アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

アルビントフラー・ハイジトフラー共著 富の未来(上)006

2012年01月22日 09時22分14秒 | 富の未来(上)
富の未来(上巻)の最終章、第6部「生産消費者」を文字数が多くなるために、2回に分けて抜粋紹介します。
まずは、第23章「隠れた半分」~第25章「第三の仕事」まで、最新事例の比較は、その後にまとめます。


2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)
第6部  生産消費者P.279~376
第23章 隠れた半分
 一人一日当たりの所得が一ドル以下の人が十億人を超えるという話をよく聞く。一日一ドルを大きく下回る所得でようやく生き延びている人が何億人もいるのだ。それどころか実際には、金銭をまったく使わない人がいまだにかなり多い。世界の金銭経済制度にまったく参加していない。はるか昔の祖先のほとんどがそうしていたように、基本的に自分たちで生産できるものだけを消費して生きているわけだ。これらの貧しい人の多くは、金銭経済に参加するためなら、ほとんどどんなことでもしょうとする。
 金銭経済に入るには、「金銭経済への七つのドア」とも呼べるもののうちどれかを通らなければならない。(以下略)
第一のドア
「何か売れるものを作る」。穀物の生産を増やす。似顔絵を描く。サンダルを作る。買い手を見つけ出せば、カギは開く。
第二のドア
「職につく」。働く。その報酬として金銭を得る。これで金銭経済に入れる。目に見える経済に参加できる。
第三のドア
「相続する」。親か親戚から金銭を相続すれば、このドアは開く。金銭経済に入れる。職を探す必要はなくなるかもしれない。
第四のドア
「貰う」。誰でもいいから、誰かから金銭を貰うか、売れば金銭を得られるものを貰う。どのような形でもそうしたものを貰えば、金銭経済に入れる。
第五のドア
「結婚する」。再婚でもいい。七つのドアのどれかを通ってすでに金銭経済に入っている相手を見つけて結婚し、相手がもっている金銭を夫婦で使えるようにする。そうすれば中に入れる。
第六のドア
「福祉の世話になる」。政府がしぶしぶながら給付金を支払ってくれる。金額はわずかだろうが、その分、金銭経済に入れる。
第七のドア
「盗む」。最後に、どの社会、どの時代にも盗むという手がある。犯罪者にとって最初の手段、自暴自棄になった貧乏人にとって最後の手段が盗みである。  
 もちろん、いくつかの小さな変形がある。たとえば賄賂があり、たまたま見つけた金銭を拾う場合もある。だが以上の七つが過去何世紀にもわたって、金銭経済に入るのに使われてきた主な入口である。
 本書で「目に見える経済」と呼ぶ金銭経済は、現在、世界全体で年間の総生産がほぼ五十兆ドルである。この金銭が、地球上で年間に生み出されている経済的価値の総額だとされている。だが、人類が年間に生み出している財とサービスの総額が五十億ドルではなく、百兆ドルに近いとすればどうだろう。五十兆ドル以外に、いうならば「簿外」の五十兆ドルがあるとすればどうだろう。あと五十兆ドルがあると信ずる理由が十分にあり、この見失われている五十兆ドルが次章以降のいくつかの章のテーマである。(以下略)

生産消費者の経済
 金銭経済に入るためのドアは七つだが、隠れた経済、「簿外」の経済へのドアは無数にある。そして以下で説明するように、このドアは金銭をもっていようがいまいが、誰に対しても開かれている。この経済に入るのに必要な条件はない。人は誰でも、生まれたときにすでに、この経済に入る資格を与えられている。
 目に見えない経済を、いわゆる「地下経済」「ヤミ経済」と混同してはならない。
(中略)
 実際には、これ以外に巨大な「隠れた経済」があり、ほとんど調査されず、統計の対象にならず、支払いの対象にならない経済活動が大規模に行なわれている。それは非金銭の生産消費者経済である。
(中略)
 人は誰でも生産消費活動に時間を使っており、どの経済にもかならず生産消費部門がある。きわめて個人的なニーズや欲求の多くはそれを満たす財やサービスが市場で供給されていないか、供給できないか、高すぎるからであり、あるいは、生産消費活動がほんとうに楽しいからか、必要不可欠だからである。
 金銭経済からいったん目を移し、経済のおしゃべりをあまり聞かないようにすると、驚くべきことが分かる。第一に、生産消費経済は巨大である。第二に、とりわけ重要な点の一部が生産消費経済で行なわれている。第三に、生産消費経済は、大部分の経済専門家にほとんど無視されているが、それがなくなれば十分後には、年に五十兆ドルの金銭経済が機能しなくなる。(中略)~とくに重要な問題である。

最高の母親
 生産消費にはフリーウェアの作成、電灯の修理、学校の資金集めのためのクッキー作りなど無数の形態がある。(中略)
 家族が行なうこれらの活動は通常、統計の対象にならないが、「同様の活動が市場で行なわれた場合と変わらない」生産活動だとリンジェンは論じる。いいかえれば、「生産消費活動」であり、非金銭活動である。これらの活動のために人を雇えば、請求金額の多さに仰天することになるだろう。
おまるテスト(略)
社会の分裂のコストは
 何人もの部外者が過去数十年に、富の創出にあたって生産消費活動が果たす決定的な役割を適切に評価していないと、経済学者を繰り返し非難してきた。(中略)
 活動家にも、『地球市民の条件』などのヘイゼル・ヘンダーソン、~主流派経済学がみずから視野を狭めていることを批判してきた人は少なくない。最後におそらくもっとも重要な動きとして、多数の国で無数の非政府組織が同じ批判を行なっている。
 だが現在でも、金銭経済とその巨大な影とをつなぐ決定的な相互関係を組織的に調査する努力はほとんど進んでいない。(中略)
 生産消費者が家族、地域社会、社会の結合を強める動きをとるとき、それは日常生活の一部なのであって、経済専門家がドル、円、元、ウォン、ユーロー、ボンドなどの単位で社会の結合の価値を示してくれれば。では、無給の労働は全体としてどれだけの価値があるのだろうか。

極度偏向生産統計
 1965年に早くも、34歳だったゲーリー・ベッカーが画期的な論文を発表し、こう指摘した。「いまでは、働いていない時間の方が、働いている時間よりも経済的厚生に重要かもしれない。だが経済学者が働いている時間に向ける関心は、働いていない時間に向ける関心とは比較にならないほど大きい」
 両者への時間配分を分析するために、学習などの労働以外の活動の価値を計算した。教室で学ぶ時間は有給の労働にあてることができたと想定し、失われた所得の総額を算出した。
 ベッカーの論文はこの単純化した紹介から予想されるものよりはるかに複雑であり、経済専門家が敬意を払う数式で表現されていて、経済理論の進歩をもたらす素晴らしい業績である。だが、ベッカーがこの論文を理由の一つとしてノーベル賞を受賞したのは、二十七年後の1992年であった。
(中略)
 このように経済専門家は、基礎的条件の深部にある時間、空間、知識という先進国経済にとって決定的に重要な要因をほとんど研究していないだけでなく、「経済的価値」の常識的な定義に固執しているために、急速に迫ってきた根本的な変化に目をつぶる結果となっている。
 経済専門家が常識的な定義に固執する一因は、金銭なら簡単に算出でき、数式化とモデル化が容易な点にある。無給の活動ではそうはいかない。このため統計にこだわる経済学の世界では、生産消費は中心的な関心の領域から外れることになる。金銭経済の分析に使われているものに対応する統計を、生産消費を対象に作成する動きはほとんどない。金銭が支払われる経済と支払われない経済とが影響を与えあう多様な経路を組織的に解明しようとする努力は、ほとんど支払われていない。
 例外のひとつに、オランダのマーストリヒト大学のリシャブ・アイヤー・ゴッシュによる素晴らしい研究がある。「価値の尺度になる金銭が使われない場合、価値を計測する別の方法を見つけ出す必要があり、価値を根拠づける各種の方法と各方法で表示された価値の交換比率を見つけ出す必要がある」と論じている。しかしゴッシュは全体として、多数の分野でみられる無給の貢献のうち、ソフトウェア生産消費者による無給の仕事に研究対象を絞り込んでいる。
 生産消費が確かにごく小さいのであれば、あるいは金銭経済にはほとんど影響を与えないのであれば、生産消費について無知でも問題はないかもしれない。だが、この二つの想定はどちらも違っている。そのため、たとえば国内総生産(GDP)のように、企業や政府が方針や政策の決定の基礎として頻繁に使っている統計が歪んでおり、極度偏向生統計と名付けるのが適切だといえるほどになっている。
(中略)
 これらの点がきわめて重要なのは、知識革命がつぎの段階に入るとともに、経済のうち生産消費セクターが目ざましく変化し、歴史的な大転換が起ころうとしているからである。
 貧しい国で大量の農民が徐々に金銭経済に組み込まれていく一方、豊かな国では大量の人がまさに逆の動きをしている。世界経済のうち非金銭的な部分、生産消費の部分での活動を急速に拡大しているのである。
 (以下略)

