アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

カレン・トフラーについて

2011年05月29日 22時21分22秒 | 富の未来(上)
カレン・トフラーに関わる点は、著書の前文ならびに謝辞等に記載されている
内容から理解できます。

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1991,10「パワーシフト」
文頭  カレンへ 二人から愛をこめて
677ページ 謝辞
『娘のカレンには、どんな言葉で気持を表したらいいか分からない。原稿
整理の最後の数週間は、特に重圧の下で頑張ってくれた。重要な幾つか
の章での間違いの有無、最新データとの照合、文献や注釈の整理、それ
から索引の検証と続いた。本書の場合、これは機械的作業では叶わなか
った。なぜなら『未来の衝撃』、『第三の波』、その他の我々の仕事を含め、
索引については概念の整合性が必要とされるからである。』


1992,11「戦争と平和」21世紀、日本への警鐘
文頭  カレンへ 二人から愛をこめて 
408ページ 謝辞
『しかし、なんと言っても、この変化の加速化する世界をにらんで、各ペ
ージの資料をいつも最新のものに整えてくれた娘のカレン・トフラーに
は、いちばん感謝しなければなるまい。彼女の部屋はいつも夜遅くまで
明かりがついており、どんなに忙しい時も知的なユーモアを持ち続けて
いた彼女には頭がさがる。もちろんカレンといっしょに、事実の正確さ
に気をくばってくれ、専門的な知識でよく私たちを助けてくれたデェボ
ラ・E・ブラウンさんにもあわせてお礼を述べておきたい。』

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しかし、2000年代に入り、トフラー夫妻の著書がなかなか翻訳・出版されていない
状況が続きました。それは、娘の死だった訳です。

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2006,6「富の未来 上・下」
25ページ はじめに
『最後に、筆者夫婦のひとりっ子、カレンの病気が長引き、ついに死亡し
たために本書に集中できなくなり、執筆が長引くことになった。妻のハ
イジは何年にもわたって昼夜を問わずカレンの病床に付き添い、病気と
闘い、病院の官僚制度と闘い、医療の無知と戦ってきた。』


2007,7「生産消費者の世界」
91ページ 「人間」を再定義する
『宗教上の理由でES細胞の研究を支持してはならないと言うことは容易で
す。しかし、ES細胞の研究は病気で苦しんでいる人びとのすばらしい治
療法につながります。倫理的問題の解決が必要になりますが、技術の導
入や医学の進歩は重い病気に苦しむ患者、子どもを救うのです。道理に
かなっていませんか。推進すべきではありませんか。現在、子どもたち
の命を奪う多くの病気の治療を可能にするような技術の変容が見られま
す。難病で一人娘を失った親としては、わたしは新しい医療技術を支持
します。もっと早く開発されていたら娘も救われたかもしれません。』


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第三の波が、著者の論理の中心のように思われがちですが、暦年別に読み込むと
トフラーの「未来学」は常に様々な社会事象を取り入れて進化していることが、
わかります。特に富の未来に至った段階で、パワーシフトで取り上げた「暴力・金力・
知力(知識)」の三要素が、富を構成しており、無限の知識にも「死知識」が存在し、
時間と空間の同時化と非同時化にあって富が変化することを主張しています。
経済学における基礎的要因の深部という、斬新な指摘をすることになりました。
(次回へ続く)




アルビン・トフラーの青年~壮年時代プロセス (続き)

2011年05月18日 10時38分02秒 | 第三の波
アルビン・トフラーの青年~壮年時代プロセス (続き)

 アルビン・トフラーは、大学教授ではなく、ジャーナリストであり、悲観論を排した未来学者だと言えます。著者流の言い方をすれば、もぐらのように大学の教授部屋にこもって、延々と論理を弄ぶ男爵領の住人ではないと。
 若い世代に対して、強い危機感を覚えており、自らの若い時代の原体験を繰り返し述べ、先般のNHK資料のほか、青年時代の経験を述べている箇所が多くあります。
 
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 近著では、「富と未来(上)」はじめに P.23~
『だが経済学はどの学問にもまして、現実の生活に根ざしていなければならない。二人の筆者のどちらにとっても、若いころの「現実の生活」には、工場で働いた忘れがたい五年間がある。押し抜き機や組み立てラインで働き、自動車や航空機エンジン、電球、エンジン・ブロックなどの製造にくわわり、鋳物工場のダクトのなかをはいまわり、大ハンマーを振るうといった肉体労働を行った。こうして、製造業が底辺からどうみえるかを学んだ。失業がどういうものかも、実感している。』講談社刊2006.6.7


「生産消費者」の時代 知識経済が未来の富を生む P.13~ P.16 インタビュー
『田中 まず、あなたの未来学の方法論についてうかがいます。なぜ「未来学」という
    手法を考えられたのでしょうか。
 トフラー わたしは未来学者になりたいというより、本を書きたかったんですね。
    これは7歳のころから考えていたことです。
 田中 どんな作家になりたかったのですか。
 トフラー 7歳のときは、そこまで具体的には考えていませんでした。両親は、作家になると生活が大変ではないかと心配していまし
た。わたしは1928年の生まれですが、大家族でおじとおばも一緒に暮らしていました。彼らはいわゆる大恐慌時代の知識人で、おばは詩を書き、おじは本の出版の仕事などをして、信念を貫いていたのですね。シソーラス、つまり辞典みたいなものですが、14歳のときにもらった本をまだもっていますよ。ですからおじ、おばの影響はとてもおおきなものでした。でも、作家になりたいと思っていたものの、具体的にどんな本を書こうという考えはありませんでした。その後、あまり人が経験したことがないような紆余曲折がありました。大学を出たあと、5年間、工場で働いたわけですから。
田中 それはどの地域でですか?
トフラー 中西部のオハイオ州です。産業の現場で修士号の勉強をしたようなものです。その結果、首都ワシントンに行くチャンスを得ました。そのときにはジャーナリストとして新聞の仕事をすでにやっていて、ワシントンに派遣されたのです。工場からホワイトハウスへ行くまでには2年間のギャップがありましたが、そのようなことはあまりないことですし、わたしにとってはすばらしい経験でした。
 田中 つまり、二つの世界を体験されたのですね。一つは本当に社会の根幹を支えている産業の基盤、もう一つは頂点。まさに市民社会の構造を見たわけですね。
 トフラー そのとおりです。工場での生活を体験し、失業も経験し、楽な思いはしませんでした。仕事がないということは、経済的なことよりも もっと心理的に個人に対して悪い影響を与えます』NHK出版 2007.7.25

