アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
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第三の波 第13章 脱画一化へ向かうメディア(2-2)

2015年09月22日 06時01分37秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第13章 脱画一化へ向かうメディア(2-2)
脱画一化したメディア
マスメディアは、第二の波の時代を通して、終始一貫、成長を続け、強大な力を誇るようになった。ところが今日、驚くべき変化が起ころうとしている。第三の波がごうごうと押し寄せ、マスメディアは急速にその影響力を弱めて、ただちに多くの前線から撤退をせまられている。これに代わって進出しはじめたのが、ここでいう「脱画一化メディア」である。
具体的な例として、まず新聞を取り上げよう。第二の波のメディアの最古参である新聞は、いま、その読者を失いつつある。1973年には、アメリカの新聞の総発行部数は、1日、6,300万部に達していた。しかし、1973年以降、発行部数は伸びるどころか、減少しはじめた。1978年には6,200万部に落ち込み、その後さらに下降線をたどっている。日刊紙の購読者も、1972年の69%から、1977年には62%に減少し、アメリカでも、もっとも重要な新聞のいくつかが手痛い打撃を受けた。ニューヨークでは、1970年から1976年の間に、三大日刊紙が合計55万の読者を失った。『ロサンゼルス・タイムズ』は、1973年をピークに発行部数が減り始め、1976年には8万部の減となった。フィラデルフィアの二大紙は15万、クリーブランドの二大紙は9万、サンフランシスコの二紙は8万以上と、軒並み減少している。一方、数多くの小新聞が出現し、それまでアメリカの主要日刊紙とされていた『クリーブランド・ニューズ』、『ハートフォード・タイムズ』、『デトロイト・タイムズ』、『シカゴ・トゥデイ』、『ロング・アイランド・プレス』は、ことごとく主流からしめ出された。同様の傾向はイギリスにも見られる。1965年から75年の間に、全国紙の総発行部数は8%減少しているのだ。
こうした低落傾向の原因を、テレビの出現に求めるだけでは十分ではない。最近、一群のミニ週刊誌、隔週刊行物とか、いわゆる「買物情報」といったものが登場しているが、これらは都会の大市場を相手にすることを避け、特定の地域住民や共同体のために、きめ細かい広告やニュースを提供するようになった。今日の大衆日刊紙は、これらの刊行物との激しい競争に直面している。大都市中心の大衆日刊紙は飽和状態に達しており、深刻な打撃をこうむっているのが現状である。小規模なメディアが機敏に動きまわり、マスメディアのすぐ後に迫っているのである。
次に大衆雑誌の例を見よう。1950年代の半ば以降、アメリカではほとんど毎年のように大衆雑誌が廃刊に追い込まれていった。『ライフ』、『ルック』、『サタデー・イブニング・ポスト』、これらはいずれも廃刊の憂き目にあい、その後復刊した場合でも、発行部数は前よりずっと少ない。
1970年から1977年の間に、アメリカの人口は1,400万も増加したが、雑誌の方は上位25誌の統計で、400万部も減少しているのである。
これと時を同じくして、アメリカではミニ雑誌が爆発的に誕生し、特殊対象や特定地域を狙った何千という新しい雑誌が登場してきた。パイロットや航空機のファンは、かれら向けの何十とある専門誌のなかから、好きなものを選ぶことができる。ティーンエージャー、スキューバ・ダイビング愛好者、退職者、女性スポーツ選手、古いカメラの収集家、テニス狂、スキーヤー、スケートボード愛好者、どれをとっても専門誌のないものはない。また特定地域を対象とした、『ニューヨーク』、『ニュー・ウエスト』、ダラスの『D』、『ピッツバーガー』といった雑誌がどんどん増えている。さらに、地方誌のなかでも特定対象向けの、たとえば『ケンタッキー・ビジネス・レッジャー』とか、『ウエスタン・ファーマー』といった専門誌が誕生し、ますます市場を細分化している。