第24章 健康の生産消費
 今後あらわれる生産消費経済の爆発的成長で、多数の新たな億万長者が生まれるだろう。そうなってはじめて、生産消費経済は株式市場、投資家、経済専門家に「発見」され、「目に見えない経済」ではなくなる。日本、韓国、インド、中国、アメリカなど、先端的な製造業とニッチ・マーケッティングが発達している国、技術力の高い知識労働者が多い国が、真っ先にこの動きを追い風にできるだろう。だがそれだけではない。
 生産消費活動によって市場は大変動し、社会のなかの役割分担が変わり、富についての考え方が変化する。健康と医療のあり方も変わるだろう。その理由を理解するには、人口動態、医療コスト、知識と技術がいずれも急速に変化して、一点に収斂していくことをざっとみておく必要がある。
 医療の分野は、とくに目ざましく新技術が開発されている一方、医療機関がとりわけ時代遅れで、組織が混乱し、逆効果で、ときには致命的ですらある状況になっている。「致命的」という言葉は大げさすぎると思うのであれば、いくつかの事実をみてみるべきだ。
(中略)
 現在では豊かな国で死因の上位を占めるものはもはや、肺炎や結核、インフルエンザといった感染症ではない。心臓病、肺がんなど、食事や運動、アルコール、ドラッグ、喫煙、ストレス、性行動、海外旅行などの生活習慣から大きな影響を受ける病気である。
 だがこのような変化が起こったなかでも、医者が「健康の供給者」で患者が「顧客」だという基本的な見方は変わっていない。社会の高齢化によって、この見方を見直す必要に迫られる可能性がある。

百歳まで生きる確率は
 人口動態は必然だとする見方もある。そうだとするなら、必然も他のものと同じように変化している。現在、歴史上はじめて、六十歳以上の人口が十億人を超える時期が急速に近づいている。
(中略)
 どの国の医療制度も、生活習慣病の増加と社会の高齢化という組み合わせに対応できるようには設計されていない。~ いま必要なのは単なる改革ではない。はるかに劇的な動きである。

パニック状態
 ~前述のように、GDPは生産消費活動を考慮していないので、極端に歪んでいる。経済専門家が生産消費活動の価値を算出すれば、医療費の総額ははるかに大きくなるだろう。
(中略)
 だが、この全体像にはいくつもの欠陥がある。第一にこれらの数値の多くは、これまでの動きを直線的に延ばして予想されている。危機や革命の時期には、この種の予想は誤解を招くものになる場合がある。(略)残念なことに、工業時代の想定に基づいて改革を行なっていけば、意図は正しくても、問題が悪化するだけになる。政治家はコスト削減のために通常、「効率性」を高めようとして、組み立てライン型の医療、標準化された画一的な治療を行う「管理型」システムを追求する。
(中略)
 医療制度では今後もコストと非効率性が膨らんでいく。第二の波の方法を超えて、知識経済の到来によって開かれた大きな機会と生産消費型医療の新たな可能性を利用するようになるまで、この危機は解決できない。

画期的な進歩の大波
 医療の革命をもたらしうるのは、過去数十年に医療の知識(そして死知識)がすさまじく増加してきた事実だけではない。同時に、知識を管理する方法が変化してきた事実も重要である。
 世の中には、過去には入手できなかった医療情報があふれている。患者は医療情報をインターネットで即座に入手できるし、医師が司会をつとめる医療コーナーを設けているニュース番組が多い。
(中略)
 処方薬のテレビ広告解禁が間違いなく背景になって、ケーブル・テレビに二十四時間の健康番組専門局、ディスカバリー・ヘルス・チャンネルが生まれた。
(中略)
 患者がインターネットで探した論文のプリントアウトや、「医師薬年鑑」の関連ページのコピー、医学雑誌や健康雑誌の切り抜きをもって病院を訪れるようになった。鋭い質問をし、医師の白衣に敬意を払ったりしない。
 この点で、基礎的条件の深部にある時間と知識との関係が変わって、医療の現実が抜本的に変化しているのである。
 医師は医療サービスを売っており、経済的にみれば「生産者」であることに変わりはない。これに対して患者は「消費者」の立場を超えて積極的な「生産消費者」になり、健康という面での経済の生産にもっと寄与する能力をもつようになった。ときには生産者と生産消費者が協力して働くこともある。ときにはそれぞれが単独で働くこともある。そしてときには、両者が対立することもある。だが、健康と医療に関する一般的な統計と予想はほとんどの場合、医者と患者の役割と関係の急速な変化を無視している。
(中略)
 現在、実際の比率がどうなっているかは分からないが、社会の高齢化、医療費の圧力、知識の普及という要因の組み合わせによって、生産消費の比率が劇的に上昇する状況にある。だが、以上ではもっとも重要な変化になりうる点、すなわち将来の技術は考慮していない。この点を考慮するとどうなるかをみていこう。

糖尿病ゲーム
 患者の生産消費活動は、運動を増やしたり、タバコを止めたりすることには止まらない。自分の資金を投資して機器を買い、自分や家族の健康をもっと管理できるようにしてもいる。(中略)
 いまではインターネットで、アレルギーからエイズ、前立腺ガン、肝炎まで、あらゆる病気を発見するための自己検査用製品を見つけて、購入できるようになった。
(中略)
 こうした予想ではつねにそうだが、これらの機器のすべてが日の目を見るわけではなく、安くて実用的で安全な製品が開発できるわけでもない。だが、これらは今後あらわれる技術革新の第一波でしかない。今後の技術革新によって、家庭医療と医療機関の医療双方で経済性が変わるだろう。そして、ほとんど統計のない生産消費経済が金銭経済と関連しあうもうひとつの道になる。
 生産消費者は自分の金を投資して資本財を買い、非金銭経済での能力を高められるようにしている。それによって、金銭経済でのコストを引き下げることになる。
 生産消費の重要な役割を認識し、医師による産出と患者による産出の比率の変化を認識すれば、医療と健康の「産出高」が全体として増加するのではないだろうか。
 人口動態、コスト、知識の量と入手可能性の変化、今後予想される画期的な技術革新のどれをみても、生産消費者が今後の巨大な医療経済でさらに大きな役割を果たすことははっきりしている。 
 したがって、経済専門家にとって、非金銭経済を重要性が低いものだと片付けるのではなく、金銭経済と非金銭経済が互いに強化しあい、関連しあって富を創出し、健康を維持する全体的な体制を形成していく道筋のうち、とくに重要な部分を組織的に調査すべき時期がきている。
(中略)
 ~政府が医療に関して行える投資のうちとくに効果が高いもののひとつに、健康の生産消費者としての能力を高めるための知識を学校で教えることがあるとみている。
(中略)
 問題はこうだ。相互の結びつきがきわめて密接な知識経済で、医療危機と教育危機を関連したものとみるのではなく、それぞれ独立した問題だとする見方を維持する理由があるのだろうか。両方の分野で考え方と制度を革命的に変えるために想像力を使えないのだろうか。無数の生産消費者がすぐにも力を貸してくれるのだから。



第25章 第三の仕事
 ストレス過剰になっていないだろうか。忙しすぎるのではないだろうか。どうしてこれほど時間が不足するのだろうか。金銭経済が超高速で動いているので、「忙しすぎて時間がない」というのがほぼすべての人に共通の怒りのネタになっている。
(中略)
 熾烈な競争に急かされて活動が加速し、いくつもの活動を逐次処理していく方法から同時に処理する方法に変化しているのは、基礎的条件の深部にある時間との関係が大きく変化していることを意味し、同時に仕事、友人、家族との関係が大きく変化していることを意味する。
(中略)
 だがいまでは、さらに新しい負担がくわわっている。第一の仕事(有給の仕事)と第二の仕事(無給の家庭の仕事)にくわえて、第三の仕事(やはり無給の仕事)までかかえている人が多い。(以下略)

