アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第一の波から第二の波の正面衝突

2024年07月26日 21時22分33秒 | 第三の波
もう一度、本書を読み返してみます。
「目次」第二の波・第2章文明の構造:暴力的な解決~肉体的労働に頼っていた動力(38ページ~42ページ)まで。

第一の波の数百年続いた農業型社会が、第二の波の産業型社会に取って代られる様を「暴力的な解決」「肉体的労働に頼っていた動力」の小節で解いています。小節全文を載せます。
※「-38」は本書ページ数ですので、今後読む際は無視してください。

アメリカの南北戦争も、日本の西南の役から明治維新の勃興も、ロシア革命による社会主義国家誕生も、その真相は「第一の波と第二の波の正面衝突」であるとする論は、納得のいく展開です。産業革命により農業文明の世界は一変した。そして農業型社会の循環可能なエネルギーは、産業型社会は産業革命により再生不可能な使い捨て、公害をもたらす石炭・石油エネルギー(原子力含む)へと大きく変化して現在に至っている。では第三の波では???

2012年公開の「レ・ミゼラブル」(ミュージカル映画)で、主人公のジャン・バルジャンが、トゥーロンの徒刑場(帆船場)で船を引き上げる作業から始まる風景(ルック・ダウン~)が、まさに第二の波が押し寄せる以前のフランスを象徴する「肉体的労働に頼っていた動力」のシーンです。小説全編を読んだ方は理会できると思いますが、このトゥーロンの徒刑場に囚人を送るために、ナポレオン法典以来の悪法で、パンを一切れ盗んだために「禁錮5年」などとして徒刑場に主人公を送り込んで「肉体的労働」を課していたのです。小説ではパンを盗んだのではなく、飢えてひもじい思いをしていた姉の子供のためにパンを盗もうとして窓ガラスを割っただけの話だったのです。そして脱走を試みて失敗し、追加刑19年が経過して、やっとトゥーロンの徒刑場から仮出所してレ・ミゼラブルのストーリーが始まります。しかしジャン・バルジャンにとって、トゥーロンの徒刑場での生活がけっして無駄でなかった事は、縷々ビクトル・ユゴーが書いています。徒刑場で文字の読み書きを覚え、法律というものも学習し、庭師であった主人公は今の世の中の仕組みを覚えることが出来たのです。そしてマドレーヌと名前を変えて第二の波の産業型社会の波頭の経営者となる・・・後は映画を観てください。法律と良心、自身と正義のあり方、これは第三の波の思考にも通じる小説展開です。小説は大作ですが、よく読みこむとおもしろいですよ。


暴力的な解決

 第二の波がさまざまな社会に押し寄せるにつれて、過去の農業社会を守ろうとする人びとと、未来の-38産業社会のパルチザンとも言うべき人びととの間で、血みどろの、長い戦いがはじまった。第一の波と第二の波は正面衝突を起こし、両者の激突の途上にいた旧時代の人びとは、駆逐され、しばしば大がかりな殺戮の対象となった。
 アメリカでは、この衝突は農業による第一の波の文明を確立しようとするヨーロッパ人が入植してきたことによってはじまった。白人による農業文明の潮流は、情容赦なく西へ西へと押し寄せ、インディアンを追い立て、遠く太平洋岸まで、つぎつぎと農場と農村を生み出していった。
 しかし、農民のすぐ後に続いて、来るべき第二の波の時代の先兵とも言うべき初期産業人たちがやってきた。ニューイングランドと大西洋岸中部諸州には、工場や都市が急激に出現するようになった。19世紀半ばまでに、東北部は工業地帯として急速な発展を続け、銃器、時計、農機具、繊維製品、ミシンなどの製品をつくり出した。反面、そのほかの地域では、まだ農業の勢力が支配的だった。第一の波と第二の波との間で、経済的、社会的緊張が高まり、1861年には、ついに武力闘争にまで発展したのである。
 南北戦争は、多くの人が考えているように奴隷制度をめぐる道徳的論争や関税問題といった、狭い経済的対立だけが原因だったわけではない。あの戦いが決着をつけようとしたのは、もっとはるかに大きな問題であった。つまり、豊かなこの新大陸を支配するのは農民なのか、それとも産業主義を支持する人びとなのか、第一の波の勢力に屈服するのか、それとも第二の波の勢力が勝利を収めるのか、それが戦いの真の原因だったのである。未来のアメリカ社会が、基本的に農業型社会になるか産業型社会になるかの分かれ道であった。北軍の勝利によって、賽は投げられた。アメリカの産業化が確定したのである。その時以来、経済の面でも政治の面でも、あるいは社会生活、文化生活の面でも、農業は後退を続け、産業は興隆-39への道をたどることになった。第一の波は後退し、第二の波が鳴物入りで押し寄せてくることになった。
 同じような二つの文明の衝突は、ほかの国にも起こっている。日本では、1868年にはじまった明治維新のそれで、過去の農業時代と未来の産業化時代との間の相克の、まぎれもない日本版であった。1876年に実施された士族の家禄廃止による封建制の終焉、1877年の薩摩藩の反乱による西南の役、1889年の西欧型憲法の公布、これらはすべて日本における第一の波と第二の波の衝突を反映する出来事であり、日本が世界の第一級産業国へと進んでいく、第一歩だったのである。
 ロシアにおいても、第一の波と第二の波の勢力の間で、同じような衝突が起こった。1917年のロシア革命は、南北戦争のロシア版であった。一見、主要な争点は共産主義体制をとるかどうかにあったように見えるが、実は、ここでも問題の中心は産業化であった。ボルシェビキは、最後の最後までしぶとく残っていた農奴制と封建領主の専制にとどめをさすと、農業を背後に押しやって、意識的に産業化を推進した。ボルシェビキもまた、第二の波にくみする政党になったわけである。
 さまざまな国で、第一の波と第二の波の勢力がつぎつぎに衝突し、政治危機、動乱、ストライキ、クーデター、戦争などが起こった。しかし、20世紀の半ばまでに第一の波の勢力は粉砕されてしまい、第二の波の文明が、地球を制覇したのである。
 今日、産業主義に立脚する社会は、地球上の北緯25度線と65度線の間にベルト状をなしている。北アメリカ大陸では、およそ2億5千万の人間が産業社会的生活様式にしたがって暮している。西ヨーロッパでは、スカンジナビアの南からイタリアにかけて、やはり2億5千万ほどの人間が産業主義にもとづく社会を形成している。東に向かうと、「ユーラシア」工業地帯、つまり東ヨーロッパとソビエト西部が産業主義文明圏であり、ここでも2億5千万の人間が産業社会特有の生活を送っている。そ-40最後にあげなければならないのが、アジアの産業地域で、日本、香港、シンガポール、台湾、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、中国本土の一部の地域を含み、ここにもまた、2億5千万の産業社会人口がある。結局総計すると、産業文明に属する人間はおよそ10億にのぼり、地球全体の人口の約4分の1に相当する。
たしかにこれらの国は異なった言語、文化、歴史、政治形態を持ち、その根深い相違が戦争にまで発展しているのも事実だが、第二の波に属する社会には、共通の特徴がある。だれでも知っているような相違の背後に、実は、共通の基盤とも言うべき類似性がひそんでいるのだ。
 そして、現在の体制と衝突をくりかえしている今日の変革の波を理解するためには、われわれは、これら社会に共通な構造、表面からは見えない、第二の波の文明の骨組みを、はっきりと見きわめなければならない。なぜなら、ほかならぬこの産業社会の基本構造そのものが、いま粉砕されようとしているからだ。