今日、あらゆる組織、共同体、政治団体、大小の宗教団体は、速くて手間のかからない安価な新型印刷機を使って、みずから出版物を印刷している。もっと小さなグループでさえ、複写機で定期刊行物を次から次へと発行しており、こうした複写機は、アメリカのオフィスならどこにでも設置されている。大衆雑誌は、国民生活に対するかつての強大な影響力を失った。脱画一化雑誌、つまりミニ雑誌が、急速に大衆誌に取って代わろうとしている。
しかし、コミュニケーションの分野で第三の波が与えた衝撃は、印刷メディアにとどまらない。1950年から1970年の間に、アメリカのラジオ放送局の数は、233から5359に増えた。人口が35%伸びる間に、ラジオ放送局は129%増加したわけだ。言い換えれば、アメリカ人65,000人当たり1局だったものが、38,000人当たり1曲になったということである。別の言い方をすれば、だれもがこれまで以上に多くの番組のなかから自分の好きなものを選択できるようになったということであり、聴取者大衆を、増加しつつある放送局が奪い合っているわけである。
放送番組の多様化が進み、これまでのように不特定多数を相手とせず、特定の限られた聴取者を対象とする放送局も急増してきた。教育程度の高い中産階級向けにはニュース専門局ができた。多様な指向を持つ青年層に向けては、ハード・ロック、ソフト・ロック、カントリー・ロック、フォーク・ロック、それぞれの専門局ができている。黒人向けのソウル・ミュージック局、高収入層向けのクラシック音楽局、ニューイングランドのポルトガル人をはじめ、イタリア人、スペイン人、日本人、ユダヤ人といった、アメリカ国内のさまざまな民族集団を対象とした外国語放送局も出現した。政治評論家リチャード・リーブスは、こう書いている。「ロードアイランド州のニューポート市で、ラジオのAM放送のダイヤルをまわしたところ、38局も見つかった。そのうち3局は宗教専門局であり、2局は黒人向けの番組を編成しており、1局はポルトガル語で放送していた。」
さらに、音声によるコミュニケーションの新しい形態が登場し、特殊な放送局に流れた残りの一般聴衆を、容赦なく蚕食していく。1960年代には、小型の安いテープレコーダーやカセットプレーヤーが、若者たちの間に、燎原の火のようにひろがっていった。ところが、10年後の今日、ティーンエージャーがラジオを聴く時間は、60年代に比べて一般に予想されているのとは逆に、減少している。ラジオの全聴取時間の平均は、1967年の一日、4.8時間から、1977年には2.8時間にと急激に落ち込んでいるのである。
そこへ登場したのが市民バンドラジオ(CBラジオ)である。これはアメリカの一般市民に公開されている周波数を利用して交信できる、ウォーキートーキーのようなラジオである。従来のラジオ放送が一方通行であるのに対し(聴取者は番組の送り手に話しかけることはできない)、車にとりつけられたCBラジオは、5ないし15マイル以内なら、運転者同士が相互に連絡し合うことができる。
1959年から1974年の間に、アメリカでは、CBラジオはわずか100万台しか使われていなかった。ところが、「200万台になるのに8ヵ月、さらに300万台になるのには、3ヵ月しかかからなかった」と、ワシントンの連邦通信委員会も驚いている。CBラジオは、まるでロケットの噴射のような勢いで普及した。1977年には、およそ2,500万台が使用され、「お巡りがねずみ取りをしかけているから気をつけろ」とか、祈祷、それに売春婦の客引きにいたるまで、あれこれの連絡が、空中を飛び交うようになった。
ラジオ放送会社は、広告収入への影響を恐れて、CBラジオのために聴取者が減ることはない、と断言している。しかし、広告代理店の方は、かならずしもそうは考えていない。マーステラー広告会社がニューヨークで行なった調査結果によれば、CBラジオの使用者のうち45%が、カーラジオの放送を10ないし15%聴かなくなった、と答えている。この調査でさらに注目すべきは、CBラジオの使用者の半数以上が、カーラジオとCBラジオの両方を同時に聞いている、ということである。
いずれにしても、新聞、雑誌に見られる多様化傾向は、ラジオの世界においても例外ではない。出版界と同様、音声の分野においても、脱画一化が進行しているのである。