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二人の筆者の、もうひとりとは奥さんのハイジ・トフラーです。
名著「第三の波」のはじまりにこうあります。
『ハイジへ -
  このテーマについては絶対に世に問うべきだという彼女の強いすすめで、私は「第三の波」を書く決心がついた。彼女は私の考えについて入念かつ詳細にわたって意見を述べてくれたが、それとともに彼女のプロの編集者としての才覚は、この本の各ページによくにじみでている。私が本書を書きあげるにあたって、彼女は大変な貢献をしてくれたが、それは、同僚として、知的伴侶として、友人として、恋人として、そして妻として、通常考えられる域をはるかに超えていた。』
と記述されています。

うらやましいですね。うちの女房はテレビばっかり見ているバカ女なんで、こういう伴侶がそばにいれば、もっと仕事が出来たかもしれません。まあ、縁の仕方でしょうか。

 さて、トフラーの愛情深さは、ハイジばかりではなく一人娘のカレンへも注がれています。1970年10月に発刊した「未来の衝撃」のはじまりの部分には

  『親愛なる両親、妻ハイディおよび娘カレンのために・・・』そして、娘カレンは「第三の波」以降の著作物の手伝いをしていくのですが・・・・
不幸な事態が訪れようとは思ってもみませんでした。次回へ続く・・・・・・・・・

 

アルビン・トフラーの青年~壮年時代プロセスについて

2011年05月14日 23時52分02秒 | 第三の波
過去の資料の中で、トフラーは何度も日本を訪れており、特にNHK関係の資料ならびに
インタビューが多数あります。
今回は、これらの記事の中で、1982年の取材ノートを参考にしながら、トフラーの
思想(未来学)形成を学びたいと思います。

1.アルビン・トフラーの青年(1950)~壮年(1981)時代プロセス  NHK資料より
取材ノート 鈴木健次
 「第三の波」の撮影は、昨年(1981年)9月、新潟湾で荷役中の帆走タンカー「新愛徳丸」にトフラ-夫妻を迎えて始まった。コンピューターの最新技術を利用して、再生可能な風力エネルギーを最大限に活用するこの船を、第三の波の象徴として選んだのである。もっともタンカーといっても小さな船で、船長が招じ入れてくれたサロンなるものも6畳くらいしかない。ここに15人のスタッフが機材と共に乗り込んだのだから、相当な混雑である。おまけに陽はカンカン照り、重油をおろすにつれて船体は傾き、発電用のエンジンは轟き音をたてる。NHKのスタッフのなかには、気分が悪くなるものも出る始末だった。
   ところが、トフラー夫妻は平然たるもの、「アルビンと私が働いていた工場なんて、とてもこんなものではなかったのよ」というハイジ夫人の言葉が印象的だった。
   1950年、22歳の痩身の青年だったアルビン・トフラーは、インクの香りも新しいニューヨーク大学の卒業証書を手に、ガールフレンドと連れ立ってアメリカ中西部に移った。自動車産業などで有名なこの地帯は、世界の心臓といわれた50年代のアメリカのなかでも、その鼓動の源泉といってよかった。彼はそこで就職し、同窓だったガールフレンド、ハイジと結婚した。共稼ぎだった。2人ともエリート社員だったわけではなく、溶接工、組立工などとして粉塵を吸い、チェーンのかみ合う音のなかで、身も心もきしみ出すような単純作業を繰り返していたのである。
   今回の取材で日産自動車の工場を訪れたトフラーは、溶接ロボットがずらりと並んで稼動する光景を見てこう言った。「このロボットのやっているのとまったく同じことを、僕がやっていたんだ。アッセンブリーラインの流れに必死に追いつきながらね」。彼の脚には、アセチレンの火花でやけどした当時の傷跡が残っている。年老いた女工が機械に指4本もぎ取られ、血まみれになっているのを助け出したこともあった。「畜生!これじゃあもう働けやしない」。その時の老女工の叫びが、今でも彼の耳にこびりついているという。
   その後トフラーは、組合新聞の記者、「フォーチュン」誌の編集者などを経て、ミリオンセラー・ライターに転身する。しかし、こうした経歴を持つ彼が、現在工場で進行中の変化に、きわめて深い関心を払うのは当然であろう。世界各国での撮影を終わったトフラーに、いちばん印象に残った取材は?ときくと、直ちにシリコンバレーという答えが返ってきた。工場の設備や製品が特に先駆的なのではない。だがそこには、新しい労働文化ともいうべきものが生まれていると言う。
   トフラーが訪れたコンピューター会社、アップルの社長は30歳そこそこで、Tシャツにジーンズ姿、はだしで彼を出迎えた。もちろん社員も思い思いの服装で、完全なフレックス・タイムである。日本の企業の多くが画一的な採用試験を実施し、採用者に制服を着用させ、社歌を斉唱させて従業員の質や考え方を同質化しようとしているのに比べると、きわめて大胆に多様性を認めようとしている。
   6,000人の博士が働いているというシリコンバレーでは、かつての労働集約型の企業が姿を消し、頭脳集約型に変わろうとしているのだ。それとともに一定のタイプ、一定の水準の人間ばかり採用せず、さまざまな能力を持つさまざまなタイプの人間が自由に働き、自由に意見を交換するなかから、時代に対応する創造的アイデアが生まれるという考えが一般化してきたのである。
 今回の取材を通じて、トフラーは日本がアメリカと共に、第三の波の先端を行く国であることを再認識したと言っている。大企業を中心とする終身雇用制が、ロボットに代表される新しいテクノロジーの導入に際して、失業という直接のインパクトから日本人を守っており、それが新しい産業に対する抵抗を少なくしている点にも注目していた。しかし、彼は「超大国日本」を無条件に信じているわけではない。それは神話にすぎず、欧米の政界や財界の指導者が、自分たちの重大な失策を糊塗するために、その神話を意図的に利用しているのだと彼は言う。第三の波の社会に移行するに当たって、「株式会社日本」の均質性と極端な中央集権は、むしろマイナスに作用しかねないと警告している。
   トフラーは特に、日本の家族制度が新しい産業のあり方に対応する変化をとげないと、第三の波への移行を阻害することになるだろう、と語っていた。
   私はニューヨークのトフラーの自宅で、生まれてはじめてワードプロセッサーを見た。日本に、オフィスオートメーションのブームが押し寄せる直前である。データーバンクと結びついたこの機械を利用し、しかもハイジ夫人の「同僚として、知的伴侶として、友人として、恋人として、そして妻として、通常考えられる域をはるかに超えた協力を得て」、彼は『第三の波』を書いた。かつて第二の波を象徴する工場労働者だったトフラー夫妻は、見事に第三の波のエレクトロリック住宅(コテッジ)の生活に移行したと言ってよいかも知れない。
   それはともかく、原作者といっしょに台本から繰り上げていく今回のような共同制作は、NHKでも初めての試みであった。日米の間では、番組の好みも制作体制もまるで違う。私たちの間には、毎日のように電話やテレックスが行き交い、ニューヨークで、東京で、ロスで、直接談判も回を重ねた。『フューチャー・ショック』の著者も、あらためてカルチャー・ショックを実感したようだ。  彼の発言を、内緒でちょっと紹介しよう。
   「地球の反対側では、一つの意味を持たせたテレックスが、別の意味を持つこともあるらしいね。僕は、情報システムの発達を前提にしてエレクトロニック住宅なんて言っているが、こうして君と顔と顔をつき合わせて話しあって、初めて問題を解決できたわけだ」。
   エレクトロニック住宅(コテッジ)、生産=消費者(プロシューマー)など耳新しい言葉を駆使しながら、第三の波が歴史上初めて、多様な価値観を許容する人間性にあふれた、健全な文明をもたらす可能性があると説くトフラーの主張には、反論も反証もあるかと思う。日本で最後の撮影を終えた彼は、こう言い残して帰国した。
 「僕は社会批評家だから、面白いテレビ番組を提供するだけでは満足できない。望ましい社会変化を推進したいと思っているのだ。番組を見た人々が番組に呼応して、革命的な変革を必要としている企業や学校や家庭のなかで、未来に関する議論と行動を起こしてくれることこそ、僕のもっとも願うところだ」。 1982年4月NHK「第三の波」プロジェクト  チーフプロデューサー
 *出典:写真でみる第三の波 21世紀のパスポート P.154~P.156 日本放送出版協会