ビュッフェを超えて
 これはひとつの銀行だけの動きではない。アメリカでは2002年に、銀行の顧客がATMを140億回近く使っている。これは世界全体の3分の1にあたる。顧客にとって、ATMは窓口で順番を待つ時間を省けるので便利だ。急げ急げのいまの経済では、1分たりとも無駄にできない。
 窓口で銀行員が対応すれば、一人平均2分かかると想定しよう。その場合、顧客は合計280億分、つまり約4億7000万時間の仕事をタダでしたことになり、銀行はフルタイムで20万人分の仕事を節約できたことになる。
 だが、顧客の側は合計280億分を節約できたわけではない。ATMでもやはり、2~3分かかる。違いは顧客みずからキーをたたき、以前なら銀行の従業員がやっていた仕事の一部を引き受け、そうさせていただくために、往々にして追加手数料まで支払っていることだけである。皮肉なもので、銀行業界の専門家によれば、顧客はキーを叩くなど、何かやっていれば、待ち時間が短いと感じるものなのだという。
(中略)
 答えはこうだ。銀行の窓口係の仕事と同じように、有給の従業員から無給の生産消費者に移されるのである。
 あらゆる面で、世界各地の抜け目のない企業は「外部化」する巧みな方法をつぎつぎに編み出している。この点で最優秀賞を贈るべきは、貪欲で巨大なアメリカ企業ではなく、お好み焼きチェーンの「道とん掘」かもしれない。ビュッフェ・スタイルで盛り付けを客に任せる方法からはるかに飛躍して、テーブルにある鉄板で客が料理までする仕組みにしているのだから。(以下略)

スーパーの押し付け
 顧客に仕事を押し付けるのは新しい現象ではない。以前には、近くの食品店に行くと、商品はカウンターの中にあって、客が頼んだ商品を店員が棚から探し出すようになっていた。セルフ・サービスのスーパーマーケットは1916年、クラレンス・ソーンダーズがこの仕事を客がやってくれるはずだと考え、その仕組みで特許をとったときにはじまった。
 新技術によって、外部化を一層進めることで利益を増やせるようになった。何年か前のスーパーの様子をソーンダースがみれば、スキャナーを理解できなかっただろう。だが、当時はまだレジ係が必要だった。いまではいくつかのスーパー・チェーンの店舗で、顧客がハンドヘルドの機械を使って自分が買う缶や箱のバーコードを読み込ませ、クレジット・カードで支払いをする仕組みがとられている。ねえママ、このお店のレジには店員さんがいないよ・・・・。
(中略)
 いまの時代に登場してきた新しい現象は、情報技術の発達によって、驚くほど広範囲な活動で消費者を生産消費者にすることが可能になった点だ。その結果、あらゆる種類の企業が美味しいタダ飯の可能性を見つけだしている。
(中略)
 もちろん、他人に無給の仕事をする責任を負わせて経費を削減する点で、厚顔無恥大賞を贈られるべきは税務当局である。複雑な簿記と計算の責任をすべて納税者に負わせており、納税者は税金を納めさせていただくために、大量の仕事を無給で行っている。
 以上のように、人はみな、金を稼ぐための第一の仕事、生産消費者としての第二の無給の仕事にくわえて。やはり無給の第三の仕事までこなしているのだから、いつも時間に追われているにも不思議ではない。
 人びとは、生産、消費、生産消費の間で時間を再配分している。時間との関係が、この点でも変化しているのである。
 金銭経済での競争圧力を、社会の高齢化などの人口動態の圧力、知識の進歩と普及、生産消費に使える技術の急激な拡大という要因にくわえれば、今後、生産消費が爆発的に増えると予想する理由は十分にある。
 生産消費を増やして労働を外部化しようとする動きはきわめて強く、最近、新聞漫画の『ディルパート』に、経営者が「運が良ければ、顧客を訓練して製造と出荷までやってもらえる日はくるさ」とうそぶいている場面が出てきたほどである。以下でみていくように、これは法螺話ではないのかもしれない。




















アルビン・トフラー ハイジ・トフラー共著 富の未来(上)005

2012年01月01日 10時50分09秒 | 富の未来(上)
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)
第5部 知識への信頼 P.190~278
第15章 知識の先端
 グエン・ティ・ビンはベトナムの五十代の女性であり、ハノイから百キロほど南にある農村の小さな水田で米を生産している。ビンが水田で米を生産しているとき、他の人が同じ水田で米を作ることはできない。
 タチアナ・ラセイキナは二十代の女性で、モスクワの南にあるトリアッティのアフトワズ自動車組み立てラインで、ドア・ハンドルを取り付ける仕事をしている。ベトナムの水田と同様に、ラセイキナが働く組み立てラインが騒音をたてて操業しているとき、他の人が同じ組み立てラインを使うことはできない。
 二人の生活と文化は大きく違っている。一方は農業生産を象徴し、他方は工業生産を象徴している。だが共通点もある。農業でも工業でも、主要な資産、資源、製品は経済学でいう「競合財」である。つまり、ある人が使っているときに他の人が使えない性格をもっている。
 ほとんどの国は農業か工業を中心にしていたし、いまでもそうした国が多いので、経済学者のほとんどが富の創出の手段のうち競合財に関するデータを集め、分析し、理論化することでキャリアを築いてきたのは、以外だとはいえない。
 ところが思いがけず、これまでとは性格が違う富の体制が登場した。この制度では時間と空間との関係が劇的に変化したうえ、基礎的条件の深部にある第三の要因、知識との関係も劇的に変化している。
 時代に取り残された経済学者は、新しい富の体制の重要性を無視して何も変わってないかのように研究を続けるか、不適切な方法を使って新しい制度に探りをいれている。そうなる一因はこうだ。米や自動車のドア・ハンドルとは違って、知識は無形であり、知識とは何かを考えていくと、出口のない迷路に迷い込むのが普通なのだ。
 幸い、本書の目的には、対立しあう無数の定義をすべて検討していく退屈な作業は不要である。また、きわめて厳密で明確な定義も必要としない。頼りないように思えるかもしれないが、世界の知識基盤がどのように変化しているのか、いまの変化が将来の富にどのように影響を与えるかを明らかにするうえで役立つ実用的な定義があれば十分だ。
(中略)
 本書ではこれらの言葉を以上のようにつかうが、「データ、情報、知識」と何度も繰り返せばくどくなるので、この三つを区別する必要がない場合には、「情報」か「知識」という言葉で三つの概念の全体か一部を指すことにする。
 以上の区別ではせいぜいのところ、知識の大まかな定義にしかならない。だがこの段階では、新しい富の体制での「知識供給」とでも呼べるものを描いていくには、これで十分である。
 これまでに「知識経済」に関して、地球上のあらゆる言語で、無数の文章が書かれ、デジタル化され、無数の発言がなされ、議論されてきた。だが、富の創出に使われる資源や資産のなかで、知識にどれほど大きな性格の違いがあるのかを明確にしたものはほとんどない。そこで、まずは知識の性格がどれほど違うかを、いくつかの点でみていくことにしょう。
 第一に、知識はその性格上、非競合財である。(以下略)
 第二に、知識は無限である。(以下略)
 第三に、知識は線型ではない。(以下略)
 第四に、知識は関係性という性格をもっている。(以下略)
 第五に、知識は他の知識と関連をもっている。(以下略)
 第六に、知識はどの製品よりも移動が簡単である。(以下略)
 第七に、知識はシンボルや抽象的な概念に圧縮できる。(以下略)
 第八に、知識は蓄積に必要な空間が縮小しつづけている。(以下略)
 第九に、知識には、明確に表現されたものも、されないものもある。(以下略)
 第十に、知識は秘密にしておくのがむずかしい。かならず広まっていく。 

 これらを総合すると、経済専門家が扱いなれてきた有形の財とは性格がまるで違うことが明確になる。そこで、経済専門家のほとんどは、たいていの人がそうするように、首をふって自分が知っている世界に安らぎを求める。慣れ親しんだ有形の競合財の世界に戻ろうとする。
 だが以上にあげたのは一部でしかない。知識には、有形の財に基づく経済学の既成の概念でとらえきれない性格がまだまだある。
 
タイヤを蹴ってみる
 知識資産には奇妙で逆説的な性格がある。(以下略)

第16章 明日の「石油」
 不思議に思えるかもしれないが、「知識経済」がはじまってたっぷり半世紀が経過した現在でも、新しい経済の背景にある「知」については、赤面するほどわずかな点しか分かっていない。知識は明日の経済の「石油」だと主張する人が多いが~(以下略)

使えば使うほど
 だが、その際に出発点となるのは、中心的で単純な事実だ。富の基礎的条件の深部にある要因のひとつである知識も、現在の社会環境でとくに急速に変化する部分になっているという事実である。だからこそ、知識は石油にたとえることができない。
(以下略)
経済学は希少な資源の配分に関する科学だといわれてきたが、いまやこの定義は通用しなくなった。知識は無尽蔵なのだから。
(中略)
 あらゆる産業、あらゆるセクターが大量生産、大量消費から脱却し、さらに高付加価値で、さらに個々人のニーズにあわせた製品、サービス、体験を提供せざるをえなくなっている。そして何よりも、無秩序とはいえないまでも、複雑さを増していく状況で、はるかに速く、はるかに賢明に意思決定を行う必要に迫られている。
 だが、新興の知識経済に関して無数の分析と研究が行なわれてきたにもかかわらず、知識が富の創出に与える影響は過小評価されてきたし、いまでも過小評価されている。
 