しかしながら、第二の波のメディアがもっとも重要な意味を持つ、驚くべき打撃を受けたのは、1977年以降のことである。われわれの世代にとって、もっとも強力で、もっとも多くの大衆を動員できるメディア、これは言うまでもなくテレビであった。ところが1977年になって、ブラウン管がゆらぎはじめたのである。「すべてがおしまいだ。放送や広告業界の幹部連中は、いらいらしながら数字をのぞきこんだ・・・かれらは、いまどういう事態が起ころうとしているのか、半信半疑だった。・・・歴史上はじめて、テレビ視聴時間が低下しはじめたのだ」と『タイム』誌は書いている。
「テレビの視聴者が減るなどと考える者は、かつてだれひとりいなかった」と、ある広告マンも嘆いたものである。
いまでも、いろいろな見方がある。テレビ番組が昔にくらべてくだらなくなった、と言う人もある。同じタイプの番組が多すぎる、とも言われる。テレビ会社の社長たちの首が何度もすげかえられた。新しいタイプのショウ番組が、あれこれと企画された。だが、もっと深い真の理由が、テレビというつくられた虚像の雲間から、ようやくその姿をあらわしたところである。テレビのネットワークが、大衆のイメージを集中管理し、全能を誇った時代は、いまやかげりを見せはじめている。NBCの前社長は、アメリカ三大ネットワークのばかげた視聴率競争を非難し、1980年代末には三社の市場占有率が50%まで落ち込むだろう、と予告している。というのは、第三の波の新しい伝達メディアが進出し、これまで放送界の前線に君臨していた第二の波のメディアの支配を、くつがえそうとしているからである。
ケーブル・テレビジョンは、今日すでにアメリカの1,450万世帯に普及しており、1980年代初期には、ハリケーンのような勢いでひろがる気配を見せている。業界の専門家の予測によれば、1981年末までには、2,000万から2,600万の加入者が見込まれ、アメリカ全世帯の50%が利用できるようになると言う。銅線の同軸ケーブルに代わって、毛髪のように細いファイバーを通して光の信号を送る、廉価な繊維光学システムがとり入れられれば、事態はさらに急速に進むだろう。簡便な印刷機やゼロックスと同様に、ケーブル・テレビジョンは一般視聴者を脱画一化の方向へ導き、小規模な視聴グループを数多くつくりだす。さらに、有線システムによって送り手と受け手の間のコミュニケーションが可能となり、加入者は番組を視聴するだけでなく、積極的に送り手側に呼びかけ、さまざまなサービスを要求できるようになる。
日本では、1980年代初期には、全国の市町村が光波通信ケーブルで結ばれ、ダイヤルさえ回せば、各種のプログラムから、写真、データ、劇場の予約状況、新聞や雑誌の記事にいたるまで、家庭のテレビ受像機で見ることができるようになるだろう。盗難防止や火災予防の自動警報器も、このシステムに組み込まれることになろう。
大坂郊外の住宅地、奈良県生駒市で、私は「ハイ・オービス」システムという実験的なテレビ番組に出演したことがある。それは光ファイバー・ケーブルを使った双方向の映像情報システムで、加入者の家庭にテレビ受像機といっしょにマイクロフォンとカメラをとりつけ、視聴者が同時に情報の送り手にもなりうる、というものである。私が司会者からインタビューを受けていたとき、自宅の居間でこれを視聴していた坂本という婦人が番組に参加し、あまり上手でない英語で気軽に私たちのお喋りに加わった。テレビのスクリーンに彼女の姿が映り、私に歓迎の言葉を述べてくれている間、部屋のなかを小さな男の子がはしゃぎまわるのが見えた。
このケーブル・テレビジョンは、音楽、料理、教育など、あらゆるテーマのビデオ・カセットを備えており、コードナンバーを打ちさえすれば、コンピュータが作動して、見たいものがいつでも家庭の受像機に映し出される仕組みになっている。
いまのところ、これを利用できるのは、およそ160世帯にすぎないが、「ハイ・オービス」の実験は、日本政府の補助と、富士通、住友電工、松下電器、近鉄といった企業から出資を受けている。この試みは、きわめて先進的であり、繊維光学のテクノロジーにもとづいたものである。