速度の違い 官僚機構とNPO,NGO(社会団体)は大きく異なる。

2011年05月09日 19時44分02秒 | 富の未来(下)
第五章 速度の違い   富の未来(上) (2006.6.7講談社刊) P.72~P.90より
今日の世界の主要な経済国、アメリカ、日本、中国、そして欧州連合(EU)はいずれも危機に向かっている。どの国も望んでいない危機、政治指導者に備えがない危機、今後の経済の発展を制約する危機だ。危機が迫っているのは、「非同時化効果」の直接の結果であり、基礎的条件の深部でもとくに根本的な要因のひとつ、時間を不注意に扱っていることによるものである。
世界各国はいま、それぞれ速度には違いがあるが、いずれも先進的な経済を築くために苦闘している、だが、経済や政治、社会の指導者のほとんどが明確には理解していない単純な事実がある。それは、先進的な経済が先進的な社会を必要とするという事実だ。どのような経済も、それを取り巻く社会の産物であり、社会の主要な制度に依存しているのだから。

ある国が経済発展の速度を速めることができたとしても、社会の主要な制度が時代遅れになるのを放置していれば、富を生み出す能力がいずれ低下する。これを「速度一致の法則」と呼ぼう。封建的な制度は世界のどこでも、工業化の進展を妨げた。いまでは工業時代の官僚組織が、知識に基づいて富を生み出す先進的制度への動きを遅らせている。
たとえば日本では財務省など、政府の官僚組織が障害となっている。中国では国営企業が障害となっている。フランスでは内向きでエリート主義の政府省庁と大学が障害になっている。アメリカも例外ではない。どの国でも、主要な公的制度は周囲の旋風のような変化に歩調をあわせることができていない。

この点がとくに目立つのは、アメリカの金融制度が猛烈な速度で変化し、複雑化するなか、それを規制する証券取引委員会(SEC)が対応できていないことである。エンロンの大スキャンダルでも、時間と時期の問題が直接に絡んだ投資信託の不法な取引でも、何件もあった創造的会計の行き過ぎでも、不埒な企業がつぎつぎに起こすごまかしや操作に、SECはまったく追いつけていない。アメリカの情報機関が冷戦時代の目標からテロとの戦いに素早く重点を移すことができず、9・11の同時多発テロをやすやすと実行させてしまった失敗に似ている。
最近の例をあげれば、2005年のハリケーン「カトリーナ」が上陸したとき、政府が危機に適応できず、非難を浴びたことに、非同時化の影響が劇的な形であらわれている。
 どの国でも、工業時代の政府機関を改編しようとすると、既得権益の受益者とその味方が激しく抵抗する。この抵抗によって、あるいは少なくともそれが一因になって、変化の速度に劇的な違いが生まれる。この点から、主要な制度の多くが機能不全に陥っている理由、知識経済が要求するペースに歩調をあわせることができない理由をかなり説明できる。要するに、今日の政府は「時間」に関して深刻な問題をかかえているのである。