肉体的労働に頼っていた動力

 新しい文明にせよ古い文明にせよ、あらゆる文明の前提条件はエネルギーである。第一の波が生み出した社会では、エネルギー源は、人間や動物の筋力という「生物による動力源」か、または太陽熱、風力、水力といった自然の力に頼っていた。炊事や暖房のために、森林が伐採された。水車がひき臼をまわした。なかには潮の干満を利用した水車もあった。田畑では、灌漑用の水車がギシギシと音をたててまわっていた。家畜はすきを引っていた。フランス革命の頃でさえ、ヨーロッパでは、エネルギー源として1400万頭の馬と2400万頭の牛がいたと推定されている。このことは、第一の波の社会で利用され-41ていたエネルギー源が、すべて再生可能だったということを意味する。伐採した森林はいつかは自然が回復してくれたし、帆をはらませる風も汽船の外輪を廻す川の流れも、自然によって循環した。エネルギー源として酷使された家畜や人間も、交代要員にはこと欠かなかった。
 これに対して第二の波が生み出した社会はすべて、石炭やガス、石油といった、一度消費してしまえば再生不可能な化石燃料にエネルギー源を頼るようになったのである。1712年、イギリスの技術者トマス・ニューコメンによって実用にたえる蒸気機関が発明されて以来、革命的変化が起こった。有史以来はじめて、文明が単に生みだす利子で生きていくだけでなく、自然の貯えてきた資本を食いつぶしはじめたのである。
 地球が貯えてきたエネルギーを少しずつ食いつぶすことは、産業文明を成立させるにあたって、目に見えない補助金の役割を果たした。これによって産業文明は、非常に急速な経済成長を実現した。第二の波が押し寄せた国は、古今東西を問わず、いずれも安い化石燃料が際限なく手に入るという想定のもとに、壮大な科学技術の体系と経済機構を打ちたてた。資本主義社会であろうと社会主義社会であろうと、また東洋であろうと西洋であろうと、明らかに同じ転換が起こったのである。つまり、どこにでもあるエネルギーから特定の場所に集中しているエネルギーへ、再生可能なものから不可能なものへ、種種雑多な種類の資源や燃料からほんの数種のエネルギーへという変化が起きたのである。化石燃料は、第二の波に属するあらゆる社会の、基礎エネルギーとなった。

未来学と楽観主義

2024年06月07日 04時31分24秒 | 第三の波

アルビン・トフラーとユヴァル・ノア・ハラリの
共通点は、楽観主義を基本として未来を語ってい
るところである。未来を語る上で、悲観主義的な
事柄を述べていては未来が無い。知的な楽観主義
で未来を思考することが最も重要だと私は主張し
たい。
双方著者の著書物発行は、40代からのもので
共通点がある。
更には、アルビン・トフラー逝去の年に、ユ
ヴァル・ノア・ハラリは、サピエンス全史を世に
問うわけである。彼の著書が数年単位で発行され
ている点で、21LESSONSまでの構想があっ
たものだと思われる。
それは、「未来の衝撃」刊行40周年を迎え2010
年、トフラー夫妻が発表した「40 FOR THE
 NEXT40」(今後の40年を左右する40の変化)
である。
_____________________________________
○アルビン・トフラー著作年代

1928年10月4日生まれ
2016年6月27日逝去88歳にて
  著  書     年   代(和訳)発行         年 齢
未来の衝撃     1970年(S45) ?             42y
第三の波      1980年(S55)10月 1日           52y
未来適応企業    1985年(S60) 3月 7日           57y
パワーシフト    1991年(H 3) 10月18日          63y
戦争と平和     1993年(H 5) 1月23日          65y
第三の波の政治   1995年 (H 7) 6月27日          67y
富の未来      2006年(H18) 6月 7日          78y
生産消費者の時代  2007年(H19) 7月25日          79y

○ユヴァル・ノア・ハラリ著作年代

1976年 2月24日生まれ
2024年   現在48歳
   著  書     年   代(和訳)発行        年 齢
サピエンス全史   2016年(H28) 9月30日         40y
ホモ・デウス    2018年(H30) 9月30日         42y
21LESSOONS  2019年(R 1) 11月30日         43y
緊急提言パンデミック2020年(R 2) 10月30日        44y

_______________________________________
「40FOR THE NEXT40」(今後の40年を左右
する40の変化)は、書物としては発刊されず、
ネット上でしか読むことができなかったが、World
Voice プレミアムでは、「世界各地で政治、経済、
社会、テクノロジーなど分野ごとに行なった分析
調査をベースに導き出された予測であり、
国家や企業そして個人が未来を左右する原動力を
知り、いかに生きるべきかを考察するための道
しるべともなるものだ。~」と解説している。
政治分野、社会分野ごとにまとめていたが、急速
な世界状況、社会状況の変化は、これらの議論を
はるかに超えた大きな第三の波がAIの登場で
一変するわけである。
日本にあっては、20110311の東日本大震災で
ある。

「汝自身を知れ」から始まるユヴァル氏のサピエンス全史の論説は、「国家や企業そして個人が
未来を左右する原動力を知り、いかに生きるべきかを考察するための道しるべ」となる意味合い
を深く掘り下げている。
ところで、ユヴァル・ノア・ハラリ氏について、『あいつはゲイである』『変態だ!』などと人格
否定から著書までを貶めて不評を語る者も多い。本も読まずに気分だけで他者を否定する無知蒙
昧な男性至上主義の輩は、どんな国・地域にもいるものだ。第二の波の底で、沈殿し続けるヘド
ロのような存在であり、未来を語るに値しない。LGBTIQの権利を著しく毀損しているのだ。

