、タンカー、製油所、掘削リグ、人員がいずれも「稼働率が100%に近い」状態になっており、この問題は「解消に10年から数10年かかる」という。それだけでなく、石油会社と電力会社も他の業界の企業と同様にジャスト・イン・タイムに移行しており、供給予備力をぎりぎりまで絞っていて、大惨事が起こりかねない状況になっていると語る。
前述のように、エネルギー危機には非同時化が生み出した劇的な結果という側面がある。業界と市場の予想よりはるかに急激にアジアの需要が増加した結果なのだ。この点で、タンカーの建造が遅れ、製油所が不足し、緊急時用の備蓄が不足している理由が説明できる。
シモンズは説得力のある分析を示した後、この世の終わりのシナリオから離れ、楽観的にこう語る。「人類が創造力をとくに発揮するのは、深刻な危機の時代のようだ」
だが、これらの予想は、全体像を良い方向にか悪い方向にか大きく変えうるさまざまなシナリオを適切に考慮していない。たとえば、中国やインドで社会が混乱し、経済が減速するシナリオ、感染症が蔓延して人口が大幅に減少するシナリオ、中国がマラッカ海峡など、産油地帯の中東からアジアまでの海上までの海上交通路を支配するシナリオがある。そして、ほとんど注目されていない技術変化によってエネルギー需要が減少するシナリオがある。たとえば、製品の小型化がさらに進み、重量が減り、輸送と保管の必要が低下する可能性がある。
それ以上に重要な点は内燃機関の時代が終わり、水素を使う燃料電池に代わる時期が近づいていることである。アメリカ連邦議会下院で科学委員会の委員長をつとめたロバート・ウォーカーはこう語る「何年かたてば、中国で百万台の燃料電池車が使われるようになるだろう。アメリカとくらべて、中国では既存のガソリン流通システムの重荷がはるかに小さい。いずれ110キロワットの燃料電池を積んだ車が、補助電源としても使われるようになる。今後の道筋にはいくつもの失敗があるだろうが、化石燃料の時代は終わろうとしている。