列車は定時に運行しているか
同時性を完全に達成した機械のような社会の実現が、工業時代に影響を与えた「近代主義者」の多くにとって夢であった。テイラーが工場で実現しようとした夢は、レーニンがソ連で実現しようとした夢でもある。機械のように効率的に動く国と社会を実現しようとしたのだ。すべての官僚機構が一体になって動く。すべての人が歩調をあわせて踊る。
 しかし、人間も人間の社会も実際には開いた糸である。混乱しており、不完全だ。人間と社会の動きでは、混乱と偶然の領域と一時的な安定の領域とが交互に起こり、一方が他方を生み出す関係になっている。人間にはどちらも必要である。
 安定性と同時性によって、社会集団のなかで、とくに経済のなかで、各人が活動するのに必要な程度の予測可能性が確保できる。ある程度の安定性と同時性がなければ、生活は混乱と偶然におしつぶされる。だが、安定性と同時性が崩れたとき、いったい何が起こるのだろうか。
 
 ソ連は何十年にもわたって流血と国内の抑圧を続けたが、それでも1917年の建国にあたって約束した工業化を完成させることができないまま、91年に崩壊した。ソ連共産党が理想とした同時性と効率性は、公式の経済では実現しなかった。経済が機能したのは、腐敗した地下勢力が非公式の経済を動かし、十分な報酬が得られれば、約束した時間に商品をどこからか届けてきたからである。
 レーニンの革命から60年近くたった1976年、筆者がモスクワを訪問したとき、泊まったホテルにはコーヒーがなく、オレンジは貴重品だった。パンは重量をはかって、グラムいくらで売られていた。十年後に訪問したとき、優遇されているモスクワの中流階級すら、ジャガイモとキャベツしか手に入らなくなることが少なくなかった。
そしてソ連の体制と経済が崩壊した。1991年にモスクワを訪問したとき、人影もまばらなスーパーで目にしたのは、ほとんど商品のない棚の列であった。カビがはえた灰色のパスタがごくわずかだけ売られていた光景をいまでも思い出す。寒空のもと、何人かの老女が公共の建物の前で、一本のボールペンや一枚の鍋つかみなど、残り少ない持ち物を売ろうと懸命になっていた。
ロシア経済が全面崩壊に近づいていただけでなく、経済の基盤になる社会の秩序すら解体し、それとともに同時性と効率性の見せかけすらなくなった。約束された商品がいつ届くのか、そもそも届くのかどうかすら、誰も分からなくなった。ロシア企業はジャスト・イン・タイムの効率性を追求するどころか、あらゆるものが遅れる状況に陥った。筆者はモスクワからキエフまで航空便で移動することになっていたが、夜行列車に変更になった。航空燃料が届くかどうかが分からないからだと説明された。
ロシア国民は、秩序の回復と予測可能性を求め、イタリアの独裁者、ムッソリーニの言葉を借りるなら、「列車を定時に運行させる」ことができる指導者を求めた。そして、ウラジミール・プーチンに希望を託した。
だが、社会が必要としているのは定時運行の列車だけではない。定時に運行する制度を必要としている。だが、ひとつの制度が超高速で走っているために社会の他の重要な制度がはるかに遅れることになれば、どうなるだろうか。
 
レーダーで速度をはかると
 この問いに「科学的」に答えられる人はいない。しっかりしたデータはない。とはいえ、アメリカで主要な制度がどうなっているかをみれば、ヒントが得られるだろう。アメリカは少なくとも、いまのところ、21世紀経済に向けた競争の先頭を走っているからだ。
 以下に示すのは初歩的な見取り図であり、印象をまとめたにすぎず、間違いなく問題も多いだろうが、それでも企業の指導者や政府の政策責任者だけでなく、変化に対応しようとしているすべての人にとって役立つものになるだろう。以下ではアメリカを例に使ったが、どの国にも同じような状況がある。
 しばらく、変化の速度に注目しよう。広い道路を思い描いてみよう。道路脇には白バイにまたがった警察官がおり、レーダーで車のスピードをはかっている。道路には9台の車が走っており、それぞれがアメリカの主要な制度を代表している(どこの国も同じだといえるだろう)。それぞれの車は、各制度の実際の変化のペースに見合ったスピードで走っている。もっとも速く走っている車から順にみていくことにしよう。

速い車と遅い車
時速100キロ
時速百キロの高速で突っ走っているのは、アメリカの主要な制度のなかで変化がもっとも速いもの、企業である。
 企業は、社会の他の部分で起こる変化の多くをもたらす原動力になっている。各企業はそれぞれ急速に変化しているだけでなく、仕入先や販売会社にも変化を強いており、その背景には熾烈な競争がある。
 このため、企業は自社の使命、役割、資産、製品、規模、技術、従業員の性格、顧客との関係、社内の文化など、あらゆるものを変えている。そしてこれらの分野ごとに、変化のペースに違いがある。企業内では、いうまでもなく、技術がさらに猛烈な勢いで変化している。ときには経営者や従業員が対応しきれなくなるほどの勢いだ。金融と財務も、それよりわずかに遅いが、やはり目もくらむペースで変化して、新しい技術、新たなスキャンダル、規制の改定、市場の多角化、金融市場の変動に対応している。会計などの分野も必死に追いつこうとしている。

