差別の日である。生まれて初めて「構造的暴力」を体験した記念の日である。1949年、小学校一年生であった。たしかこの年から小学校生徒全員にカーネーションの造花を胸につけることが義務付けられたのだと思う。
全校生徒(千数百人)が赤い造花をつけている中で、独りだけ白い造花をつけさせられた。他人に知られてはならない秘め事を公開され、さらし者にされている心境であった。(もう一人戦災孤児の女児がいたが彼女は登校しなかった)
母を亡くして10ヶ月目、付き添いなしに小学校に登校し始めてひと月半であった。クラス中が急によそよそしくなり、登下校の際も、上級生たちが、白い造花に奇異の目をみはり、ヒソヒソと噂話を始めるのであった。
「プライバシー」という言葉も当時は無かった。「カラスの勝手」という言葉も知らなかった。令嬢気取りの女生徒らの差別の視線と、腕白どもの無遠慮で聞えよがしな罵詈雑言に、一日中ひたすら耐えた。「ラジカル被差別主義テロリスト」の誕生の日であった。
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「わたしは一日中物笑いとなり、人はみなわたしをあざけり」(エレミヤ書20:7).
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(今日のお弁当)
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(今日の笑顔)
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