参考資料として、exaBase コミュニティ AI新聞の公開資料を参照されたい。
http://cyber-price.com/buddha/2020/12/06/yuval-noah-harari/
ユヴァル・オードリー対談(2020.07.12)「民主主義と社会の未来」全和訳
ユヴァル氏はゲイ、オードリー氏はトランスジェンダーという性的マイノリティーの話題から対
談は始まっている。AIメンターによるサポート、そしてユヴァル氏は未来を見つめる中世の歴史
家、オードリー氏は現在をハッキングする技術者として地球規模の問題を解決するために、ユニ
ークで個性的な特性や違いを消し去ることなく、未来に向けて新しい共有の「物語(価値観)」
を思考している。更にはユヴァル氏はイスラエル人、オードリー氏は台湾人として双方共に政治
体制、紛争当事国の環境下にある。二十一世紀の共通の価値観、古い物語の奴隷になるなとユヴ
ァル氏は述べ、オードリー氏はInternet of things(物のインターネット)を見たら、Internet of
being(人間のためのインターネット)を考えよう。バーチャルリアリティを見たら、リアリティの
共有を考えよう。機械学習を見たら、コラボ学習を考えよう。ユーザー体験を見たら、人間体験
を考えよう。特異点が近いと聞いたら、多元性がここにあることを忘れないようにしよう-
と文章をまとめている。


 この流れは、「第三の波」に描かれている。  -新しい人間の登場-
『-第三の波- 結論 第26章 人間性の未来 543ページ~
新しい文明が日常正確に急速に入り込んでくるにつれて、われわれは、自分自身がすでに時代お
くれの存在になっているのではないか、と自問せざるをえない状況におかれている。生活習慣、
物事の価値、日常の生活態度までが問いなおされるようになると、時として、われわれ自身が第
二の波の文明の遺物ではないのか、過去の存在になってしまったのではないかと考えたくなるの
も、無理からぬところがある。しかし、アナクロニズムとしか言いようのない人びとがいるのも
事実だとして、一方には、来るべき第三の波の文明を待望している「未来を予見する市民」もい
るはずである。われわれの身のまわりに起こった過去の退廃や崩壊を振り返って見れば、期待さ
れる未来の人間像の輪郭がみえてくるのではなかろうか。言ってみれば「新しい人間」の登場で
ある。~第三の波の文明が成熟するとともに、われわれがつくり出すのは過去の人間を見いだす
ユートピア的な男女でもないし、ゲーテやアリストテレスのような(ジンギス汗やヒトラーと言
ってもよい)スーパーマンでもない。ただ人間と呼ばれるにふさわしい人類を希求し、人間的な
文明を願望しているにすぎない。しかし同時にそうした人間らしさを、誇りをもって追求してい
くわけである。
では、こうしたのぞましい変革の結果を期待できるのだろうか。すぐれた、新しい文明への移行
は可能なのだろうか。これは、政治変革の必要性と言う、決定的な命題をどう解決するかにかか
っている。われわれは最後に、この、一面では恐ろしく、また一面では期待に満ちた展望につい
て触れることとしよう。未来の人間性は、未来の政治とともに考えざるをえないのである。』
この視点から、「第27章 時代おくれになった政治体制」「第28章 二十一世紀の民主主義」
へとすすみ、結ばれている。
後年、トフラーが「第三の波の政治」1995年 (H 7) 6月27日を発刊したのは、「二十一世紀の
民主主義」の内容を改訂増補したものである。
この箇所も、「民主主義と社会の未来」の基盤となっているところで、この課題を-新しい人間-
が、どう乗り越えていくのかがわれわれのテーマとなる。

第十四章 知的情報に満ちた環境

2021年07月01日 16時32分13秒 | 第三の波

永らく多忙な出張が続きましたが、これからはYouTube動画も駆使しながら、富の未来まで
読み込んでいきましょう。コロナ禍で外出もできない昨今、知的好奇心と未来志向を醸成で
きるよう、内容を充実させていきます。


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March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第14章 知的情報に満ちた環境

自然界実在する物体の陰に霊魂が存在し、一見、生命がないように見えるものにも生命力がひそんで
いる、とかつて世界中のさまざまな民族が信じていた。現在でもそういう民族が、多少は残っている。
マナと言われたものがそれである。アメリカインディアンのスー族は、その力をワカンと呼び、アル
ゴンキオン族はマニートウと、またイロクォイ族はオレンダと名づけた。インディアンたちは、周囲
の環境にはすべて生命があると考えたのである。

今日、われわれは第三の波の文明にふさわしい新しい情報体系をつくりつつある。それに伴って、
われわれは、自分たちの周囲に「生命を持たない環境」に、生命に代わって、知的情報を付与するよ
うになった。
この飛躍的な進歩の鍵を握ったのは、言うまでもなくコンピューターであった。電子的な記憶を組み
合わせてプログラムをつくり、インプットされた情報を処理するコンピューターは、1950年代の
初期には、科学が生んだ物珍しい機械にすぎなかった。


第三の波 第13章 脱画一化へ向かうメディア(2-2)