時速90キロ
企業とあまり変わらないほどの高速で走る車があり、その車に乗っている人たちをみて、驚く人もいるだろう。筆者も驚いたのだから。変化の二番目に速いのは、全体的にみたときに社会団体だというのが筆者の結論であり、サーカスのピエロのように、二番目に速い車にぎゅう詰めになっている。
社会団体は活気にあふれ、変化する無数の草の根非政府組織で構成されている。
反企業や親企業の連合、職業団体、スポーツ団体、カソリック教会、仏教寺院、プラスティック製造業協会、反プラスティック活動家団体、新興宗教団体、税金嫌いの団体、クジラ愛好家組織などなどである。
 こうした団体のほとんどは、変化を求めることを仕事にしている。環境、政府規制、防衛支出、用途地域規制、疾病研究費、食品基準、人権など、多種多様な課題で変化を求めているのである。だが、なかにはある問題での変化に頑強に反対し、変化を妨げるか、少なくとも遅らせるためにあらゆる手段を講じている団体もある。 
 環境保護派は訴訟、ピケなど、あらゆる手段を使い、アメリカで原子力発電所の建設を遅らせている。そして電力会社にとって、工事の遅れと訴訟費用の負担で、原発建設では採算がとれない状態を作り出した。反原発運動については賛否両論があるだろうが、この例をみると、時間と時期が経済的な武器になることが分かる。
 非政府組織による運動は、小さく敏捷で柔軟な団体のネットワークで進められることが多いので、巨大な企業や政府機関に打撃を与えることができる。全体的に見て社会の主要な制度のうち、企業と社会団体に匹敵するほど変化が速いものはないと結論づけることができる。
 
時速60キロ
 三番目の車にも、意外な人たちが乗っている。アメリカの家族が乗っているのだ。 
 数千年にわたって、世界のほとんどの地域で、多世代の大家族が家族の典型であった。大きな変化がはじまったのは工業化と都市化が進んでからであり、そのときから家族の規模が縮小するようになった。工業と都市の条件には核家族の方が適しており、これが支配的な形態になった。
 1960年代後半になっても、核家族の優位は将来にわたって揺るがないと専門家は主張していた。政府の定義では、夫が働き、妻が専業主婦で、十八歳以下の子供が二人いるのが標準世帯とされている。現在では、この定義に基づく「核家族」はアメリカの全世帯の25パーセントにも満たない。
 片親の世帯、結婚していないカップル、再婚や再々婚(ときには結婚が四回以上)
の夫婦と連れ子の世帯、高齢者の結婚、最近では法的権利を認められた同性結婚な
どが登場するか、隠さなくとも良くなった。こうして、以前には社会制度のなかで変化
がもっとも遅かった家族制度が、わずか数十年で様変わりした。そして、今後さらに急
速に変化しようとしている。
 何千年にもわたる農業時代には、家族はいくつもの重要な機能を担ってきた。農作
業や家内作業で生産チームになっていた。子供を教育し、病人を看護し、老人を介
護した。だが、各国で工業化が進むとともに、仕事は自宅から切り離されて、工場に
移された。教育は学校に外注されるようになった。医療は医師か病院に移された。老
人介護は政府の責任になった。
 現在、企業は機能の外注(アウトソーイング)を進めているが、アメリカの家族は逆
に機能の「内製化(インソーイング)」を進めている。数千万人がすでに、フルタイムか
パートタイムで自宅で働くようになった。在宅勤務が容易になったのは、デジタル革命
のためだが、同じ要因で、買い物、投資、株式売買など多数の機能が自宅に戻ってい
る。 教育はいまだに学校の校舎から抜け出していないが、インターネット、無線LA
N、携帯電話が社会全体に普及しているので、少なくとも一部が家庭などに戻る可能
性が高い。高齢者の介護も家庭に戻ってくるだろう。政府と民間の健康保険が高コス
トの入院を減らす努力を続けているからである。
 家族の形態、離婚の頻度、性、世代間の関係、異性との出会い、子育てなど、家族に関するさまざまな側面が急速に変化している。

時速30キロ
 企業や社会団体、家族が急速に変化しているとき、労働組合はどうしているだろう。
 前述のようにアメリカでは肉体労働から頭脳労働に、取り替えがきく技能から取り替えがきかない技能に、単純な反復作業から創造的な作業に移行しはじめて、もう半世紀近くになる。
 仕事は場所を問わないものになり、航空機や自動車、ホテル、レストランでもできるようになってきた。ひとつの組織で何年にもわたって同じ仲間と働くのではなく、プロジェクト・チームやタスク・フォース、小グループの間を移動するようになり、短期間で仲間と別れ、新たな仲間とと協力するようになった。従業員としてではなく、「フリー・エージェント」として会社と契約して働く人も増えてきている。企業は時速100キロで動いている。だが労働組合は、1930年代と大量生産の時代から引き継いだ組織、方法、モデルにしばられている。1955年、アメリカの労働組合は雇用者の33パーセントを組織化していた。いまでは、これが12.5パーセントにすぎなくなった。
 非政府組織は時速90キロで急速に増加しており、新しい第三の波の社会で分散性が高まっている事実を反映している。これに対して労働組合が社会的な力を失ってきたのは、大規模化を特徴とする第二の波の工業社会が衰退している事実を反映している。労働組合にはいまでも果たすべき役割があるが、生き残るためには新しい道路地図と高速の車が必要である。

巨像が立ち止まるとき
時速25キロ
 政府の官僚機構と規制機関はさらに動きが遅い。
 世界のどの国でも、階層型の官僚組織が政府の日常業務を担っており、批判をうまくそらし、ひとつの変化を数十年も遅らせる術を心得ている。政治家は、新たな官僚組織を作る方が、どれほど古くなり、どれほど無意味になっていても、既存の組織を解体するよりはるかに簡単であることを知っている。官僚機構はそれ自体の変化が遅いだけでなく、時速100キロで疾走する企業が市場環境の急速な変化に対応するのを遅らせている。
 たとえば、食品医薬品局は新薬の試験と承認にいやというほど時間をかけている。その間、新薬があれば助かる患者が待たされており、ときには死んでいく。
 政府は意思決定が極端に遅く、空港に新たな滑走路を建設する許可を得るまでに
十年以上かかり、高速道路の建設が決まるまでに七年以上もかかるのが一般的であ
る。