製鉄所と製靴工場
 アメリカはいまでも製造業大国だが、製造業で働く人はいまや、労働人口の20パーセント以下になった。~(中略)
~こうした人は「知識労働者」に分類されていないだろうが、やはり知識か、その基礎になるデータと情報を生み出し、加工し、伝えている。事実上、就業時間の一部で知識労働者として働いているのだが、知識労働者には数えられていない。~
 要するに、以上をはじめさまざまな理由から、知識は経済専門家に長く軽視されてきた。いまでもそうだ。過去になかったほど軽視されている。このため、明日の経済の核心を見通すには、まず知識に関する知識不足を補う必要がある。

われわれの内部「倉庫」
 人はみな、どの時点でも仕事や富に関する知識を個々人でもっている。
 これらの知識は基本的に違う二つの方法で蓄積される。知識供給の一部は頭脳に蓄積される。人はみな、知識とその前段階にあたるデータや情報が一杯につまった目に見えない倉庫をもっている。だが、普通の倉庫とは違って脳は作業場であり、人は(もっと正確に言うなら、人の脳にある電気化学反応は)、数やシンボル、言葉、イメージ、記憶をたえず移動し、くわえ、差し引き、まとめ、整理しなおし、感情と組み合わせて新しい考えを生み出している。

総知識供給
 だが、世界の知識供給の大部分は、脳以外の場所に蓄積されている。これは人類の長い歴史のなかで、そして現代に積み重ねられてきた知識であり、大昔の洞穴の壁から最新のハードディスクやDVDまで、さまざまなものに蓄積されている。
 人類の当初数百年にわたって、知識をひとつの世代からつぎの世代に伝える方法は、ほぼ言い伝えだけにかぎられていた(そして、繰り返し語られるたびに不正確になっていった)。
 この「外部頭脳」は信じがたい速度で拡大している。~(略)
 この世界的な外部頭脳はまだ幼く、不安定であり、結合がまだ成熟していない。だが人類の歴史には決定的な臨界点があり、それがいつだったかは分からないが、知識の総量のうち、脳の外部に蓄積されている部分の量が、脳の内部に蓄積されている部分の量を上回った。われわれが知識についていかに無知なのかを証明するものがあるとするなら、それは、人類の歴史のなかできわめて重要なこの変化が知られていないか気づかれていない事実である。
(中略) 
 外部に蓄積され、急増している知識を、65億の脳に蓄積されている知識にくわえてはじめて、人類の知識供給の総量、総知識供給(ASK)とでも呼べるものを算出できる。これが汲めども尽きぬ源泉になっており、革命的な富はこれを活用できる。
 ASKが拡大しているだけでなく、それをまとめ、利用し、配付する方法が変わっている。インターネットの検索エンジンは検索の条件を細かく指定できるようになり、さまざまな方法で情報内容を組み合わせ、操作できるようになってきた。また、いままでのところ、欧米流の論理や考え方が知識の圧倒的な部分を占めているが、今後は世界的な知識のメタ・システムが発達し、欧米流以外の論理や多様な体系化の方法がくわわって、知識が豊かになるだろう。
 いま、あらゆる種類の富とその基礎的条件の深部にある知識との関係の全体が、過去に例のないほど急速に激烈に根本から変化しており、しかも、やはり基礎的条件の深部にある時間と空間との関係が同時に変化しているのである。この点を認識してはじめて、現在、富の創出をめぐって起こっている激変がどこまでの深さをもつものなのかを理解できる。
 
アルツハイマー病なんか怖くない
 (中略)
 実際のところ、人類の歴史のなかで、世界の知識の仕組みが現在ほど根本から変化したことはなかった。この点を理解しないかぎり、将来に関する最善の計画でも失敗するだろう。
 この点から、トマトには毒があるとの見方について、子供の頭が埋められているとの見方について考えていきたい。

第17章 死知識の罠
 考えることは重要だ。だが、われわれが考えている点の多くは間違っている。われわれが信じている点のうちかなりの部分は、まず確実に馬鹿げている。
(中略)
 現在では、仕事に必要な知識は急速に変化しているので、職場内と職場外で新しい知識を学ぶ必要が高まりつづけている。学習は終わりのない継続的な過程となった。このため、考えている点の一部が馬鹿げていても、困惑する必要はないといえる。馬鹿げたことを信じているのは自分だけではないのだ。
 その理由はこうだ。知識のすべての部分に結局のところ、賞味期限がある。ある時点で、知識は古くなり、「死知識」とでも呼べるものになる。

過去の真実
 プラトンの『国家』やアリストテレスの『詩学』は「知識」の一部なのだろうか。孔子やカントの思想はどうだろう。もちろん、これらの思想を「知恵」と呼ぶことはできる。だが、これらの著書や哲学者の知恵は、それぞれの人が知っていたこと、各人の知識基盤に基づいており、その多くは実際には間違いであった。
(中略)
エミリーおばさんの屋根裏部屋
(中略)
 皮肉なもので、先進諸国の企業は自社の「知識管理」「知識資産」「知的財産権」を誇っている。だが、金融工学専門家、エコノミスト、企業、政府は大量の統計を分析しているのに、意思決定の質の低下という形で、死知識のコストがどれほどになっているかは誰も考えていない。個人の投資、企業の利益、経済開発、貧困撲滅計画、そして富の創出の全体に、どれほどの障害になっているのかを考えてみるべきだろう。
(中略)
 こうした「思考の道具」のうちとくに重要なものに類推があり、これにある程度まで匹敵するほど重要なものはほとんどない。複数の現象が類似していることを見つけ出し、ひとつの現象について得た結論を他の現象に適用するのが類推である。
 人は類推という手段を使わなければ、考えることも話すこともほとんどできなくなる。
(中略)
 だが、類推という思考の道具は、使うのがむずかしくなっている。類推はいつの時代にも一筋縄ではいかないものだったが、いまでもますます使いにくくなった。世界は変化しており、以前に似ていたものが似ても似つかぬものになり得る。以前なら適切な類推になったものが、いまではこじつけになる。過去との類似が断ち切られていき、しかも気づかない間に断ち切られていくことが少なくないので、それに基づく結論は誤解を招きかねないものになる。変化が速いほど、類推が役立つ期間が短くなる。
 こうして、基礎的条件の深部にある要因のひとつ、時間の変化が、別の要因である知識を得るために使う基礎的な手段に影響を与えている。
 要するに、知識経済の専門家の間ですら、「死知識の法則」とでも呼べるmの、「変化が加速すれば、死知識の蓄積も加速する」事実について考え抜いている人はほとんどいない。現代に生きる人たちには、ゆっくりとしか変化しない昨日の社会に生きていた祖先よりも、死知識の負担が重くなっているのである。
 このため、いまの時代に生きるわれわれがとくに重視している考えの多くは、何世代かの後には笑いのタネになっているはずだ。
 


第18章 ケネー要因
 現在ではかつてなかったほど、経済学を学んだ人たちの力が世界全体で強まっている。
(中略)ところが、学生のころに学んだ考え方の多くは、「死知識の屋根裏部屋」に納めるか、それよりも死んだ考えの墓地に埋葬すべきものなのだ。

経済学の失敗
(略)
推定の推定
 もちろん、エコノミストの失敗は簡単に見つかるが、それをいいたてるのは公平な態度だとはいえない。人間が関係することにはかならず偶然がつきまとうので、意思決定者が要求するほどの確実性をもって将来を予想できる人は誰もいない。
(中略)
 それらにこれらの点では、経済学の考え方のうちかなりの部分が意味をもたなくなっているか、誤解を招くものになっている根深い理由を説明できない。
 第一に、いまの経済専門家が理解しようと努力している経済は、過去の偉大な経済学者が理解しようとしたものより、はるかに複雑だ。(以下略)
 第二に、さらに重要な点だが、いまの経済専門家が理解しようと努力している経済は、過去には考えられなかったほど、取引と変化のペースが速い。(以下略)
 第三に、それ以上に大きな問題がある。産業革命初期の経済学者は農業時代の考え方を超えなければならず、通用しなくなった考え方を捨てなければならなかったのだが、いまの経済専門家も同じ課題に直面している。工業時代の考え方を超えて、最新の革命的な富の波がどのように経済を変えているのかを理解しなければならない。
(中略)
 二十世紀には経済理論が大きく前進したが、その多くは現実の問題に高等数学を適用した結果である。つまり、ものを計測する点で前進してきた。ここで重視されてきたのは「もの」、それも有形のものである。
 しかし革命的な富は無形のものによって生み出され、無形のものを生産するという性格を強めている。革命的な富を理解するには、あらゆる資源のなかでもとくにとらえどころがなく、とくに計測しにくい知識をうまく扱わなければならない。
 過去の偉大な経済学者も、無形のものの重要性に気づかなかったわけではない。だが、経済がいまでは、過去になかったほど知識集約型になっているのである。