大坂へ行く一週間前、私はオハイオ州のコロンバス市で、ウォーナー・ケーブル会社の経営する「キューブ」システムを見学した。これは加入者に30回線のテレビ・チャンネルを供給し(放送局は4局しかないが)、就学前の児童から、医師、弁護士など特殊対象向けの番組を提供しており、なかには、「成人向け番組」まで用意されている。「キューブ」は、世界でもっとも進歩した、コマーシャルベースにのった双方向ケーブル・システムである。加入者には、小さな計算機に似たアダプターが渡されていて、プッシュ・ボタンで放送局と交信する。ホットラインと言うべきこの直通ボタンによって、「キューブ」のスタジオを呼び出し、そのコンピュータを作動させることができる。『タイム』誌は、このシステムを熱っぽい調子で、こう紹介している。「加入者は、地元の市政討論会に自分の意見を表明することもできれば、不要になった家庭用品のガレージセールをひらいたり、慈善オークションで芸術品の入札をすることもできる・・・政治家への質問、地元の素人タレントの人気投票にも、だれでもボタンひとつで参加できる・・・消費者は、各スーパーマーケットの商品の種類、品質、値段をくらべたり、レストランのテーブルを予約することもできる。」
しかし、既存の全国ネットワークをおびやかしているのは、ケーブル・テレビジョンだけではない。
最近、テレビゲームがもっとも人気のある商品となっている。何百万というアメリカ人が、テレビ画面をピンポン台や、ホッケー場や、テニスコートに変えて遊ぶこの小さな装置に熱中している。正統的な政治学者、社会学者にとっては、テレビゲームのこの急速な普及など、とるに足りない、分析の対象外のことと思われるかもしれない。しかし、こうした現象は、近い将来の、いわばエレクトロニクスにかこまれた生活環境に適応するための、事前訓練ないしは社会学習、と見ることもできる。そうした大きなうねりが、もうはじまっているのである。テレビゲームは、一般視聴者をますます脱画一化の方向へ導き、四六時中放送番組をみていた大勢の人たちに、スイッチを切り替えさせてしまった。さらに重要なことは、一見したところ毒にも薬にもならないようなこの装置を通じて、何百万という人びとが、テレビで遊び、これに語りかけ、交信することを学びはじめている、ということである。この過程で、かれらは受け身の受信者から、メッセージの送り手へと変わっていく。これまでテレビにあやつられていた人びとが、今度はテレビをあやつる側にまわろうとしているのである。
イギリスでは現在、テレビ画面を通じて提供される情報サービスがすでに実用化しており、テレビ受像機にアダプターをとりつければ、ボタンひとつでニュース、天気予報、金融事情、スポーツの結果など、各種の必要なデータを知ることができる。このデータは、自動的に活字が打ち出される受信テープのように、テレビ画面に次から次とあらわれる。たぶん近い将来、テレビ画面のどんなデータや画像でも、記録を残したいと思えば、用紙にコピーできるようになるだろう。情報のサービスという点においても、かつてない新しい変化を前にして、幅広い選択が可能になっているのだ。
ビデオ・カセットの再生機や収録機も、急速にひろまりつつある。アメリカでは1981年までに、100万台の普及が見込まれると言う。これによって、月曜日のフットボールの試合を録画しておいて、たとえば土曜日に再生して見ることができるし(ネットワークが提供する映像の同時性をうちこわすことになる)、映画やスポーツ競技のビデオテープの販路が開かれることにもなる。(英語のわからないアラブ人が、評判の高い番組があっても居眠りをしている、といったことはなくなるのだ。たとえば、モハメッドの生涯を描いた映画『メッセンジャー』が、アラビア語の金文字で飾られたカセットケースにおさめられ、これを手にすることができるからである。)また医師や看護士用の医学教材とか、消費者のための、組み立て式家具の組み立て方とか、トースターがこわれた場合の配線の仕方とか、きわめて特殊な内容のテープも、市販されるようになる。さらに重要なことは、ビデオ収録機を持つことによって、消費者がみずから映像の製作者になりうる、ということである。この点においても、一般視聴者は脱画一化の方向へ向かうことになるのだ。
最後に国内放送衛星について触れておこう。テレビ局は、放送衛星を利用することによって、既存のネットワークにたよらず、わずかな経費でどこへでも自由に電波を送れるようになる。これによって、個別の番組を供給するための、一時的なミニ放送網が可能となる。1980年末には、放送衛星から電波を受信するケーブル・テレビジョン地上局は、1,000局にのぼるだろう。「そうなれば、放送番組の配給元が、国内放送衛星の使用料さえ払えば、即座に、全国的なケーブル・テレビジョン放送網を利用することができる・・・どんなシステムのグループに対しても、番組を選択供給することができる」と、雑誌『テレビ・ラジオ時代』は書いている。ヤング・ルビカム広告会社の電子工学メディア担当副社長ウイリアム・J・ドネリーは、「国内放送衛星は一般聴衆をより細分化し、また全国放送番組をより多様化させる」と述べている。