時速10キロ
 だが、官僚機構の車ですら、バックミラーには、さらに遅い車の姿が写っている。
 タイヤはパンクし、ラジエーターからは蒸気が吹き出し、後ろから来る車に迷惑をかけている。このポンコツを維持するのに、4千億ドルの経費がかかるなどということが有り得るのだろうか。信じ難いだろうが、年にそれだけの経費がかかっているのである。この車に乗っているのは、アメリカの公教育制度である。
 アメリカの教育制度は、大量生産用に設計され、工場のように運営され、官僚的に管理され、強力な労働組合と教員票に依存する政治家に守られており、20世紀初めの経済を完全に反映している。せいぜいのところ、ほとんどの国の教育制度がアメリカのものより良いわけではないといえるだけである。
 民間セクターでは、企業は新たな形の競争、形が変化していく競争によって変化を迫られる。これに対して公教育制度は保護された独占体である。
 親や創造力のある教師、メディアは変化を強く求めている。そして実験的な試みが増えているが、アメリカの公教育の核はいまだに、工業時代にその時代の要求にあわせて設計された工場型の学校である。時速10キロで動く教育制度は、その十倍の速度で変化する企業での仕事をこなせるように、生徒を教育できるのだろうか。

時速5キロ
 世界の経済に影響を与えている機能不全の制度は国内のものだけではない。世界のすべての国の経済は、直接間接に世界的な統治機関から大きな影響を受ける。これには国際連合、国際通貨基金(IMF)、世界貿易機関(WTO)や、もっと知名度が低い多数の国際機関があり、国境を超える活動の規則を制定している。
 なかには万国郵便連合のように、一世紀を超える歴史のある機関もある。ほぼ75年前、国際連盟の時代に作られた機関もある。残りのほとんどは、世界貿易機関と世界知的所有権機関を除いて、半世紀前、第二次世界大戦の後に設立されている。
 現在、国家主権は、新たな勢力からの挑戦を受けている。新たな参加者、新たな問題が国際舞台にあらわれている。しかし、国際機関の官僚的な構造と慣行はほぼ変わっていない。国際通貨基金で百八十を超える加盟国が新たな専務理事を選任しようとしたとき、アメリカとドイツが候補者をめぐって鋭く対立した。結局はドイツ人の候補者が選ばれたが、これはニューヨーク・タイムズ紙によれば、クリントン大統領とサマーズ財務長官が「ヨーロッパがIMF専務理事を選ぶという50年前からの了解を破ることはできない」と判断したためだという。

時速3キロ
 だが、国際機関よりも変化の遅い制度がある。それは豊かな国の政治構造だ。
アメリカの政治制度は連邦議会と大統領から政党まで、多数の集団から大量の要求を受けるようになっており、これらの集団はいずれも対応をもっと速くするよう求めていて、のんびりした議論と怠惰な官僚機構のために作られた制度では処理しきれなくなっている。連邦議会上院の有力議員だったコニー・マックがかつて、こう話してくれた。「議会ではどんなことにも、連続して使える時間は二分半までだ。ゆっくり考える時間はないし、知的といえそうな会話に使える時間もない。時間の三分の二は広報や選挙運動、資金集めに使わなければならない。わたしはこの委員会、あの専門部会、別の作業部会、その他もろもろに属している。わたしが知っておかなければならないことのすべてに、しっかりした判断を下せるほどの知識が得られると思えるだろうか。そんなことは不可能だ。時間がないのだ。だから、実際にはスタッフが判断するケースが増えつづけている」
 筆者は率直な話に感謝し、こう質問した。「では、スタッフを選ぶときには、誰が判断するのですか」
 いまの政治制度は、知識経済の複雑さと猛烈なペースを扱えるようには設計されていない。政党や選挙は移ろいやすいといえるかもしれない。資金集めや選挙運動に新しい方法が使われるようになった。だが、知識経済がもっとも発達したアメリカでは、巨大な企業が合併と部門売却を短期間に繰り返し、インターネットを使って新たな有権者組織がほとんど瞬時に形成されるようになったなか、政治の基本構造は変化のペースが極端に遅く、動いていないのではないかと思えるほどである。
 経済にとって政治の安定性が重要であることは、いうまでもない。しかし、動かないとなると、話は違ってくる。アメリカの政治制度は二百年を超える歴史のなかで、1861年から1865年までの南北戦争の後に基本的に変化し、1930年代には大恐慌の後に、工業時代にもっと十分に適応するためにふたたび基本的に変化した。
 その後、政府は確かに成長した。だが基本構造にかかわる部分では、アメリカの政治構造は時速3キロで這うような歩みを続けており、路肩に止まって休んでいて、重大な危機にぶつからないかぎりは動こうとしない。そして、重大な危機が意外に早く起こる可能性もある。2000年の大統領選挙では、大統領が最終的に、最高裁判所での一票差で選出される事態になり、あと一歩で危機に陥りかねない状況になった。