個別の研究
 経済学者が過去半世紀にいくつもの成果を上げてきたことは、認めておかなければならない。
たとえばゲーム論理が生まれた。また、過去には経済システム外とされてきたいわゆる外生要因と、経済システム内とされてきたいわゆる内生要因との間のフィードバックの関係についても理解が深まった。資本資産、オプション、企業負債の価格決定に関するモデルが発達した。これらの強力な分析ツールを開発した経済学者にノーベル経済学賞が与えられた。
(中略)
 過去五十年に四つの点で基本的な変化が起こって、経済学専門家と経済分析の新たな課題になり、いまでも課題となっているとアイゼナックは指摘する。
 第一は「ネットワーク産業」の成長だ。(以下略)
 第二は、前述のように、知識製品に「非競合性」という性格、使っても減らないという性格があることだ。(以下略)
 第三は、非マス化と製品のカスタム化が急速に進んでおり、いずれひとつずつ違った製品が作られるようになるとみられることだ。(以下略)
 第四は、資本が世界的に移動するようになったことだ。(以下略)
(中略)

未整備の枠組み
 このように複雑さを増している新しい問題に対応するために、経済専門家は遅まきながら、心理学、人類学、社会学など、かつて客観性に欠ける(つまり数量化が不十分だ)と切り捨てていた分野の専門家の協力を得るようになっている。(以下略)
 知識のうち、他の知識と組み合わせたときにはじめて価値が証明される部分の価値について、非同時化の効果について、富の波がぶつかりあったときに貿易のパターンがどうなっているかについてなど、まだ結論がだされていない問題は多いし、まだまったく研究されていない問題すら残されている。
 革命がはじまってから半世紀を経たいまでも、経済発展の現段階の全体像を一貫してとらえる理論は、構築されておらず、人類の歴史がいまどのような段階にあり、今後どの方向に進もうとしているのかを理解するのに、役に立つ理論は生まれていない。

愛人の侍医
 現在の革命的な変化の深さを理解できていない経済専門家が多いのは皮肉なことだ。優秀な人が同時に近視眼的であるのは、これがはじめてではない。
(中略)
 だが、ケネーの見方はひとつの点で決定的に間違っていた。農業が唯一の富の源泉だと主張した点である。(以下略)
 今日でも、優秀な経済学者がケネーと同様に視野の狭い考え方にとらわれている。問題の一部について素晴らしい研究を行いながら、もっと大きな構図を検討しておらず、革命的な富が社会や文化、政治に与える影響を無視している。ケネー要因にとらわれないよう、予防措置を講じておくべき時期がきているのだ。
 そのためには、真実と間違いとを見分けられるようにならなければならない。
第19章 真実の見分け方
 ~知識は富の創出の基礎的条件のなかでも深部の要因のひとつだといえるはずだが、死知識を除外したとしても、金や事業、富についてわれわれが知っている点のうち、さらにいうなら、われわれが知っていることすべてのうち、どれだけがまったく馬鹿げたことなのだろうか。あるいは完全な作り話なのだろうか。教えられたことのうち、どれだけを信用できるのだろうか。どうすれば信用できるかどうかが分かるのだろうか。

真実の試練
(略)
六つのフィルター
  企業の生死を左右しかねないほどの決定が、人命を左右しかねないほどの決定すら、時代後れの知識や、誤解を招く知識、不正確な知識、まったく間違った知識に基づいて下されている。
(中略)
 何かが真実かどうかを判断する際には、少なくとも六つの競合する基準が使われている。
(中略)

常識
 一般に「真実」とされているもののうちかなりの部分は、それが常識だからという理由で正しいとされている。(以下略)
一貫性
 この基準は、ある点が真実とみられる事実との間で一貫性がとれていれば、その点も真実であるはずだという想定に基づいている。(以下略)
権威
 日常生活で受け入れられている「真実」のかなりの部分は、権威がその根拠になっている。(以下略)
啓示
 なかには、神秘的な啓示と考えるものを「真実」の基準とする人もいる。(以下略)
時の試練
 この場合、真実かどうかの基準になるのは年数である。(以下略)
自然科学
 自然科学は他の五つの基準と違っている。真実の六つの基準のなかで唯一、厳密な検証に基づいている。(以下略)
 このような性格から、科学は六つの基準のうち、宗教や政治、民族や人種などに基づく狂信的な熱狂に反対する性格をもっている。迫害、テロ、異端審問、自爆攻撃などを生み出すのは、狂信的な信念である。そして科学は狂信的な信念を否定し、とくにしっかりと確立した科学研究の成果ですら、せいぜいのところ部分的で一時的な真実でしかないという認識を育む。
この考え方、つまり科学的な知識は改善でき否定できるものでなければならず、改善されるか否定されていくべきものだという考え方のために、科学は一頭地を抜くものになっている。この考え方のために、常識、一貫性、権威、啓示、時の試練などの他の基準とは違って、科学だけは自ら誤りを修正できる。
 他の五つの基準は有史以来使われており、静的で変化に抵抗する農業社会の性格を反映したものだが、科学は変化への道を切り開くものである。 
(中略)
 科学的方法が発明されて、人類は真実かどうかを判断する新しい基準、未知のものを調べるためのツールを開発する強力なツールを手に入れ、これがやがて、技術の変化と経済の進歩のための強力なツールにもなった。
 前述のように、ある一日に経済で下される決定のうち、「科学的」に下されたといえる部分はごくわずかしかない。だがこのわずかな部分によって、富を生み出し増やす世界の能力が様変わりしてきた。今後もそうなるだろう。自然科学の発展が妨害されなければ、そうなる。

真実の変化
 現実にはもちろん、人は誰でも真実かどうかを判断する際に、二つ以上の基準を使い分けている。病気になれば自然科学に頼り、道徳に関する助言では啓示に基づく宗教に頼り、その他の問題では身近な権威や著名な権威に頼る。これらの基準のどれを使うかで揺れ動き、いくつかの基準を組み合わせて使っている。
(中略)
 だが、何が真実で何が真実ではないのかについて考えが揺れ動くのは、個人の水準だけではない。文化や社会には「真実輪郭」とでも呼べるものがあり、真実の基準のなかでどれを好むのか、どの組み合わせを好むのかで、それぞれ性格が違っている。
(中略)
 将来の経済の姿は、どの真実のフィルターを使うのか、どの真実をみることを選ぶのかに大きく左右される。この点でもわれわれは、富の基礎的条件の深部にある要因との関係を、その結果を予想することなく変化させているのである。その結果、経済の発展をもたらす主要な源泉のひとつが危機に直面している。
 科学の将来が危うくなっているのだ。

第20章 研究室の破壊
 生きている知識と死んだ知識(死知識)をあわせた人類の知識基盤全体のなかで、自然科学と呼ぶ小さな部分ほど、過去数世紀に人類の平均寿命、食物、健康、富の向上に大きく寄与したものはない。ところが、富の基礎的条件の変化を示す事実の中に、自然科学に対するゲリラ戦の激化がある。(以下略)

剃刀の刃と権利
 科学者はこのように社会に寄与しているのだから、アメリカでも世界全体でも尊敬されていると思うかもしれない。過去には確かに尊敬されていたのだから。(中略)
 自然科学に反対する運動には、動物の権利を主張する狂信派以外にも、女性解放派、環境保護派、マルクス主義など、進歩的とされる運動のなかの異端派がくわわっている。学界や政界、マスコミでもてはやされる著名人のなかにいる支持者に支えられて、偽善的と考える点から冷酷で犯罪的と考える点まで、じつにさまざまな点で自然科学と科学者に非難を浴びせている。
(中略)
 以上から、多様でまとまりのない反科学のゲリラ運動が展開されていることが分かる。その周辺部分には、心霊現象や宇宙人の存在を信ずる人もおり、いうまでもなく、「代替」医療を自称する怪しげな療法を行なう人や、空中浮揚ができると主張する法輪功の信徒もいる。
(以下略)

政治の転換
 過去にはヨーロッパでもアメリカでも、自然科学に敵意をもつ人たちは通常、古くからの「右派」か、ときにはファシズムに近い勢力、さらにはナチズムですらあった。これに対して「左派」は通常、科学を支持してきた。マルクス主義は「科学的社会主義」だと主張してきたほどである。
 現在ではヘーゲルの弁証法ではないが、反科学の旗印をとくに熱心に掲げているのは「左派」である。(以下略)

男社会と占い
 自然科学に対する批判の大部分は、その核心である科学的方法に真正面から挑戦しようとはしていない。(以下略)