2015年09月22日 06時01分37秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第13章 脱画一化へ向かうメディア(2-2)
脱画一化したメディア
マスメディアは、第二の波の時代を通して、終始一貫、成長を続け、強大な力を誇るようになった。ところが今日、驚くべき変化が起ころうとしている。第三の波がごうごうと押し寄せ、マスメディアは急速にその影響力を弱めて、ただちに多くの前線から撤退をせまられている。これに代わって進出しはじめたのが、ここでいう「脱画一化メディア」である。
具体的な例として、まず新聞を取り上げよう。第二の波のメディアの最古参である新聞は、いま、その読者を失いつつある。1973年には、アメリカの新聞の総発行部数は、1日、6,300万部に達していた。しかし、1973年以降、発行部数は伸びるどころか、減少しはじめた。1978年には6,200万部に落ち込み、その後さらに下降線をたどっている。日刊紙の購読者も、1972年の69%から、1977年には62%に減少し、アメリカでも、もっとも重要な新聞のいくつかが手痛い打撃を受けた。ニューヨークでは、1970年から1976年の間に、三大日刊紙が合計55万の読者を失った。『ロサンゼルス・タイムズ』は、1973年をピークに発行部数が減り始め、1976年には8万部の減となった。フィラデルフィアの二大紙は15万、クリーブランドの二大紙は9万、サンフランシスコの二紙は8万以上と、軒並み減少している。一方、数多くの小新聞が出現し、それまでアメリカの主要日刊紙とされていた『クリーブランド・ニューズ』、『ハートフォード・タイムズ』、『デトロイト・タイムズ』、『シカゴ・トゥデイ』、『ロング・アイランド・プレス』は、ことごとく主流からしめ出された。同様の傾向はイギリスにも見られる。1965年から75年の間に、全国紙の総発行部数は8%減少しているのだ。
こうした低落傾向の原因を、テレビの出現に求めるだけでは十分ではない。最近、一群のミニ週刊誌、隔週刊行物とか、いわゆる「買物情報」といったものが登場しているが、これらは都会の大市場を相手にすることを避け、特定の地域住民や共同体のために、きめ細かい広告やニュースを提供するようになった。今日の大衆日刊紙は、これらの刊行物との激しい競争に直面している。大都市中心の大衆日刊紙は飽和状態に達しており、深刻な打撃をこうむっているのが現状である。小規模なメディアが機敏に動きまわり、マスメディアのすぐ後に迫っているのである。
次に大衆雑誌の例を見よう。1950年代の半ば以降、アメリカではほとんど毎年のように大衆雑誌が廃刊に追い込まれていった。『ライフ』、『ルック』、『サタデー・イブニング・ポスト』、これらはいずれも廃刊の憂き目にあい、その後復刊した場合でも、発行部数は前よりずっと少ない。
1970年から1977年の間に、アメリカの人口は1,400万も増加したが、雑誌の方は上位25誌の統計で、400万部も減少しているのである。
これと時を同じくして、アメリカではミニ雑誌が爆発的に誕生し、特殊対象や特定地域を狙った何千という新しい雑誌が登場してきた。パイロットや航空機のファンは、かれら向けの何十とある専門誌のなかから、好きなものを選ぶことができる。ティーンエージャー、スキューバ・ダイビング愛好者、退職者、女性スポーツ選手、古いカメラの収集家、テニス狂、スキーヤー、スケートボード愛好者、どれをとっても専門誌のないものはない。また特定地域を対象とした、『ニューヨーク』、『ニュー・ウエスト』、ダラスの『D』、『ピッツバーガー』といった雑誌がどんどん増えている。さらに、地方誌のなかでも特定対象向けの、たとえば『ケンタッキー・ビジネス・レッジャー』とか、『ウエスタン・ファーマー』といった専門誌が誕生し、ますます市場を細分化している。
今日、あらゆる組織、共同体、政治団体、大小の宗教団体は、速くて手間のかからない安価な新型印刷機を使って、みずから出版物を印刷している。もっと小さなグループでさえ、複写機で定期刊行物を次から次へと発行しており、こうした複写機は、アメリカのオフィスならどこにでも設置されている。大衆雑誌は、国民生活に対するかつての強大な影響力を失った。脱画一化雑誌、つまりミニ雑誌が、急速に大衆誌に取って代わろうとしている。
しかし、コミュニケーションの分野で第三の波が与えた衝撃は、印刷メディアにとどまらない。1950年から1970年の間に、アメリカのラジオ放送局の数は、233から5359に増えた。人口が35%伸びる間に、ラジオ放送局は129%増加したわけだ。言い換えれば、アメリカ人65,000人当たり1局だったものが、38,000人当たり1曲になったということである。別の言い方をすれば、だれもがこれまで以上に多くの番組のなかから自分の好きなものを選択できるようになったということであり、聴取者大衆を、増加しつつある放送局が奪い合っているわけである。
放送番組の多様化が進み、これまでのように不特定多数を相手とせず、特定の限られた聴取者を対象とする放送局も急増してきた。教育程度の高い中産階級向けにはニュース専門局ができた。多様な指向を持つ青年層に向けては、ハード・ロック、ソフト・ロック、カントリー・ロック、フォーク・ロック、それぞれの専門局ができている。黒人向けのソウル・ミュージック局、高収入層向けのクラシック音楽局、ニューイングランドのポルトガル人をはじめ、イタリア人、スペイン人、日本人、ユダヤ人といった、アメリカ国内のさまざまな民族集団を対象とした外国語放送局も出現した。政治評論家リチャード・リーブスは、こう書いている。「ロードアイランド州のニューポート市で、ラジオのAM放送のダイヤルをまわしたところ、38局も見つかった。そのうち3局は宗教専門局であり、2局は黒人向けの番組を編成しており、1局はポルトガル語で放送していた。」
さらに、音声によるコミュニケーションの新しい形態が登場し、特殊な放送局に流れた残りの一般聴衆を、容赦なく蚕食していく。1960年代には、小型の安いテープレコーダーやカセットプレーヤーが、若者たちの間に、燎原の火のようにひろがっていった。ところが、10年後の今日、ティーンエージャーがラジオを聴く時間は、60年代に比べて一般に予想されているのとは逆に、減少している。ラジオの全聴取時間の平均は、1967年の一日、4.8時間から、1977年には2.8時間にと急激に落ち込んでいるのである。
そこへ登場したのが市民バンドラジオ(CBラジオ)である。これはアメリカの一般市民に公開されている周波数を利用して交信できる、ウォーキートーキーのようなラジオである。従来のラジオ放送が一方通行であるのに対し(聴取者は番組の送り手に話しかけることはできない)、車にとりつけられたCBラジオは、5ないし15マイル以内なら、運転者同士が相互に連絡し合うことができる。
1959年から1974年の間に、アメリカでは、CBラジオはわずか100万台しか使われていなかった。ところが、「200万台になるのに8ヵ月、さらに300万台になるのには、3ヵ月しかかからなかった」と、ワシントンの連邦通信委員会も驚いている。CBラジオは、まるでロケットの噴射のような勢いで普及した。1977年には、およそ2,500万台が使用され、「お巡りがねずみ取りをしかけているから気をつけろ」とか、祈祷、それに売春婦の客引きにいたるまで、あれこれの連絡が、空中を飛び交うようになった。
ラジオ放送会社は、広告収入への影響を恐れて、CBラジオのために聴取者が減ることはない、と断言している。しかし、広告代理店の方は、かならずしもそうは考えていない。マーステラー広告会社がニューヨークで行なった調査結果によれば、CBラジオの使用者のうち45%が、カーラジオの放送を10ないし15%聴かなくなった、と答えている。この調査でさらに注目すべきは、CBラジオの使用者の半数以上が、カーラジオとCBラジオの両方を同時に聞いている、ということである。
いずれにしても、新聞、雑誌に見られる多様化傾向は、ラジオの世界においても例外ではない。出版界と同様、音声の分野においても、脱画一化が進行しているのである。
しかしながら、第二の波のメディアがもっとも重要な意味を持つ、驚くべき打撃を受けたのは、1977年以降のことである。われわれの世代にとって、もっとも強力で、もっとも多くの大衆を動員できるメディア、これは言うまでもなくテレビであった。ところが1977年になって、ブラウン管がゆらぎはじめたのである。「すべてがおしまいだ。放送や広告業界の幹部連中は、いらいらしながら数字をのぞきこんだ・・・かれらは、いまどういう事態が起ころうとしているのか、半信半疑だった。・・・歴史上はじめて、テレビ視聴時間が低下しはじめたのだ」と『タイム』誌は書いている。
「テレビの視聴者が減るなどと考える者は、かつてだれひとりいなかった」と、ある広告マンも嘆いたものである。
いまでも、いろいろな見方がある。テレビ番組が昔にくらべてくだらなくなった、と言う人もある。同じタイプの番組が多すぎる、とも言われる。テレビ会社の社長たちの首が何度もすげかえられた。新しいタイプのショウ番組が、あれこれと企画された。だが、もっと深い真の理由が、テレビというつくられた虚像の雲間から、ようやくその姿をあらわしたところである。テレビのネットワークが、大衆のイメージを集中管理し、全能を誇った時代は、いまやかげりを見せはじめている。NBCの前社長は、アメリカ三大ネットワークのばかげた視聴率競争を非難し、1980年代末には三社の市場占有率が50%まで落ち込むだろう、と予告している。というのは、第三の波の新しい伝達メディアが進出し、これまで放送界の前線に君臨していた第二の波のメディアの支配を、くつがえそうとしているからである。