時速1キロ
 この点を考えたときにようやく、動きの遅い制度のなかでも、とりわけ遅いものが視野に入ってくる。それは法律である。法律には二つの側面がある。第一は組織という側面であり、裁判所、法曹協会、法科大学院、法律事務所などがある。第二はこれらの組織が解釈し守っている法律そのものである。
 アメリカの法律事務所は急速に変化しており、事務所間の合併、広告の利用、知的財産権法などの新分野の開拓、テレビ会議の利用、事業のグローバル化、競争環境の変化への対応を進めているが、アメリカの裁判所と法科大学院は基本的に変わっていない。裁判制度の運営のペースも変わっていない。重要な裁判が何年にもわたって延々と続いている。 
 マイクロソフトに対する画期的な反トラスト法訴訟が続いてきたとき、連邦政府が同社の分割を求めるとの見方が一般的になっていた。しかし、それには何年もの時間がかかり、分割が決まった時点では技術が進歩していて、訴訟の意味がなくなっていると予想された。シリコン・バレーのコラムニストとして有名なロバート・Ⅹ・クリンジリーはこれを、「超高速のインターネット時間」と「法律時間」の衝突だと論じている。
 法律は生きているといわれる。何とか生きているといえるにすぎない。議会が新しい法律を作り、裁判所が既存の法律に新たな解釈をくわえることで、法律は毎日のように変化する。だが、変わる部分は法律全体のうち、微小とはいわないまでも、ごく一部にすぎない。そして、法律の数と総量は膨らんでいくが、法体系が全体として大幅に改定されたり、再編されたりすることはない。
 もちろん、法律は急激に変化するようであってはならない。ゆっくりとしか変化しないからこそ、社会と経済に必要な程度に予測可能性が確保され、経済と社会の変化が急激すぎるときには、ブレーキをかけてくれる。だが、どの程度の変化ならゆっくりとした変化だといえるのだろうか。
 2000年まで、アメリカの社会保障制度では65歳から69歳までの受給者に所得がある場合、ある金額を超える部分の三分の一が支給額から差し引かれていた。この規定は大量失業の時代につくられたものであり、当初は老人に引退を促し、若者の就業機会を増やすことを目的にしていた。その後70年近くたって、この規定がようやく法律から削除されることになり、フォーブス誌はこの改定を伝える記事に皮肉たっぷりの見出しをつけた 「ニュース速報 - 大恐慌は終わった」 。
 
 アメリカ連邦議会はまた、数十年にわたる議論の後にようやく、知識経済を規定する基本的な法律のうち二本を改定した。1996年まで、世界でも、とくに変化の速い電気通信産業は、62年前の1934年に制定された法律によって管理されていた。金融では、アメリカの銀行業界を規制していたグラス・スティーガル法が、60年たって、ようやく改定された。現在でもアメリカで株式などの証券を発行する際には、1933年制定の法律に規定された基本的な規則が適用される。
 現在、8,300を超える投資信託があり、2億5千万近い口座をもち、7兆ドル近い資産を運用している。だが、ここまで巨大な投資信託産業はいまでも、1940年制定の法律で規制されている。当時、口座数は30万に満たず、ファンド数は68にすぎず、運用資産は現在の14万6千分の1に過ぎなかった。
 別の分野の例をあげれば、2003年にアメリカ北東部で大停電が起こったとき、復旧作業にあたった技術者は思うように動けなかった。トロント大学のトーマス・ホーマーディクソンによれば「数十年前、電力のほとんどが消費地の近くで発電されていたころに作られた規則」にしばられていたからだ。
 著作権、特許権、個人情報など、経済の先端部分に直接に影響を与える分野の法律も、絶望的なほど時代遅れになっている。知識経済はこれらの法律があったから成長してきたのではない。時代遅れの法律という障害を跳ね除けて成長してきたのである。これは安定性の問題ではないし、動かないという問題でもない。法律は死後硬直を起こしているのだ。
法律家は仕事の方法を変えている。だが法律自体はほとんど動いていない。

惰性と超高速
 以上の制度を検討し、それらの相互作用をみていくと、アメリカが現在ぶつかっている問題が、変化の猛烈な加速だけにとどまらないことが明らかになる。急成長する新しい経済の要求と、古い社会制度の構造の惰性との間に大きなズレがあるという問題にもぶつかっているのである。
 二十一世紀の情報バイオ経済は、今後も超高速の成長を続けられるのだろうか。低速で、機能不全で、時代遅れになった社会制度のために、その成長が止まることになるのだろうか。
 官僚制度、動きがとれない裁判制度、近視眼的な議会、麻痺状態の規制、病的なほどの漸進主義が影響を与えないわけがない。この状態を放置しておくわけにはいかないと思える。
 多数の制度が関連しあっていながら同時性を維持できなくなり、社会全体に機能不全が拡大している。これほど解決がむずかしい問題はめったにない。世界最先端の経済が生み出す莫大な富を獲得したいと望むのであれば、アメリカは古くからの制度のうち、新しい経済の障害になるものを廃止するか、取り替えるか、抜本的に再編しなければならない。
 変化はさらに加速するので、このような制度の危機はアメリカだけの問題ではなくなる。中国、日本、EU各国など、二十一世紀の世界経済で競争にくわわろうとしている国はいずれも、新しい形態の制度を考え出し、同時化と非同時化の間の均衡を調整しなければならない。なかには、アメリカより危機の解決がむずかしい国もあるだろう。アメリカには少なくとも、変革者に好意的な文化という強みがある。 
 いずれにせよ、この章で冗談めいた形で紹介した速度ランキングにはもちろん、異論の余地があるだろうが、それで伝えようとした現実には異論の余地はない。
 その現実はこうまとめられる。企業、産業、国民経済、世界システムというどの水準でみても、富の創出と基礎的条件の深部にある時間との関係が、きわめて広範囲に変化しているのである。

悲観論を唱えるものは、賢明さを装いたい人にとってとくに便利な方法のひとつ。

2011年05月09日 19時37分31秒 | 富の未来(下)
終わりに ー 始まりは終わった   富の未来(下)330ページ~より
悲観論をとなえるものは、賢明さを装いたい人にとってとくに便利な方法のひとつだ。そして、悲観的になる材料は山ほどある。だが、いつも悲観論をとなえていては、考えることを放棄する結果になる。
「悲観論者が天体の神秘を解明したことはないし、地図のない土地を発見したことはないし、人間の精神に新しい地平を切り開いたことも無い」と、ヘンレ・ケラーは書いている。幼児のときに視力と聴力を失いながら、世界三十九か国を訪問し、十一点の本を書き、その人生を描いた二本の映画がオスカー賞を受賞し、視聴覚障害者の権利のために八十七歳で死ぬまで戦った人物だ。
ドワイト・アイゼンハワーは第二次世界大戦でノルマンディ上陸作戦の指揮をとり、戦後にアメリカの第三十四代大統領になったが、もっとあけすけにこう語っている。「悲観論で勝てた戦いはない」
 