模範としてのラスベガス
 真実のフィルターとしての自然科学を攻撃する別の勢力に、ポストモダン思想がある。
(中略)
 ポストモダン思想はその核心部分で、自然科学の信頼性を否定しようとしているだけではない。その主張を極端にまで推し進めたとき、真実の基準のすべてに打撃を与えるものになる。真実という概念自体に疑問を投げかけるからである。そこまで極端になると、ポストモダンの思想家は紛い物を言葉巧みに売るセールスマンやカルト教団の教祖や詐欺師など、人間のだまされやすさを最大限に利用する人、「そんな話を信ずる理由がどこにあるのか」と聞かされたときにまともに答えられない人と変わらなくなる。 

環境の伝道師
 科学は前述のように、環境保護運動の一部からも攻撃を受けており、この運動は宗教に近い性格をもつようになっている。
 メリーランド大学のロバート・N・ネルソン教授はこう論じている。「20世紀末が近づいた時期、欧米社会では宗教の面で空白状態が生まれていた。・・・こうしたなか、環境運動がこの空白を埋めるようになった。・・・環境保護運動の参加者の多くにとって、魅力を失ったキリスト教の主流や革新主義に代わるものになった」
(中略)
 ネルソンによれば、「環境保護運動のメッセージの核心は、人類の幸せで、自然で、罪のない生活から転落した物語であり、エデンの園からの追放の世俗版である」。
 ネルソンはこうまとめている。「環境保護運動は外見こそ現代的だが、その内実は原理主義宗教に近い」。

秘密の科学
 知識経済の大黒柱である自然科学を脅かしているのが以上だけだとしても、懸念をもつのが当然であろう。
(中略)
 だが、真実をめぐる戦いの対象は自然科学だけにかぎられているわけではない。社会のなかのさまざまな集団がさまざまな理由で、人びとの心を操作し、人びとが世界を見る際に使っている真実のフィルター、つまり真実と嘘を見分けるために使っている基準を変えようと試みている。
 この戦いは名前がついていない。だが、工業時代の富の体制に代わっていま確立しようとしている革命的な富の体制に、大きな影響を与えるだろう。

第21章 真実の管理者
 ~洗脳にあたっては、何を考えるかを変えるより、なぜそのように考えるのか、その理由を変える方が効果的である。これは真実かどうかを判断するときに使うフィルターを変えることを意味する。個人の洗脳だけでなく、社会と文化の洗脳の場合にも同じことがいえる。
(中略)
  これらの変化のなかでもっとも重要な点は、自然科学の勃興の後、宗教的な権威の地位が低下したことである。宗教的な権威に簡単に無条件にしたがう姿勢は薄れた。新たな問題にぶつかったとき、宗教指導者以外に答えを求める傾向が強まった。神父や牧師は知識を授けてくれる唯一の源泉ではなくなり、最善の源泉でもなくなった。(以下略)

上司を説得する
 いままた、真実をめぐって、静かな戦いが繰り広げられている。二十一世紀には、考え方や文化に基づき、富に関する知識に基づいて経済の開発を進める国が増えていくので、信ずる点をなぜ信じているのか、その根拠がこれまでにもまして決定的な意味をもつようになるだろう。
(中略)
 だが、自然科学に制限をくわえるか沈黙を強いるようにすれば、未来の富が縮小して貧困の軽減が遅れるだけでなく、人類が身体と精神の両面で暗黒時代に逆戻りすることになろう。
 啓蒙の時代が終わった後に暗黒時代がくるようであってはならない。
 
第22章 結論 - 収斂
 過去が過ぎ去っていくペースが加速している。たとえば二十世紀の後半を振り返ったとき、時代を画した出来事の多くが、いまではかつてほどの衝撃力をもたなくなっている。
(中略)
 だが、今後数十年に起こるのは主に、半世紀前にはじまった革命、少なくとも十八世紀以降では最大の革命を定着させ、さらに発展させる動きになる。
 だから、ここで一息ついて、これまでの章で取り上げてきた主要なテーマをまとめておこう。
 第一に、富の革命は技術、株式市場、インフレとデフレと言った点だけにかかわるものではない。社会、文化、政治、さらには国際政治にかかわる動きでもある。これらの幅広い動きと経済の関係を、見落としていると、今後ぶつかる問題をまったく過小評価することになる。
 第二に、経済に関する議論や報道ではつねに「基礎的条件」の変動が注目されるが、こうした変動の大部分は、はるかに重要な変化への反応、つまり本書で「基礎的条件の深部」と呼ぶ要因の変化への対応が表面にあらわれたものにすぎない。基礎的条件の深部にある要因は、狩猟採取民族だった太古の時代から、あらゆる経済活動を規定してきた。
(中略)
 だが、現在の富の原動力となっている三つの主要な要因、つまり時間、空間、そして何よりも知識という三つの要因との関係でいま起こっている劇的な変化を無視していれば、経営のグルが行なう助言や、提案する戦略が役立つものになりうるだろうか。本書でここまで論じてきたように、これらの富の原動力が中心的な役割を果たしている事実を認識してはじめて、明日に備えることができるのである。
 
亀の時間
 このような理由から、本書では基礎的条件の深部にある三つの要因とそれらが富に与える影響をくわしくみてきた。
 たとえば、「非同時化効果」を例にとろう。(以下略)
 同時に、時代遅れの亀のように歩みの遅い公共セクターが、やはり内部に非同時性の深刻な問題をかかえながら、裁判や購買手続き、規制上の決定、許認可手続きなど、さまざまな点での遅れによって、企業に巨額の「時間税」をかけている。要するに、システムの一方がアクセルを目一杯踏み込んでいるときに、他方がブレーキを踏んでいるのである。
(中略)
 人類が時間と空間の使い方が変化していることを認識するのはむずかしくないが、基礎的条件の深部の要因のうち、いまの時代に決定的な影響を与えている知識が革命的に変化していることは、認識するのがはるかにむずかしい。知識はその性格上、無形で目に見えず、抽象的で、難解で、日常生活からは遠いことだと思える。だが、知識の役割を十分に認識しなければ、富の将来を正しく予想することはできない。
 そのため、いくつもの章にわたって、簡略にではあるが、先進国にとって最大の資源である知識の範囲、性格、役割を紹介した。だが、この点でも分析を行なうだけでなく、総合が必要だ。基礎的条件の深部の変化が、それぞれどのように影響しあうのかをみていく必要がある。
 たとえば、変化を加速して時間との関係を変えていくとき、知識の一部が時代後れになっていくのは避けられない。そのため、われわれが引きずっている死知識の量が増えていく。
 
かつては正しかった類推
 動きの加速によって時代後れになっていく事実があるだけでなく、考える際に使う主要なツールの一部が役立たなくなる。その好例は類推である。類推に頼らずに考えることは事実上不可能だ。この「思考ツール」では前述のように、複数の現象の間に類推を見つけ出し、ひとつの現象について得られた結論を他の現象にあてはめていく。
(中略)
 経済学が現在、破綻していることのほんとうの意味は、自然科学の危機が近づいている点と、あわせて考えたときにはじめて把握できるようになる。この二つの分野は、人類が富を生み出す方法にとくに大きな影響(少なくとも、とくに直接的な影響)を与えている。そしてこの二つの分野がともに、変化しようとしているのである。

知識の地図
 しかしこれらの危機すらも、はるかに大きな知識のドラマの一部にすぎない。経済学と自然科学は確かに重要だが、はるかに大きな世界の知識体系のなかの一部にすぎない。そして知識体系全体が、歴史的な大激変の時期に入っている。
 知識を新しい方法で切り分け、工業時代の専門分野の壁をぶち壊し、知識体系の深部の構造を再編する動きが進んでいる。知識は構造のなかに位置づけられていなければ、必要な部分を取り出して利用することができなくなり、関連性をもたないばらばらなものになる。このため、どの時代にも、学者は知識を分類してきた。
(中略)
 やがて、専門知識が求められる分野の数がどんどん増えていくのは明らかなように思える。知識がそのときの必要に応じて一時的で非階層型の形態へと組織化される結果、永久に続くとも思えた専門分野と階層構造すら消える可能性がある。そうなったとき、「知りうることの地図」は、いくつものパターンがたえず変化しながら点滅しているものになる。
(中略)
 強力な新技術を使えば、一時的な課題に取り組む人が、脱着可能で新鮮なモジュールとモデルを利用するのが容易になる。すでにそういう動きがはじまっている。ますます巨大になり、ますます多様になる各種のデータベースを調査し、比較して、これまで分からなかったパターンと関連を探るようになっている。これがいわゆるデータ・マイニングであり、(以下略)
 データ・マイニングによって、考えられもしなかった驚くべき発見も生まれている。
(中略)
 創造性には無関係だとみられてきた事実、考え方、知識を新鮮な形で組み合わせる必要があるとするなら、データベースの調査と比較は、技術革新の過程の基礎的な部分といえる。
(中略)
 成長する有機体としての知識が今後、どのような変わった近道や曲がり道を通っていくのか、最終的にわれわれをどこに導いていくのかは分からない。
 時間、空間、知識との関係、さらには基礎的条件の深部にあるその他の要因との関係でいま起こっている変化をすべて認識したとしても、いま起こっている世界的な革命がいかに大きなものなのか、その概要をおおまかにつかむことができるにすぎない。このおおまかな概要を超えて現在の革命を理解するには、目に見える経済だけでなく、いま登場している富の体制の「隠れた半分」に起ころうとしているとてつもない変化を検討する必要がある。