ケーブル・テレビジョンは、今日すでにアメリカの1,450万世帯に普及しており、1980年代初期には、ハリケーンのような勢いでひろがる気配を見せている。業界の専門家の予測によれば、1981年末までには、2,000万から2,600万の加入者が見込まれ、アメリカ全世帯の50%が利用できるようになると言う。銅線の同軸ケーブルに代わって、毛髪のように細いファイバーを通して光の信号を送る、廉価な繊維光学システムがとり入れられれば、事態はさらに急速に進むだろう。簡便な印刷機やゼロックスと同様に、ケーブル・テレビジョンは一般視聴者を脱画一化の方向へ導き、小規模な視聴グループを数多くつくりだす。さらに、有線システムによって送り手と受け手の間のコミュニケーションが可能となり、加入者は番組を視聴するだけでなく、積極的に送り手側に呼びかけ、さまざまなサービスを要求できるようになる。
日本では、1980年代初期には、全国の市町村が光波通信ケーブルで結ばれ、ダイヤルさえ回せば、各種のプログラムから、写真、データ、劇場の予約状況、新聞や雑誌の記事にいたるまで、家庭のテレビ受像機で見ることができるようになるだろう。盗難防止や火災予防の自動警報器も、このシステムに組み込まれることになろう。
大坂郊外の住宅地、奈良県生駒市で、私は「ハイ・オービス」システムという実験的なテレビ番組に出演したことがある。それは光ファイバー・ケーブルを使った双方向の映像情報システムで、加入者の家庭にテレビ受像機といっしょにマイクロフォンとカメラをとりつけ、視聴者が同時に情報の送り手にもなりうる、というものである。私が司会者からインタビューを受けていたとき、自宅の居間でこれを視聴していた坂本という婦人が番組に参加し、あまり上手でない英語で気軽に私たちのお喋りに加わった。テレビのスクリーンに彼女の姿が映り、私に歓迎の言葉を述べてくれている間、部屋のなかを小さな男の子がはしゃぎまわるのが見えた。
このケーブル・テレビジョンは、音楽、料理、教育など、あらゆるテーマのビデオ・カセットを備えており、コードナンバーを打ちさえすれば、コンピュータが作動して、見たいものがいつでも家庭の受像機に映し出される仕組みになっている。
いまのところ、これを利用できるのは、およそ160世帯にすぎないが、「ハイ・オービス」の実験は、日本政府の補助と、富士通、住友電工、松下電器、近鉄といった企業から出資を受けている。この試みは、きわめて先進的であり、繊維光学のテクノロジーにもとづいたものである。
大坂へ行く一週間前、私はオハイオ州のコロンバス市で、ウォーナー・ケーブル会社の経営する「キューブ」システムを見学した。これは加入者に30回線のテレビ・チャンネルを供給し(放送局は4局しかないが)、就学前の児童から、医師、弁護士など特殊対象向けの番組を提供しており、なかには、「成人向け番組」まで用意されている。「キューブ」は、世界でもっとも進歩した、コマーシャルベースにのった双方向ケーブル・システムである。加入者には、小さな計算機に似たアダプターが渡されていて、プッシュ・ボタンで放送局と交信する。ホットラインと言うべきこの直通ボタンによって、「キューブ」のスタジオを呼び出し、そのコンピュータを作動させることができる。『タイム』誌は、このシステムを熱っぽい調子で、こう紹介している。「加入者は、地元の市政討論会に自分の意見を表明することもできれば、不要になった家庭用品のガレージセールをひらいたり、慈善オークションで芸術品の入札をすることもできる・・・政治家への質問、地元の素人タレントの人気投票にも、だれでもボタンひとつで参加できる・・・消費者は、各スーパーマーケットの商品の種類、品質、値段をくらべたり、レストランのテーブルを予約することもできる。」
しかし、既存の全国ネットワークをおびやかしているのは、ケーブル・テレビジョンだけではない。
最近、テレビゲームがもっとも人気のある商品となっている。何百万というアメリカ人が、テレビ画面をピンポン台や、ホッケー場や、テニスコートに変えて遊ぶこの小さな装置に熱中している。正統的な政治学者、社会学者にとっては、テレビゲームのこの急速な普及など、とるに足りない、分析の対象外のことと思われるかもしれない。しかし、こうした現象は、近い将来の、いわばエレクトロニクスにかこまれた生活環境に適応するための、事前訓練ないしは社会学習、と見ることもできる。そうした大きなうねりが、もうはじまっているのである。テレビゲームは、一般視聴者をますます脱画一化の方向へ導き、四六時中放送番組をみていた大勢の人たちに、スイッチを切り替えさせてしまった。さらに重要なことは、一見したところ毒にも薬にもならないようなこの装置を通じて、何百万という人びとが、テレビで遊び、これに語りかけ、交信することを学びはじめている、ということである。この過程で、かれらは受け身の受信者から、メッセージの送り手へと変わっていく。これまでテレビにあやつられていた人びとが、今度はテレビをあやつる側にまわろうとしているのである。
イギリスでは現在、テレビ画面を通じて提供される情報サービスがすでに実用化しており、テレビ受像機にアダプターをとりつければ、ボタンひとつでニュース、天気予報、金融事情、スポーツの結果など、各種の必要なデータを知ることができる。このデータは、自動的に活字が打ち出される受信テープのように、テレビ画面に次から次とあらわれる。たぶん近い将来、テレビ画面のどんなデータや画像でも、記録を残したいと思えば、用紙にコピーできるようになるだろう。情報のサービスという点においても、かつてない新しい変化を前にして、幅広い選択が可能になっているのだ。
ビデオ・カセットの再生機や収録機も、急速にひろまりつつある。アメリカでは1981年までに、100万台の普及が見込まれると言う。これによって、月曜日のフットボールの試合を録画しておいて、たとえば土曜日に再生して見ることができるし(ネットワークが提供する映像の同時性をうちこわすことになる)、映画やスポーツ競技のビデオテープの販路が開かれることにもなる。(英語のわからないアラブ人が、評判の高い番組があっても居眠りをしている、といったことはなくなるのだ。たとえば、モハメッドの生涯を描いた映画『メッセンジャー』が、アラビア語の金文字で飾られたカセットケースにおさめられ、これを手にすることができるからである。)また医師や看護士用の医学教材とか、消費者のための、組み立て式家具の組み立て方とか、トースターがこわれた場合の配線の仕方とか、きわめて特殊な内容のテープも、市販されるようになる。さらに重要なことは、ビデオ収録機を持つことによって、消費者がみずから映像の製作者になりうる、ということである。この点においても、一般視聴者は脱画一化の方向へ向かうことになるのだ。
最後に国内放送衛星について触れておこう。テレビ局は、放送衛星を利用することによって、既存のネットワークにたよらず、わずかな経費でどこへでも自由に電波を送れるようになる。これによって、個別の番組を供給するための、一時的なミニ放送網が可能となる。1980年末には、放送衛星から電波を受信するケーブル・テレビジョン地上局は、1,000局にのぼるだろう。「そうなれば、放送番組の配給元が、国内放送衛星の使用料さえ払えば、即座に、全国的なケーブル・テレビジョン放送網を利用することができる・・・どんなシステムのグループに対しても、番組を選択供給することができる」と、雑誌『テレビ・ラジオ時代』は書いている。ヤング・ルビカム広告会社の電子工学メディア担当副社長ウイリアム・J・ドネリーは、「国内放送衛星は一般聴衆をより細分化し、また全国放送番組をより多様化させる」と述べている。
以上、マスディアにおけるさまざまな進歩、発展について述べてきたが、ここにはひとつの共通の現象がある。すなわち、こうした変化は、不特定多数のテレビ視聴者を細分化し、文化の多様化を推進すると同時に、今日まで完全にわれわれのイメージを支配してきたテレビ・ネットワークの、強大な神通力に深刻な打撃を与えた、ということである。『ニューヨーク・タイムズ』紙の洞察力に富んだコラムニスト、ジョン・オコーナーは、こう要約している、「ひとつだけ、確かなことがある。もはや商業テレビは番組内容や放送時期を一方的に決めることはできない、ということだ」と。
表面的にはなんの関連もない、散発的な現象と見えるものが、実は緊密な相関関係を持っており、こうした変化がひとつの大きなうねりとなって、新聞やラジオから雑誌やテレビにいたる、広大なメディアの地平線を席巻しているのだ。マスメディアは、いま大攻勢を受けている。新しい、細分化されたメディアが、細胞分裂のように増殖し、第二の波の社会全体を完全に支配していたマスメディアに挑戦し、時にはその座を奪おうとしているのである。
第三の波は、真の意味で新しい時代、脱画一化メディアの時代を拓こうとしている。新しい「情報体系」が、新しい「技術体系」とともに出現しようとしている。この「情報体系」は、すべての領域でもっとも重要なもの、つまりわれわれの頭脳のなかの領域にまで、きわめて強い影響力を与えることになろう。こうした諸変化が一体となって、世界についてのわれわれのイメージと理解力を、根底から覆してしまうのだ。

