20世紀初頭のパリは、世界中から画家や画学生が集まる芸術の中心地だった。1920年代はエコール・ド・パリの時代で、モディリアーニ、シャガール、キスリング、ユトリロ、ローランサンや藤田嗣治など外国出身の画家が脚光を浴びた。パリ在住の日本人画家も最盛期は200人をこえていたらしい。パリで客死した佐伯祐三もその一人。
板倉鼎・須美子夫妻は藤田嗣治や佐伯祐三にくらべると知られざる(私が知らなかった…)画家といえるだろう。
1926年夫妻で横浜からハワイ、アメリカ本土を経由してパリに着き、3年余りモンパルナスに住み絵画制作に励み、短い生涯を終えた…
パリで生まれた娘と板倉鼎・須美子夫妻(1927年頃?)
『板倉鼎(いたくらかなえ・1901-29)は埼玉県北葛飾郡旭村(現在の吉川市)の生まれ。幼い頃より松戸市に過ごし、県立千葉中学校で堀江正章に学びました。1919年(大正8)東京美術学校西洋画科に進み、在学中に早くも帝展への入選を果た します。1925年(大正14)、ロシア文学者昇曙夢の長女須美子(すみこ・1908-34)と与謝野鉄幹・晶子夫妻の媒酌により結婚。翌年須美子とともにハワイ経由でパリに留学しました。須美子は鼎の影響により、1927年(昭和2) 頃より油彩画を手が けています。
パリでは斎藤豊作や岡鹿之助と親しみ、アカデミー・ランソン でロジェ・ビシエールに学びました。そして穏やかな写実的スタイルを脱し、簡潔な形と鮮烈な色彩による詩的な構成に新境 地を拓き、1927年にはサロン・ドートンヌに初入選しました。 一方須美子は、ホノルルの風物を純真な筆致で描き、やはり同展で初入選。当時の評判は、鼎よりもむしろ高かったといい ます。鼎は以後も精力的に制作を続け、須美子をモデルに、 あるいは窓辺の静物に取材して多くの佳作を残しますが、 1929年(昭和4)に惜しくも28歳で客死しました。ふたりの娘たちも、須美子も相次いで亡くなっています。早世したため評価の機会を逸しましたが、パリで確立した斬新・華麗な作風により、近年評価が高まっています。須美子の油彩画もまた、そ のまっすぐで明朗な造形が注目されています。
千葉市美術館では、2021年(令和3)に、板倉鼎のご遺族より 鼎の作品33点をご寄贈いただく機会に恵まれました。本展は これを記念して、鼎と須美子を長く顕彰してきた松戸市教育 委員会の全面的なご協力のもと、ふたりの画業を総覧します。 代表作を網羅するとともに書簡などの資料を展観し、夫妻の軌跡と作品世界の全貌を浮き彫りにします。』展覧会パンフレットより
会場は一部作品を除き撮影禁止出品作品で撮影禁止はネット画像を借用しました
(ネット画像借用)
板倉鼎 自画像 1921年
線の細い芸術家の顔ですね
板倉鼎 須美子 1925年頃
結婚直後の作品のようだ、大きな瞳が印象的
須美子さんの『婦人グラフ』記事
↓
(ネット画像借用)
パリに着いた須美子は鼎の両親に手紙を書いている
「巴里はほんとうに、芸術家の天国の様に、画についての何物も、たやすく、得ることが出来、他で見られない物を見ることが出来ます」とパリに感激し、これからの生活に心躍らせている様子が感じられます
板倉鼎 雲と秋果 1927年
戸外の光をうけた果実が輝く、明るい色彩のハーモニー
「私は静物で今まで垂れもがやってこなかった境地を開いてみる考えです」「こちらのえらい誰かの受け売りではない事は例え貧しくとも私の誇りです」と鼎は両親に手紙を送っている
パリでロジェ・ビシエールに師事し、手応えを感じていたようです
(ネット画像借用)
板倉鼎 黒衣の女 1927年
左右の眼の焦点が別々で形も異なり強い印象を残す
黒の衣服の透け具合、首元の赤、椅子の赤、袖口の赤
奈良美智の少女の原型のようだ
板倉鼎 垣根の前の少女 1927年
口元に小さな赤い花をくわえている、肩のレースが印象的
板倉須美子 午後ベル・ホノルル12 1927〜28年頃
アンリ・ルソーみたいですね、ロバと犬は絵本のようでかわいい
板倉須美子 ベル・ホノルル21 1928年頃
マリー・ローランサンが入ってますね
(ネット画像借用)
板倉鼎 白いシャツの須美子 1927年頃
左右焦点か合わない眼、かなりデフォルメされた長い胴体と組まれた両手、シャツの質感… 個性的表現で現代性を感じる いいですね😊
板倉鼎 画家の像 1928年
須美子をモデルにした作品
タータンチェックの衣装と手にした垂直なパレットの構図がおもしろい
少女のような純真さを持つ須美子が描かれている😊
平面性がいいですね
板倉鼎 ダリアと少女 1929年
ちょっと須美子が入っている?
(ネット画像借用)
板倉鼎 休む赤衣の女 1929年
板倉鼎の代表作で最高傑作だと思う
鼎の死によってサロンには出品されなかった、出品されていたらパリでの評価は決定的だっただろう
シワのよるベットに横たわる須美子は赤い服を着て、三角形を構成する不自然な姿勢でこちらを向く
ベッドの両端にはアネモネと金魚
窓の外には海と雲とヨット
強固な構図と明るい色彩にはイタリアルネサンスのフレスコ画も感じる
なんともモダンで清新さが印象的な絵画である
「休む赤衣の女」を完成させた28歳の鼎は、突然の病で急逝。
次女を亡くし、長女を連れて帰国した須美子だが、長女は2歳で亡くなり、須美子も25歳で病死する。
悲劇的な生涯と短い活動期間から、忘れられていた画家板倉鼎・須美子夫妻。
作品と書簡などの資料で、
時代の熱気と二人の画業
“短くも美しい生涯”を体験できた
★★★★★