以上、マスディアにおけるさまざまな進歩、発展について述べてきたが、ここにはひとつの共通の現象がある。すなわち、こうした変化は、不特定多数のテレビ視聴者を細分化し、文化の多様化を推進すると同時に、今日まで完全にわれわれのイメージを支配してきたテレビ・ネットワークの、強大な神通力に深刻な打撃を与えた、ということである。『ニューヨーク・タイムズ』紙の洞察力に富んだコラムニスト、ジョン・オコーナーは、こう要約している、「ひとつだけ、確かなことがある。もはや商業テレビは番組内容や放送時期を一方的に決めることはできない、ということだ」と。
表面的にはなんの関連もない、散発的な現象と見えるものが、実は緊密な相関関係を持っており、こうした変化がひとつの大きなうねりとなって、新聞やラジオから雑誌やテレビにいたる、広大なメディアの地平線を席巻しているのだ。マスメディアは、いま大攻勢を受けている。新しい、細分化されたメディアが、細胞分裂のように増殖し、第二の波の社会全体を完全に支配していたマスメディアに挑戦し、時にはその座を奪おうとしているのである。
第三の波は、真の意味で新しい時代、脱画一化メディアの時代を拓こうとしている。新しい「情報体系」が、新しい「技術体系」とともに出現しようとしている。この「情報体系」は、すべての領域でもっとも重要なもの、つまりわれわれの頭脳のなかの領域にまで、きわめて強い影響力を与えることになろう。こうした諸変化が一体となって、世界についてのわれわれのイメージと理解力を、根底から覆してしまうのだ。

「瞬間情報文化(ブリップ・カルチャー)」
マスメディアが脱画一化すると同時に、われわれの精神が細分化されるようになる。第二の波の時代には、マスメディアが規格化されたイメージをたえずわれわれに注ぎ込み、批評家という大衆心理なるものをつくりだした。今日では、大衆がすべて同じメッセージを受けとるようなことはなくなり、代わって、より小規模なグループに細分化された人びとが、自分たちで作り出したおびただしい量のイメージを、相互に交換している。社会全体が第三の波の特色である多様化へと移行していくとき、新しいメディアもまた、この変化を反映し、さらにそれを促進していく。
このことは、ポップミュージックから政治にいたるまで、あらゆる事象について国民の意見が分かれ、一致点を見出し難い状況が生じている背景を、説明する手がかりを与えてくれるであろう。コンセンサスを得られる状況ではなくっているのだ。われわれのひとりひとりが、相矛盾し、相互に関連のない、断片的なイメージ群によって包囲され、電撃的な攻撃を受け、これまでいだいてきた古い考え方はゆさぶられている。イメージの断片は、レーダーのスクリーン上に物体の位置を示す発光輝点のように、点滅する影の形(ブリップ)をとって、われわれに放射されてくる。事実、われわれは「瞬間情報文化(ブリップ・カルチャー)」のなかで生活しているのである。
評論家ジェフリー・ウルフは、「小説が扱う分野は、ますます狭くなり、微細なテーマに入り込んでいる」と嘆き、小説家は「次第に気宇広大な作品が書けなくなっている」とつけ加えている。ダニエル・ラスキンは『国民年鑑』や『なんでも早分かり』といった類の圧倒的に人気のある手引書を批評して、ノン・フィクションの分野においても、「精力を費やして、総合的に、なにかひとつの体系を打ち立てようとする作品はあまり望めなくなっているようだ。それに代わるものとして、手当たり次第に、ことさら面白そうな断片を寄せ集めたものが、評判がいい」と書いている。しかし、われわれのイメージが崩壊して、点滅する点のようになってしまっているという現象は、書物や文学の範囲にとどまらない。新聞や、エレクトロニクスを使ったメディアにおいても、それはいっそう、顕著である。
イメージが砕かれ、瞬時にあらわれては消えて行く新しい型の文化のなかで、第二の波の人びとは、情報の集中攻撃を受けて戸惑い、方向性を見失っている。かれらは、1930年代のラジオ番組や、1940年代の映画を懐かしむ。また新しいメディアが続出する環境に疎外感を持っている。というのは、ほとんど聞くものすべてがかれらを脅かし、狼狽させるだけでなく、かれらが目にし、耳にする情報の扱われ方そのものが、なじみにくいからである。