「瞬間情報文化(ブリップ・カルチャー)」
マスメディアが脱画一化すると同時に、われわれの精神が細分化されるようになる。第二の波の時代には、マスメディアが規格化されたイメージをたえずわれわれに注ぎ込み、批評家という大衆心理なるものをつくりだした。今日では、大衆がすべて同じメッセージを受けとるようなことはなくなり、代わって、より小規模なグループに細分化された人びとが、自分たちで作り出したおびただしい量のイメージを、相互に交換している。社会全体が第三の波の特色である多様化へと移行していくとき、新しいメディアもまた、この変化を反映し、さらにそれを促進していく。
このことは、ポップミュージックから政治にいたるまで、あらゆる事象について国民の意見が分かれ、一致点を見出し難い状況が生じている背景を、説明する手がかりを与えてくれるであろう。コンセンサスを得られる状況ではなくっているのだ。われわれのひとりひとりが、相矛盾し、相互に関連のない、断片的なイメージ群によって包囲され、電撃的な攻撃を受け、これまでいだいてきた古い考え方はゆさぶられている。イメージの断片は、レーダーのスクリーン上に物体の位置を示す発光輝点のように、点滅する影の形(ブリップ)をとって、われわれに放射されてくる。事実、われわれは「瞬間情報文化(ブリップ・カルチャー)」のなかで生活しているのである。
評論家ジェフリー・ウルフは、「小説が扱う分野は、ますます狭くなり、微細なテーマに入り込んでいる」と嘆き、小説家は「次第に気宇広大な作品が書けなくなっている」とつけ加えている。ダニエル・ラスキンは『国民年鑑』や『なんでも早分かり』といった類の圧倒的に人気のある手引書を批評して、ノン・フィクションの分野においても、「精力を費やして、総合的に、なにかひとつの体系を打ち立てようとする作品はあまり望めなくなっているようだ。それに代わるものとして、手当たり次第に、ことさら面白そうな断片を寄せ集めたものが、評判がいい」と書いている。しかし、われわれのイメージが崩壊して、点滅する点のようになってしまっているという現象は、書物や文学の範囲にとどまらない。新聞や、エレクトロニクスを使ったメディアにおいても、それはいっそう、顕著である。
イメージが砕かれ、瞬時にあらわれては消えて行く新しい型の文化のなかで、第二の波の人びとは、情報の集中攻撃を受けて戸惑い、方向性を見失っている。かれらは、1930年代のラジオ番組や、1940年代の映画を懐かしむ。また新しいメディアが続出する環境に疎外感を持っている。というのは、ほとんど聞くものすべてがかれらを脅かし、狼狽させるだけでなく、かれらが目にし、耳にする情報の扱われ方そのものが、なじみにくいからである。
連続性をもって相互に関連し、有機的、総合的につながり合う一連の観念に代わって、レーダーのスクリーン上の発光輝点のように、非連続的で瞬時にきらめく、最小単位の情報に、われわれは身をさらしている。広告、命令、理論、ニュースの断片、と形はさまざまだが、これらの情報は、いずれもそれぞれ一部が省略されたごく少量のもので、これまでの脳裏のファイルには、ぴったりと納まらない。しかもこれらの新しいイメージは、なかなか分類しにくい。それは古い概念的な範疇を逸脱しているからでもあり、また、あまり奇妙な形で紹介され、またたくまに消えてしまい、一貫性に欠けているからでもある。第二の波の人びとは、瞬間情報文化の渦に巻き込まれて翻弄され、新しいメディアに対して内心の怒りを抑えきれずにいる。
第三の波の人びとは、これとは対照的である。30秒コマーシャルで分断される90秒の断片的ニュース、断片的な歌や歌詞、新聞の見出し、風刺マンガ、コラージュ、ちょっとした時事解説、コンピュータのプリントアウトといった、瞬間情報の集中爆撃を受けても、かれらは、そのなかで平然としている。貪欲な読者たちは、使い捨てのペーパーバックスや特殊な専門誌をむさぼり読み、莫大な量の情報をすばやく読み込んでしまう。そして、新しい概念や比喩によって、多量の瞬間情報を、手際よく、有機的な全体像にまとめ上げる。かれらは、第二の波の規格化されたカテゴリーや構造のなかに、新しい最小単位のデータを押し込めようとはせず、かれら独自の枠組みをつくりあげ、新しいメディアが放射する、ばらばらな瞬間情報を、みずから繋ぎ合わせるすべを身につけている。
現在、われわれの精神に求められていることは、単に既成の現実像を受け入れることではなく、新たな現実像を創造し、たえずこれを更新していくことである。これは途方も無い負担である。しかしこの努力が、より際立った個性を生む。つまり、文化と同様、人間性も多様化していくのだ。新たな重圧に耐えかねて、無関心や怒りのなかに閉じこもってしまう人もいるだろう。また一方では、十分に陶冶され、常に成長を続ける有能な人材として、より高度な水準で行動しうる人もいる。(いずれの場合も、緊張の度合いには差があるとしても、第二の波の時代の社会学者や空想科学小説家たちが予見した、画一化され、規格化された制御しやすいロボットとは、似ても似つかぬ人間像である。)
文明の脱画一化現象は、メディアの変化が如実に物語っており、同時にまた、メディアがその傾向にいっそう拍車をかけている。この脱画一化こそ、われわれが相互に交換する情報量を飛躍的に増大させたのである。現代社会が次第に「情報社会」になりつつたるというのは、このような情報量の増加があってのことである。
文明の多様化が進み、テクノロジーやエネルギーの形態、それに、そこに生活する人びとが多様化されればされるほど、そうした多様性を持ったものが全体としてひとつのまとまりを保つためには、情報もまた、この激しい変化に対応して、文明を構成する各要素のすみずみにまで、ゆきわたっていかなければならない。とくに激しい変化の重圧に見舞われている場合は、なおさらのことである。ひとつの組織を例にあげれば、その組織が分別ある行動をとろうとするなら、ほかの組織がどのように変化に対処しているかを、多かれ少なかれ、前もって知っておかなければならないだろう。個人についても同様である。われわれが画一的であれば、相手の行動も予知するために、互いを知る必要などないのである。逆に、われわれの周囲の人たちが、より個性化し、多様化されれば、われわれはより多くの情報を必要とし、相手がわれわれに対してどんな行動をとろうとしているのか、たとえ大雑把であるにせよ、あらかじめ知っておかなければならない。われわれは、こうした予測を持たなければ、行動を起こすことができないばかりでなく、他人と共存していくことすらできないのである。
その結果、人びとも組織も、たえずより多くの情報を必要とするようになり、たえず増大しているデータの流れを処理する大きなシステムが作動するようになるだろう。社会のシステムが首尾一貫して機能していくために必要な大量の情報と情報交換の迅速化に、第二の波の情報体系はもはや対処できず、その重圧に押しつぶされようとしている。第三の波は、この時代おくれになった構造を打ち壊し、これに代わるべき新しい体制を構築しようとしているのである。