 二十一世紀の今後、恐ろしい事態になりうる点をあげていけば、きりがないように思える。中国とアメリカが戦争に突入する可能性。1930年代型の世界的大恐慌で何千万人もが失業し、数十年にわたる経済発展が無に帰す可能性。テロリストが核兵器、炭素菌、塩素ガスを使うか、企業と政府の決定的なコンピュータ・ネットワークへのサイバー攻撃を仕掛ける可能性。メキシコからイラン、南アフリカにいたる世界各国で水不足が深刻になる可能性。対立するNGOの間で武力衝突が起こる可能性。ナノ・レベルの新たな病気が蔓延する可能性。マインド・コントロール技術が広まる可能性。クローン人間が大量に生まれる可能性。そしてこれらが組み合わされ、収斂する可能性。これら以外にもちろん、地震があり、津波があり、森林破壊があり、地球温暖化がある。
 
 これらはすべて、心配する価値があることだ。だが、いまの悲観論の多くは流行にすぎない。19世紀半ばに産業革命がヨーロッパ全体に波及し、反対派に恐怖を与えた時期に似ている。 近代化への恐れと怒り、近代化に伴う世俗主義と合理主義の拡大への恐れと怒りから、ロマン派の悲観主義が生まれ、バイロンやハインリッヒ・ハイネの詩、リヒャルト・ワグナーの音楽、ショーペンハウワーの悲観論哲学で表現された。(中略)
新しい文明が古い文明を浸食する時期には、二つをくらべる動きが起こるのは避けがたい。過去の文明で有利な立場にあった人や、うまく順応してきた人がノスタルジア軍団を作り、過去を称賛するか美化し、まだ十分に理解できない将来、不完全な将来との違いをいいたてる。
 職の不安に脅え、アジアの勃興に脅えているうえ、とくに若者は映画、テレビ、ゲーム、インターネットで暗黒の未来のイメージにたえず接している。メディアが作り上げ、若者の憧れの的とされている「スター」は、街角のチンピラや傍若無人な歌手、禁止薬物を使うスポーツ選手などだ。宗教家からはこの世の終わりが近いと聞かされている。そしてかつては進歩的だった環境運動がいまでは大勢力となり、破局の予言をふりまいて、「ノーといおう」と繰りかえし呼びかけている。

 だが、これからの時代にはあらゆる種類の驚きが満ちあふれ、善と悪、良いものと悪いものという区分がつきにくくなるだろう。そして何よりも大きな驚きとして、本書で論じてきた革命的な富の体制と文明によって、さまざまな問題があっても、もっと素晴らしく、健康で、長生きで、社会に役立つ人生を送る機会を数十億の人類が得られるようになるだろう。
(中略)
 二十一世紀の幕開けに生きるわれわれの世代は、革命的な富の体制を中核とする新たな文明の設計に直接、間接に参加している。この過程は完成への向かうのだろうか。それともまだ未完成の富の革命が、どこかで突然止まることになるのだろうか。
 産業革命の歴史をみると、手掛かりがつかめる。
 産業革命が十七世紀半ばにはじまり、1950年代半ばに知識経済が登場して地位を奪われたるようになるまで、世界には数え切れないほどの混乱が起こっている。戦争がつぎつぎに起こった。イギリスの清教徒革命、スウェーデン・ポーランド戦争、トルコ・ベネツィア戦争、ブラジルでのポルトガルとオランダの戦争、中国での明王朝の滅亡と清王朝の成立。1650年代の十年だけでも、これらをはじめ、多数の戦争や内乱が起こっている。その後、十八世紀にもスペイン継承戦争、七年戦争、カンボジアの王位継承をめぐる内戦などが続く。そしてアメリカ独立戦争、フランス革命があり、ナポレオンがヨーロッパを席巻し、アメリカの南北戦争があり、第一次世界大戦、ロシア革命があり、最悪の戦争、第二次世界大戦があった。
 これらの戦争や内戦の間に、インフルエンザの大流行、株式市場の暴落、多世代大家族制度の崩壊、不況と恐慌、政治腐敗、政権交代があり、カメラや電気、自動車、飛行機、映画、ラジオが発明され、ヨーロッパの美術界はラファエル前派からロマン派、印象派、未来派、超現実主義、キュビズムへと移り変わっていった。
 このように変化と混乱が相次ぐなかで、ひとつの点が目立っている。何が起ころうと、これらが一度に起ころうと、産業革命の前進は止まらなかったし、産業革命に伴う新しい富の体制の普及は止まらなかったのだ。何が起ころうとも。

 その理由はこうだ。第二の波は技術や経済だけの動きではなかった。社会、政治、哲学の要因が絡んで生まれたものであり、波の衝突のなかで農業時代から続く支配者層が徐々に新しい勢力に屈服していった結果なのだ。
 第二の波から、経済中心の考え方が生まれた。文化、宗教、芸術はすべて副次的な重要性しかもっておらず、マルクスによれば、経済によって決定される。 だが、第三の波の革命的な富では、知識の重要性が高まっていく。その結果、経済は大きなシステムの一部という地位に戻り、良かれ悪しかれ、文化、宗教、倫理などが舞台の中央に戻ってくる。

 これらの点はいまでは、経済に従属するのではなく、経済との間でみられるフィードバックの過程の一部だとされている。
 いま起こっている革命が技術の動きのようにみえるのは、それによって登場した技術が極端に目立つからだ。しかし、工業化、近代化と呼ばれているものと同様に、第三の波の革命も文明全体にわたる変化なのだ。株式市場の変動などの混乱はあっても、革命的な富は世界のほとんどの地域に着実に前進していく。

 未来の経済と社会が姿をあわらしてきているので、個人も企業も組織も政府もすべて、過去のどの世代も経験をしなかったほど急激な未来への旅に直面している。
 何ともすさまじい時代に、われわれは生きているのである。
 二十一世紀の新しい時代にようこそ。