静かなる大晦日である。諸勘定はすべて払った。愛のほか何人にも、何物をも負うことなくして、年を終ることができて感謝である。
旧年と別れるのは何となく惜しくある。しかれども、また一年だけ最後の救いに近づいたと思えば楽しくある。
「信仰のはじめより、さらにわれらの救いは近し」とある。我が生命の終末(おわり)が近づくのではない。わが真(まこと)の生命の初(はじめ)が近づきつつあるのである。
信ずる者は過去をかえりみて悲しまない。未来を望みて喜ぶ。 (内村鑑三)
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静かなる大晦日である。諸勘定はすべて払った。愛のほか何人にも、何物をも負うことなくして、年を終ることができて感謝である。
旧年と別れるのは何となく惜しくある。しかれども、また一年だけ最後の救いに近づいたと思えば楽しくある。
「信仰のはじめより、さらにわれらの救いは近し」とある。我が生命の終末(おわり)が近づくのではない。わが真(まこと)の生命の初(はじめ)が近づきつつあるのである。
信ずる者は過去をかえりみて悲しまない。未来を望みて喜ぶ。 (内村鑑三)
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葉 落ちて 枝 空(むな)し。されども知る、芽 成らずして、葉 落ちざることを。
木を割りて見よ、厳冬の梢(こずえ)の、すでにその皮下に春陽の花を隠すを見ん。
凋落(ちょうらく)は復興の兆(きざし)なり。
世の日に日に朽ちゆくは、革新の準備すでに成りたるに因(よ)る。 (内村鑑三)
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神谷町と言えば、普段は、日本技術士会のことなのである。月に二三度、多い時は、週に二回も出かけることがある。
その神谷町へ(横浜から)はるばる出かけて行って、技術士会には寄らずに用を足してきた。
用とは岡埜榮泉である。左党(呑み助)には分かるまいが、その餡は絶品なのである。ことに豆大福は毎日早々と売切れになり、(時間に制約のある)勤め人にはナカナカ入手困難なのである。
今回は年賀用の羊羹が目的である(それに栗饅頭、茶通、煎餅にカリントウ、もちろん豆大福も)。案の定、大繁盛で歩道にまで行列ができていて、店内に入るまでに20分も(通行人の邪魔をしながら)待たされる程であった。まったく罪造りな店である。
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師走である。同じ年の瀬の同じ時刻にも、いろんな世界がある。
都心の訪問先の隣で、ビル建設の基礎工事がなされていた。アネハ問題以来、設計変更や工程変更の規制が厳しいとか。周囲の空気まで緊張している。
その隣で、昼過ぎの約2時間、細かい株式データの転記作業を行う。煩瑣な無駄作業である(コンピュータ出力を手書きで転記するのである!)。案の定、転記ミスをおかして、捨印のお世話になることとなる。
相続関連では、しばしば、降って沸いたような「無理難題」を要求される。すべて「姉のため」と思い、「恨むなら義兄を恨め」と自戒して、要求相手に対しては腹を立てぬように堪(こら)える。その姉は、静かな別世界で年の瀬を迎えている。
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