第三の波 第13章 脱画一化へ向かうメディア(2-1)

2015年03月24日 20時22分42秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第13章 脱画一化へ向かうメディア(2-1)
 秘密情報員は、もっとも強烈な現代の象徴のひとつである。これほど見事に現代人の想像力をとらえているものはない。何百という映画が、007をはじめとする、向こう見ずなフィクションの世界の同類たちを、英雄的に描き出す。テレビやペーパーバックスも、無謀で、ロマンチックで、およそ道徳と無縁の、
実在のスパイよりはるかに大きい(時には小さい)スパイ像を、次から次へと描き出す。一方、政府も、諜報活動に何十億という金をつぎ込む。KGB(ソビエト国家保安委員会)やCIA、そのほか何十と言う情報機関が、互いにしのぎをけずりながら、ベルリンからベイルートへ、マカオからメキシコ・シティへと暗躍している。
 モスクワでは、西側の新聞記者がスパイ容疑で告発される。ボンでは、スパイの手が内閣にまでのび、高官が失脚する。ワシントンでは、連邦議会の調査官が、アメリカ、韓国、双方の秘密情報員を同時に摘発し、犯罪行為をあばきだす。そして、頭の上では偵察衛星がひしめき合い、地球上のどんな微細な点も逃さず、写真に収めている。
 スパイは歴史的に見て、新しいものではない。それでありながらなぜ、いまになってスパイへの関心が高まり、私立探偵や刑事、カウボーイを脇に追いやって、スパイが世間の人びとの想像力を支配するようになったのか、これは一考に値する。誰でもすぐ気がつくことは、これらの伝説との人物たちと、スパイとの間には、重要な違いがあるということである。物語に登場する両者を比較してみると、刑事やカウボーイは、もっぱら拳銃と腕力に頼っているが、スパイの方は、最新の、しかも魅力あふれるテクノロジーで武装している。たとえば、エレクトロニクスを使った盗聴器、コンピュータ、赤外線カメラ、空を飛び、水中を走る車、ヘリコプター、ひとり乗り潜水艇、殺人光線等々である。
 しかし、スパイが脚光を浴びるようになった深い理由が、もうひとつある。カウボーイ、刑事、私立探偵、冒険家、探検家、こうした書物や映画でおなじみの伝統的な英雄たちは、放牧のための土地を求め、金を欲しがり、羊を捕え、女を物にしようとした。つまり、手に触れることのできるものを追い求めた。だが、スパイはそうではない。
 スパイの大事な仕事は情報である。情報は、世界でもっとも急成長した。もっとも重要なビジネスであろう。スパイは、いま、情報体系を一新しようとしている革命の、生きたシンボルと言えるのである。