 探究をつぎの段階に進めなければ、われわれは個人としても社会としても、いまわれわれがつかんでいる驚くほどの可能性に気づかないまま、 今後の世界で右往左往することになろう。
(第5部 終了)







アルビン・トフラー ハイジ・トフラー共著 富の未来(上)002

2011年12月18日 15時30分38秒 | 富の未来(上)
2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)

第二部  基礎的条件の深部
第三章 富の波
 人類は何千年にもわたって富を作ってきた。地球上に貧困が蔓延しているのは事実だが、歴史をみるなら、人類は明らかに富を作り出す能力を高めてきている。そうでなければ、地球上に六十五億もの人が生活できるようになっているはずがない。いまのように長生きできるはずがない。そして、良かれ悪しかれ、世界全体でみて太りすぎの人が栄養不足の人より多いという状態にならなかったはずだ。
 これを偉業と呼ぶのであれば、人類がこの偉業を達成できたのは、鋤や馬車、蒸気機関、ビッグマックの発明以上のことをしたからである。人類は本書で「富の体制」と呼ぶものをつぎつぎに生み出した。これらの体制は、人類の歴史でとりわけ重要な発明であった。

有史以前のアインシュタイン
 富とは、もっとも広い意味では、必要や欲望を満たすすべてのものである。富の体制とは、金のためであろうがなかろうが、富を作り出す方法である。~人類が経済的な余裕を生み出せるようになってはじめて、富の体制と呼べるものが作られるようになった。それ以降、経済的余裕を生み出すために、きわめて多数の方法が試されてきたが、人類の歴史の全体を通して、この方法は大きく三つに分類できる。
 第一の富の体制が登場したのは、おそらく一万年ほど前、有史以前のアインシュタインともいうべき人物(おそらくは女性)が、現在のトルコにあるカラジャダ山の近くではじめて種を蒔き、富を生み出す方法を発明したときである。これによって、自然が食料を生み出すのを待つのではなく、かぎられた範囲内でではあるが、求めるものを自然が生産するようにすることが可能になった。~要するに、富の第一の波が世界各地に広がって、農業文明と呼ばれるようになるものが生まれたのである。

自分の肉を食べる
 ~しかし、現在でも第一の波の人口が過半数を占める国は多い。食人はめったにないだろうが、カンポレージが描いた恐怖の多くは、いまでも後進的な農業地域、農民が何世紀も前と変わらない生活をしている地域に残っている。

夢想すらできなかった富 
 第二の革命的な富の体制と社会として、工業社会が十七世紀後半に登場し、地球上のかなりの地域に変容と混乱の第二の波をもたらすことになった。~第二の波の富の体制がこれらの新しい思想とともに登場し、~大量生産、大衆教育、マス・メディア、大州文化が生まれた。~工業化は環境汚染をもたらした。植民地主義と戦争、惨状を伴った。だが、同時に、都市の工業文明が拡大を続け、農業で暮らしていた祖先が夢想すらできなかったほどの富を生み出すことになった。~どの形態でも、当初は生産に重点をおき、やがて消費を重視するようになる。
今日の富の波
 最新の第三の富の波は現在まさに爆発的に広まっており、工業時代の生産要素であった土地と労働と資本に代えて、進歩しつづける知識を基盤にすることで、工業社会のすべての原則に挑戦している。
 第二の富の波の体制が大規模化をもたらしたのに対して、第三の富の波は生産、市場、社会の脱大規模化、細分化をもたらしている。
 第一の波の農業社会で一般的だった大家族に代わって、第二の波の工業社会では画一的な核家族制度がとられたが、第三の波では多様な家族形態を認め、受け入れる。
 第二の波では垂直的な階層組織が作られ、高くそびえるようになったが、第三の波では組織が水平になり、ネットワーク型など、いくつもの違った構造が使われるようになる。
 (中略) 
 以上の大まかな説明は、三つの富の体制とそれに付随する三大文明の違いをごくわずかに取り上げたものにすぎない。だが、この説明だけでも、中心テーマが浮かび上がってくるはずだ。第一の波の富の体制は、主に栽培に基づいており、第二の波の富の体制は製造に基づいていた。これに対して第三の波の富の体制は、サービス、思考、知識、実験に基づくものという性格を強めているのである。

第4章 基礎的条件の深部
 ~だが「基礎的条件」という言葉が何を意味しているかは、まったく不明確だ。
この言葉は誰が使うかによって「インフレ率の低さ」や「信用力の健全性」、「金と銅の世界価格」を意味する場合もあるし、意味しない場合もある。~だが、これらの要因に関心を奪われて、それ以上に重要な点を見落としているとすればどうだろうか。これらの要因を直接間接に動かす力がもっと深い部分にあり、この「基礎的条件の深部」ともいえるものが、表面近くにある基礎的条件を形作っているとすればどうだろうか。
 いわゆる基礎的条件が示すものと、基礎的条件の深部が示すものが違っていればどうだろうか。そして、もっと基礎的でもっと強力な要因が急速に変化しているとすれば、どうなるだろうか。
 
無謬説
 キリスト教神学には「無謬説」という言葉がある。この説を信じる人は、二千年にわたって解釈と翻訳にさまざまな問題があったにもかかわらず、聖書には誤りはなくその言葉のひとつひとつを字義通りに理解しなければならないと主張する。
経済学にも無謬論者がいる。経済理論では説明がつかない事実、不思議な事実、矛盾する事実がさまざまにあるにもかかわらず、実際には何も変わっていないと主張する。
(中略)
だが、表面にみえる基礎的条件から、もっと深い部分にある基礎的条件に視点を移すと、こうした幻想はすぐに吹飛ぶ。経済が「以前と変わっていない」という見方の誤りをもっとも説得力ある形で示しているのは、この深い水準での動きである。現在、富を生み出す構造の全体が揺さぶられており、今後、さらに大きな変化がくることが示されているのである。 

時代後れの基礎的条件
 表面の下の深い部分にはそうした基礎があるし、それがどういうものなのかを見極める一貫した方法もある。
 地球上には現在、前述のように性格が大きく違う富の体制が三つあり、少々乱暴な言い方ではあるが、鋤、組み立てライン、コンピュータがそれぞれを象徴している。
 まず知っておくべき点は、いま「基礎的条件」とされているものの大部分が、三つの体制に共通したものではないことである。
たとえば、「強力な製造業」は工業時代の富の体制では決定的な意味をもつが、工業化以前の農業社会にはほとんどないに等しい。そしていまでも、世界のなかにはそういう地域が多数ある。(中略)要するにいわゆる基礎的条件のなかには、社会の発展段階のうちひとつの段階では重要だが、他の段階では重要性をもたないものがある。
これに対して、基礎的条件のなかには富の生成に不可欠であり、どのような経済でも、過去、現在を問わずどの文化、どの文明のどの発展段階でも重要なものがある。
これらが、基礎的条件の深部である。

職の将来
 基礎的条件の深部には明白な要因にある。たとえば仕事がそうだ。
 農業労働に代わって工場労働が主流になるまで、昔の人たちのほとんどは職についたことがなかったというと、驚く人が多いかもしれない。金持ちだから職につかなかったのではない。絶望的なほど貧しい人がほとんどだった。職につかなかったのは、「職」がまだ発明されていなかったからだ(いまの感覚での職、つまり決められた仕事をして、決まった給与を支払われる仕組みはなかった)。蒸気機関などの産業技術もそうだが、職と賃金労働が普及したのも、たかだか過去三世紀のことなのである。
 仕事自体も、野外から屋内に移り、時間が日の出と日の入りで決まるのではなく、タイム・カードで決められるようになった。仕事の報酬の大部分が、働いた時間に基づく賃金として支払われるようになった。そして、この取り決めこそが「職」という言葉の意味なのである。 
 だが、職は仕事の方法のうちひとつにすぎない。そして、知識に基づく最新の富の体制が本格化するとともに、後に論じるように、「仕事」をする人が増える一方で、「職」につく人が少なくなる将来の姿に近づいていくだろう。その結果、労使関係、人事部門、労働法規、そして労働市場全体が劇的に変化する。現在の形の労働組合にとって、将来は暗いだろう。仕事に関する基礎的条件の基礎が、産業革命以降のどの時期とくらべても大きく変化しているのである。
分業も仕事と同じように、狩猟と採取の時代にすでに行なわれており、当時は主に男女間のものであった。
(中略)
 アダム・スミスは1776年に、の生産分業が「労働性の飛躍的な向上」の源泉だと論じた。それ以降、スミスが論じた通りになってきた。だが、作業の細分化と専門化が進むとともに、それらを統合するのがむずかしくなり、コスト高になってきた。イノベーション主導型の経済、競争が熾烈な経済ではとくにそうだ。
 どこかの段階で、統合のコストが超専門化の利点を上回るようになる。それに、狭い分野に関心を絞った専門家は、小幅な改良を積み重ねていくことは得意かもしれないが、画期的なイノベーションは専門分野の壁を超えた臨時チームによることが多い。しかも、各分野での画期的な革新によって、専門分野の壁自体が曖昧になっているときにあらわれていることが多い。これは、科学者や研究者だけにいえることではない。
 新たな富の体制では経済全体にわたって、各人の技能も仕事の目的も一時的なものという性格を強めているので、適切な人材を組織して目的を達成する方法を根本から見直すことが必要になっている。富の創出という観点からは、これほど基礎的な問題はほかにない。
 仕事と分業の基本が変化しているだけでなく、所得配分が、誰が何を得るのかが、長い時間をかけてまさに革命的に変化しようとしているのかもしれない。
 