連続性をもって相互に関連し、有機的、総合的につながり合う一連の観念に代わって、レーダーのスクリーン上の発光輝点のように、非連続的で瞬時にきらめく、最小単位の情報に、われわれは身をさらしている。広告、命令、理論、ニュースの断片、と形はさまざまだが、これらの情報は、いずれもそれぞれ一部が省略されたごく少量のもので、これまでの脳裏のファイルには、ぴったりと納まらない。しかもこれらの新しいイメージは、なかなか分類しにくい。それは古い概念的な範疇を逸脱しているからでもあり、また、あまり奇妙な形で紹介され、またたくまに消えてしまい、一貫性に欠けているからでもある。第二の波の人びとは、瞬間情報文化の渦に巻き込まれて翻弄され、新しいメディアに対して内心の怒りを抑えきれずにいる。
第三の波の人びとは、これとは対照的である。30秒コマーシャルで分断される90秒の断片的ニュース、断片的な歌や歌詞、新聞の見出し、風刺マンガ、コラージュ、ちょっとした時事解説、コンピュータのプリントアウトといった、瞬間情報の集中爆撃を受けても、かれらは、そのなかで平然としている。貪欲な読者たちは、使い捨てのペーパーバックスや特殊な専門誌をむさぼり読み、莫大な量の情報をすばやく読み込んでしまう。そして、新しい概念や比喩によって、多量の瞬間情報を、手際よく、有機的な全体像にまとめ上げる。かれらは、第二の波の規格化されたカテゴリーや構造のなかに、新しい最小単位のデータを押し込めようとはせず、かれら独自の枠組みをつくりあげ、新しいメディアが放射する、ばらばらな瞬間情報を、みずから繋ぎ合わせるすべを身につけている。
現在、われわれの精神に求められていることは、単に既成の現実像を受け入れることではなく、新たな現実像を創造し、たえずこれを更新していくことである。これは途方も無い負担である。しかしこの努力が、より際立った個性を生む。つまり、文化と同様、人間性も多様化していくのだ。新たな重圧に耐えかねて、無関心や怒りのなかに閉じこもってしまう人もいるだろう。また一方では、十分に陶冶され、常に成長を続ける有能な人材として、より高度な水準で行動しうる人もいる。(いずれの場合も、緊張の度合いには差があるとしても、第二の波の時代の社会学者や空想科学小説家たちが予見した、画一化され、規格化された制御しやすいロボットとは、似ても似つかぬ人間像である。)
文明の脱画一化現象は、メディアの変化が如実に物語っており、同時にまた、メディアがその傾向にいっそう拍車をかけている。この脱画一化こそ、われわれが相互に交換する情報量を飛躍的に増大させたのである。現代社会が次第に「情報社会」になりつつたるというのは、このような情報量の増加があってのことである。
文明の多様化が進み、テクノロジーやエネルギーの形態、それに、そこに生活する人びとが多様化されればされるほど、そうした多様性を持ったものが全体としてひとつのまとまりを保つためには、情報もまた、この激しい変化に対応して、文明を構成する各要素のすみずみにまで、ゆきわたっていかなければならない。とくに激しい変化の重圧に見舞われている場合は、なおさらのことである。ひとつの組織を例にあげれば、その組織が分別ある行動をとろうとするなら、ほかの組織がどのように変化に対処しているかを、多かれ少なかれ、前もって知っておかなければならないだろう。個人についても同様である。われわれが画一的であれば、相手の行動も予知するために、互いを知る必要などないのである。逆に、われわれの周囲の人たちが、より個性化し、多様化されれば、われわれはより多くの情報を必要とし、相手がわれわれに対してどんな行動をとろうとしているのか、たとえ大雑把であるにせよ、あらかじめ知っておかなければならない。われわれは、こうした予測を持たなければ、行動を起こすことができないばかりでなく、他人と共存していくことすらできないのである。
その結果、人びとも組織も、たえずより多くの情報を必要とするようになり、たえず増大しているデータの流れを処理する大きなシステムが作動するようになるだろう。社会のシステムが首尾一貫して機能していくために必要な大量の情報と情報交換の迅速化に、第二の波の情報体系はもはや対処できず、その重圧に押しつぶされようとしている。第三の波は、この時代おくれになった構造を打ち壊し、これに代わるべき新しい体制を構築しようとしているのである。