 イメージの貯蔵庫
 情報爆弾というひとつの爆弾が、現代社会のまっただなかで炸裂している。ばらばらに砕けたイメージの榴散弾が大雨のように降り注ぎ、われわれはこれまでの知覚の方法や行動の原理を、根底から変えなければならなくなっている。第二の波から第三の波の情報体系への転換期に当たり、われわれは、みずからの精神構造の変革を迫られている。
 われわれは、みなそれぞれの頭の中に、現実に対応する模型をつくり上げている。つまり、イメージの貯蔵庫である。イメージの中には、目に見えるもの、耳で聞くことのできるもの、あるいは触って確かめることのできるものさえある。また「知覚」によってしか認識できないもの、たとえば目の端にちらっと感じる青空のように、周囲の状況についての情報の痕跡といったものもある。さらに「母」と「子」といいう二つの単語のように、相互の関連を示す「連鎖」もある。単純なものがある一方で、複雑で概念的なものもある。たとえば「インフレーションは賃金の高騰によって起こる」という考えがそれだ。こうしたイメージの総体がわれわれの世界像であり、これが時間と空間のなかにわれわれを位置づけ、個人と周囲との関係の網の目をつくりあげるのである。
 これらのイメージは、どこからともなくあらわれる、というものではない。それがどのような方法で形成されるのかはわからないが、周囲から送られてくる信号や情報から、イメージはできあがる。仕事、家庭、教会、学校、政治的な取り決めなどが、第三の波の衝撃を感じ取り、周囲の状況の変化につれて揺れ動けば、われわれを取りまく情報の海もまた変化する。
 マスメディアが出現する以前のことを考えてみよう。第一の波の時代には、こどもはゆっくりと移り変わる村のなかで成長し、ほんの一握りの情報源にもとづくイメージによって、現実に対応する模型を頭のなかに描いていた。情報源は、学校の教師、僧侶、村長や役人、とりわけ、家族といった範囲にとどまっていた。未来心理学者ハーバート・ジェルジョイはこう記している。「昔はラジオやテレビが家庭になかったので、こどもは、さまざまな人たち、さまざまな人生を歩む人たちに接する機会がなかった。まして外国人に出会う機会などあろうはずもなかった。外国の都市を見物したことのある人も、ほとんどいなかった。・・・したがって、手本として見習うべき人はごく少数であった。」
 「手本と目される人達自身が、村人以外の人とつき合う経験に乏しいのだから、こどもたちが手本として選択できる範囲は、いっそうせまかった。」従って、村のこどもが抱く世界像は、極端に狭いものであった。
 その上、こどもたちが受け取るメッセージは、少なくとも二つの点で、冗長であった。まず第一に、ポーズや繰り返しの多い同じお喋りの形で、そうした情報を聞かされたからである。次に、同じようなことを何人もの口から聞かされるので、それに関する一連の観念が出来上がり、しかもそれが次第に増幅していくのであった。たとえば、「汝らかくあってはならじ」という同じ言葉を、教会でも学校でも教え込まれる。国や家族が言うことを、さらに教会と学校が繰り返したわけである。こどもは生まれた時から、共同体の一致した意見に従い、順応することを強いられていたため、こどもが脳裏に描きうるイメージと行動の範囲は、ますます限定されたものになった。
 ところが第二の波の時代になると、人びとが脳裏に描く現実像の手がかりになるカイロが、無数に増えることになった。もはやこどもは、自然や周囲の人びとからだけでなく、新聞、大量の発行部数を持つ雑誌、ラジオ、のちにはテレビから、イメージを与えられるようになった。それ以前は、教会や国家、家庭、学校などが、相互に補い合って、同じことを、繰り返し語りかけていた。しかし今や、マスメディアが巨大な拡声器となったのである。マスメディアは、地域、民族、種族、言語の境界線を越えて、その強大な影響力を行使し、社会思潮を形成しているさまざまなイメージを規格化したのである。
 視覚的なイメージと中には、きわめて広範囲に流布され、何百万という人びとの記憶の中に定着し、いわば聖なるイメージと化したものもある。風にはためく赤旗のもとで勝ち誇ってあごを突き出したレーニンのイメージは、十字架にかかったイエス・キリストのイメージと同様、何百万という人びとにとって、聖なるイメージとなっている。山高帽とステッキ姿のチャップリン、あるいはニュールンベルクで熱狂するヒットラーのイメージ、ブーヘンワルト強制収容所で薪のように山積みされた人間の死体、チャーチルのVサイン、黒マントのルーズベルト、風にひるがえるマリリン・モンローのスカート、そのほか何百というマスメディアのスターたちのイメージ、さらに世界的に知られた何千という商品、たとえばアメリカのアイボリー石鹸、日本の森永チョコレート、フランスの清涼飲料水ぺリエ、これらはすべて、世界的なイメージ目録にファイルされた、定評あるイメージとなっている。
 マスメディアは、こうしたイメージを集中的に大衆の心に植えつけることに寄与したが、その結果、産業主義にもとづく生産方式にとっては不可欠である、人びとの行動の規格化が助長された。
 第三の波は今日、いままで述べてきたことすべてを、一変させようとしている。社会の変化が加速されれば、われわれの精神もまた、これに呼応して変化せざるをえない。われわれは、新しい情報を受け取り次第、イメージ目録の修正を求められるのだが、その速度はますます速くなっている。過去の現実に根ざした古いイメージを捨て去り、それを常に更新しなければ、われわれは現実から遊離し、現実への適応能力を失う。現実に対処できなくなるのである。
 われわれの内部で、イメージが具体的な形をとってあらわれる速度がスピードアップされるわけだが、このことは、イメージが永続性のない一時的なものになっていくことをも意味する。ちらし広告、一回かぎりのホーム・コメディ、ポラロイド写真、ゼロックス・コピー、使い捨ての美術印刷、これらはいきなりあらわれて、すぐに消えていく。着想、信条、心構えも、意識のなかに忽然とあらわれ、挑戦を受け、抵抗に遭い、たちまちのうちにどこへともなく消えてしまう。科学や心理学に関する諸学説は、日ごとにくつがえされ、駆逐される。イデオロギーは打破される。何人もの著名人が、ダンスのつま先旋回のようにくるりとまわったかと思うと、もうその姿は見えなくなっている。政治や道徳の、相矛盾するスローガンが、われわれを悩ませる。
 走馬灯のように、めまぐるしくわれわれの心中を去来する一連の幻想がどういう意味を持つのか、またイメージの形成過程がどのように変わりつつあるのか。これを正確に理解することは、なかなかむずかしい。というのは、第三の波が、情報の流れをこれまで以上に速めただけでなく、われわれの日常行動を左右する情報の構造そのものを、奥深いところで変質させたからである。