相互作用
 これらは、いわゆる基礎的条件の基礎にある要因のうち、ごく少数の例にすぎない。そしてこれらの要因はひとつの体系になっているので、表面からみえるものよりはるかに重要である。
 基礎的条件の深部にある要因は、相互作用を起こしながら変化している。そして、ここまでに取り上げた例は、まさに限定的なものにすぎない。基礎的条件の深部にはさらに、環境、家族構造などの要因があり、これらすべてが、猛烈な速度で変化し、もっと表面に近い部分にあって話題になることが多い基礎的条件の基礎を揺るがしている。
 基礎的条件の基礎にある要因のいくつかが、くわしく検討されることもあった。たとえば、1970年代以降、生物圏と富の創出の関係が世界的に懸念と論争の焦点になってきた。だが、現在の富の革命でとくに重要な要因は、ほとんど注目されていない。
 そこで、基礎的条件の深部のうち、現在、とくに急速に変化し、とくに強力で、とくに魅力的な要因を探るために、ほとんど知られていない奇妙な領域を探検する旅に出発することにしよう。以下で扱う要因が間違いなく、富の将来を形作ることになるだろう。 

アルビン・トフラー 富の未来 その1(目次・他)

2011年06月17日 22時35分38秒 | 富の未来(上)
2006.6.7 REVOLUTIONARY WEALTH 富の未来(上)

目次:

第一部 革命
第一章 富の最先端(今月の流行・制約を緩める・ギターとアンチヒーロー他) 
第二章 欲望が生み出すもの(富の意味・欲望を管理する人たち)

第二部 基礎的条件の深部
第三章 富の波(有史以前のアインシュタイン・自分の肉を食べる・夢想すら・他)
第四章 基礎的条件の深部(無謬説・時代後れの基礎的条件・職の将来・相互作用)

第三部 時間の再編
第五章 速度の違い(列車は定時に進行しているか・レーダーで速度をはかると・他)
第六章 同時化産業(生産性を高める踊り・冷えた料理をなくす・土壇場の突貫作業)
第七章 リズムが乱れた経済(時間の生態系・時間の犠牲者・合併後の憂鬱・他)
第八章 時間の新たな景観(時間の鎖・高速の愛好・時間のカスタム化・他)

第四部 空間の拡張
第九章 大きな円(アジアだ、アジア・水門をあける)
第十章 高付加価値地域(過去に取り残された地域・国境の消滅・低賃金競争・他)
第十一章  活動空間(個人の地図・移動する通貨・侵略通貨と侵略された国)
第十二章  準備が整っていない世界(ウォール街より資本主義的・他)
第十三章  逆噴射(新タイタニック号・輸出過多・スプーン一杯のナノテク・他)
第十四章  宇宙への進出(人工透析から人工心臓まで・他)

第五部 知識への信頼
  第十五章 知識の先端(タイヤを蹴ってみる)
  第十六章 明日の「石油」(使えば使うほど・製鉄所と製靴工場・他)
  第十七章 死知識の罠(過去の真実・エミリーおばさんの屋根裏部屋)
  第十八章 ケネー要因(経済学の失敗・推定の推定・個別の研究・愛人の侍医)
  第十九章 真実の見分け方(真実の試練・六つのフィルター・真実の変化)
  第二十章 研究室の破壊(剃刀の刃と権利・政治の転換・男社会の占い・他)
  第二十一章 真実の管理者(上司を説得する)
  第二十二章 結論-収斂(亀の時間・かつては正しかった類推・知識の地図)

第六部 生産消費者
  第二十三章 隠れた半分(生産消費者の経済・最高の母親・おまるテスト・他)
  第二十四章 健康の生産消費者(百歳まで生きる確率は・パニック状態・他)
  第二十五章 第三の仕事(ビュッフェを超えて・スーパーの押し付け)
  第二十六章 来るべき爆発的成長(ギターとゴルフクラブ・際限のない消費癖他)
  第二十七章 さらにあるタダ飯(教師と看護師と馬・素人は重要・経済学の問題他)

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上・下巻の「富の未来」で、上巻だけで、27章300ページの書物ですから、
圧巻ですが、「第三の波」から「パワーシフト」へと進化した知識(究極の
代替物-富)を時間・空間の視点から解説したものが、上巻です。聞きなれた
「生産消費者」論を上巻の結論(結び)としています。
では、次回から、数章づつ勉強していきましょう。

カレン・トフラーについて

2011年05月29日 22時21分22秒 | 富の未来(上)
カレン・トフラーに関わる点は、著書の前文ならびに謝辞等に記載されている
内容から理解できます。

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1991,10「パワーシフト」
文頭  カレンへ 二人から愛をこめて
677ページ 謝辞
『娘のカレンには、どんな言葉で気持を表したらいいか分からない。原稿
整理の最後の数週間は、特に重圧の下で頑張ってくれた。重要な幾つか
の章での間違いの有無、最新データとの照合、文献や注釈の整理、それ
から索引の検証と続いた。本書の場合、これは機械的作業では叶わなか
った。なぜなら『未来の衝撃』、『第三の波』、その他の我々の仕事を含め、
索引については概念の整合性が必要とされるからである。』


1992,11「戦争と平和」21世紀、日本への警鐘
文頭  カレンへ 二人から愛をこめて 
408ページ 謝辞
『しかし、なんと言っても、この変化の加速化する世界をにらんで、各ペ
ージの資料をいつも最新のものに整えてくれた娘のカレン・トフラーに
は、いちばん感謝しなければなるまい。彼女の部屋はいつも夜遅くまで
明かりがついており、どんなに忙しい時も知的なユーモアを持ち続けて
いた彼女には頭がさがる。もちろんカレンといっしょに、事実の正確さ
に気をくばってくれ、専門的な知識でよく私たちを助けてくれたデェボ
ラ・E・ブラウンさんにもあわせてお礼を述べておきたい。』

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しかし、2000年代に入り、トフラー夫妻の著書がなかなか翻訳・出版されていない
状況が続きました。それは、娘の死だった訳です。

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2006,6「富の未来 上・下」
25ページ はじめに
『最後に、筆者夫婦のひとりっ子、カレンの病気が長引き、ついに死亡し
たために本書に集中できなくなり、執筆が長引くことになった。妻のハ
イジは何年にもわたって昼夜を問わずカレンの病床に付き添い、病気と
闘い、病院の官僚制度と闘い、医療の無知と戦ってきた。』


2007,7「生産消費者の世界」
91ページ 「人間」を再定義する
『宗教上の理由でES細胞の研究を支持してはならないと言うことは容易で
す。しかし、ES細胞の研究は病気で苦しんでいる人びとのすばらしい治
療法につながります。倫理的問題の解決が必要になりますが、技術の導
入や医学の進歩は重い病気に苦しむ患者、子どもを救うのです。道理に
かなっていませんか。推進すべきではありませんか。現在、子どもたち
の命を奪う多くの病気の治療を可能にするような技術の変容が見られま
す。難病で一人娘を失った親としては、わたしは新しい医療技術を支持
します。もっと早く開発されていたら娘も救われたかもしれません。』


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第三の波が、著者の論理の中心のように思われがちですが、暦年別に読み込むと
トフラーの「未来学」は常に様々な社会事象を取り入れて進化していることが、
わかります。特に富の未来に至った段階で、パワーシフトで取り上げた「暴力・金力・
知力(知識)」の三要素が、富を構成しており、無限の知識にも「死知識」が存在し、
時間と空間の同時化と非同時化にあって富が変化することを主張しています。
経済学における基礎的要因の深部という、斬新な指摘をすることになりました。
(次回へ続く)