今日「断捨離2時間スペシャル」という番組がありました。ずっと見ていたわけではないのですが、80代の両親の住む娘さんの実家の断捨離を映していました。
想像を絶する状態の家の中に、唖然としましたが、自分もなる可能性もあると思うこともあります。娘さんとご両親の間にも確執があったようで、10年も行き来がなかったそうですが、さすがに娘さんも心配の限度がきたのでしょう。
番組ではここ20年もそのままの状態の和室の片付け、リビングも台所も、すべて物が置かれて積み上げられていました。廊下も両側に物があったのですが、明らかに空き缶、ペットボトルなども廊下に置かれたままになっているのです。掃除機はいつかけたのかも、わかりません。この状態ではかけることも無理でしょう。
私が娘だったら、と想像してしまいました。大変なことですね。
ところが、番組の途中から、孫の男性が来て部屋の中よりも、おばあちゃんの事を叱責したことにより、おばあちゃんは「もういい、こんなことしたくない」と言って、そこから進むことができなくなりました。
私はこの番組の最後は見ていませんから、キレイになった部屋を取り戻して、家族仲良くとなって行く姿を想像していますが。
一体全体どうしてこのようになってしまったのか、少し思い当たることがあります。
何かきっとおばあちゃんの心が閉塞感に耐えられないような状態に長年に渡りなっているのではないかと、思えたのです。
閉塞感は、やる気を失います。
心の晴れがやる気を起こさせるのです。
以前、親戚のおばさんが亡くなり、大変お世話になった人も多く、沢山の親戚が葬儀にでかけました。その葬儀の後、母のいとこの叔父さんがこういったのです。
「人は死ぬ前に、人生をチャラにしていく。だからもうこの叔母さんのように自分を犠牲にして生きることは、やめなければいけない。あなた方は、自分の好きなことをして、これからは生きなさい。」と言ってくれたのです。
人生をチャラにすると言ったのは、この亡くなった叔母さんは、亡くなる前に記憶を無くしていく症状を持ち、何年も寝込んでいたからです。家族は大変だったと思います。優しくて、芯が強いようには見えないおばさんでした。でもきっと我慢を受け入れて、人の為にばかり生きてきたのかもしれません。
私は、人生を生きることは、すべて修行だと思ってきました。それは魂の修行、とも言われていることもスピリチュアルでしりました。しかし、その反面、もうこの時代において 自分を犠牲にしてまで生きて来た人が、最後に何か気づくことがあるのではないかしら、と思ったのです。
それは「少しだけ、自分の好きに生きたかった。」というものではないかしら?
そして、孫の叱責は、テレビスタッフの仕事中でもあるので、皆の前で、小さなころ、可愛がった孫にまで、人前で叱責されておばあちゃんは辛かったのではないでしょうか?
ただ、この方法が悪いと言っているわけではありません。血のつながりというものは、水に流すことができるからです。
おばあちゃんの孤独、それが大きなものになっていたのではないでしょうか?
家の外には花を植えた鉢が、ありました。ですからおばあちゃんは家の中はそんなふうでも、花を植えて外回りはキレイにしていたのです。
なにがおばあちゃんを変えたのでしょう?精神的な寂しさ、孤独感、誰もわかってくれない、おばあちゃんの辛いこと、どんな事を考えて暮らしていたのでしょうか?
家族に笑いがあるかどうか、それが家族には大切なことではないでしょうか?
積もり積もって、誰も理解せずに、家族は離れてしまったのでしょう。
断捨離という言葉は、なぜか年寄りには聞きたくない言葉です。
「断つ、捨てる、離れる」、この言葉が嫌な感じがするというのは、若者にはわからないかもしれませんね。
「お片付け」なんていう言葉も、しっくりしません。
どんな言葉がいいでしょう?
「シンプルな住まい方」が、最近は言われていますが、私はこちらの方がすきですね。
話を戻しますが、80歳の夫婦が二人で生活をしていくのは、とても大変なことだと思います。お掃除を出来たら月に1度は、誰か頼めたら、どんなにかいいでしょう。
ご飯ごしらえも、週に1度は、お弁当、外食などにしてもらえたら、どんなに楽になるでしょう。そういったことも、自分からはなかなか、言う事もままならない我慢強い世代なのではないでしょうか?
これは、私の身にも起こることですから、どうやって年をとるのか、考えてしまいます。
そして、できるだけ、早く動けるうちに、「シンプルな住まい方」を実践しましょう。
自分を主張することは、けして悪いことではありません。主張して理解を得て、自分の残りの人生を、心も健康に過ごしていきたいですね。