古今東西のアートのお話をしよう

日本美術・西洋美術・映画・文学などについて書いています。

皇室のみやび 三の丸尚蔵館

2024-05-31 14:49:40 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等カテゴリー

“皇室のみやび” 最終第4 期
今までの展示はこのためだった
のか! と思わせる名宝の
オンパレード

時間まで二の丸庭園へ
咲き誇る ハナショウブ


さて、時間となり三の丸尚蔵館へ
冒頭から国宝、中世絵巻の傑作
春日権現験記絵
奈良・春日大社の創建と霊験の絵巻
藤原氏に連なる西園寺公衡(きんひら・1264〜1315)により、詞書を公卿鷹司基忠ほか、絵は絵所預・高階隆兼の筆で、延慶2年頃(1309)制作された
製作者、経緯を記した目録と全二十巻が欠けることなく現存する

第一巻
700年前とは思えない、豊麗な色彩と精緻な描写が残る
春日大社創建の様子
当時の宮大工の仕事がよくわかる
春日明神よる夢告(夢のお告げ)シーン 夢告を受ける夫婦と竹林に座す明神 眠りこけた見張り番 床下の犬

平穏な寝顔と正確な建築描写、衣裳の細かな柄に刮目
これだけ保存状態の良い絵巻はさすが皇室御物
天子摂関御影 天皇巻 藤原為信・豪信 1巻(4巻のうち) 鎌倉〜南北朝時代14世紀
人気の若冲に人だかり…
若冲 国宝 動植綵絵4幅(30幅のうち) と 酒井抱一 花鳥十二ヶ月図4幅(12幅のうち)

右から
二月 菜花に雲雀図
三月 桜に雉図
十月 柿に小禽図
十一月 芦に白鷺図

最も有名な日本絵画の一つ
国宝『唐獅子図屏風
右隻 狩野永徳(1543〜90)
桃山時代16世紀
223.6✕451.8

左隻 狩野常信(1636〜1713)
江戸時代17世紀
224.0✕453.5

狩野常信は、江戸狩野の木挽町狩野家2代目
一説によれば、右隻は、秀吉が毛利輝元と結んだ講和条約の証に制作されたという


『右隻は、右端下部の狩野探幽による極書によって、桃山画壇の巨匠・狩野永徳の数少ない確証的な作品として名高い。岩間を闊歩する雌雄の堂々たる獅子の姿は、実に力強い筆法で描かれ、単純な図様ながら、その迫力、勇壮さには、本屏風が永徳自身の作品であることを疑う必要はない。左隻は、後に狩野常信が右隻の図様にあわせて制作したもので、今日は一双として伝わる。明治21(1888)年に毛利元徳より献上』宮内庁HPより


朝陽霊峰 横山大観 昭和2年(1927)

閑庭鳴鶴・九重ノ庭之図刺繍屏風
高島屋呉服店 4曲1双 昭和3年(1928)
右隻
左隻
金地に刺繍絵が輝く、これぞ皇室御物✨

さらに、
七宝四季花鳥図花瓶 並河靖之 
明治32年(1899)

有線七宝のナミカワですね

(ネット画像借用)
右隻
左隻
重要文化財 萬国絵図屏風 8曲1双
桃山〜江戸時代17世紀

『右隻には、上部にペルシア王ら8人の王侯騎馬図、その下にポルトガル国とローマなどの28都市図を描き、左隻には中央4扇に世界地図、その左右に計42の諸国人物図が描かれている。南蛮貿易やイエズス会宣教師の渡来によってもたらされたと考えられる西洋の地図などをもとに制作された初期洋風画で、他の同種の作品に比べても、その描写は優れている。近年の修理の際、右隻から現状画面とは異なる下絵4図が確認された。この図様は「古代ローマ皇帝図集」の4皇帝図と考えられる。』宮内庁HPより

6月23日(日)までです!
お勧めします🙆

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茶の湯の美学 三井記念美術館

2024-05-30 17:22:27 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等カテゴリー

生死を交える戦国の世、利休により完成した“わび茶”の美学から古田織部、小堀遠州の茶の湯の美学を茶道具からひもとく

『三井家から寄贈された美術品の中で茶道具は、 江戸時代以来長年にわたり収集され蓄積したもので、数と質の高さにおいては他に例を見ないものです。茶の湯の歴史を研究する上でも貴重な作品群となっています。
今回の展覧会では、その中より桃山時代から 江戸時代初期、茶の湯界をリードした千利休 (1522~1591)・古田織部 (1544~ 1615)・小堀遠州(1579~1647)の茶 道具を選び、それぞれの美意識を探ります。
近年の茶道史研究では、茶の湯の歴史を問い直す研究が多く発表され、著名茶人の「作られた伝 説」を見直し、「真実の姿」が追究されています。今 回の展示はその動きを視野に入れながらも、3人 の美意識を、利休の「わび・さびの美」、織部の「破格の美」、遠州の「綺麗さび」という従来の捉え方で展示を構成いたし ます。
茶道具という「物」そのものをご覧いただき、そ こから利休・織部・遠州の美意識を感じ取り、茶の 湯の美学という観点から3人の「真実の姿」に 想いを馳せていただきます。』展覧会パンフレットより

会場は展示室1から展示室7まで、三井家が収集(旧蔵)した茶道具の名品がならぶ

三井家は、伊勢松阪出身三井高利(1622〜1694)が江戸日本橋に呉服店越後屋(現三越)を開いた事による
京都新町に仕入店と両替店の本部を置いた
当時の京都では、『茶の湯』は豪商の必須教養で高利も表千家と昵懇だったらしい
三井家の茶道具は、旧財閥の中で、質量とも傑出している

特に最初の展示室1(利休・織部・遠州の美意識)はため息が出る…
(展覧会は、展示室4のみ撮影可で、他はネット画像を借用しました)

古銅桃底花入 伝千利休所持 
13〜15世紀

古三島茶碗 二徳三島 伝千利休所持 朝鮮時代16世紀
姥口霰釜 千利休所持 与次郎作
桃山時代16世紀

均整の取れた美しい造形、霰の精緻さ、金属製?の蓋のなんとも言えない色調

重要文化財 黒楽茶碗 銘俊寛 
長次郎作 千利休箱貼紙 


伊賀耳付水指 銘閑居 随流斎・了々斎在判 桃山時代16〜17世紀
まさに破格の造形、360度破格である!!

伊賀耳付花入 銘業平 

桃山時代16〜17世紀


ざらざらの正面の裏は、薬が虹のような色彩を出している
織部好みの2作品、なんという美意識でしょう
多視点、キュビスム、空間のゆがみを予見しているようにも感じる

大井戸茶碗 銘須弥(別名十文字)
伝古田織部所持 朝鮮時代16世紀


高取面取茶碗 小堀遠州箱書
江戸時代17世紀

展示室2

国宝 志野茶碗 銘卯花墻
桃山時代16〜17世紀

展示室4
千利休の美意識=「わび・さびの美」
右から
伝村田珠光 漁村夕照図と山水図
室町時代15世紀
唐物茶碗 銘波瀾 南宋〜元12〜14世紀
一休禅師に参禅し、“わび茶”の祖となった村田珠光
足利義政の同朋衆とも交わり水墨画もよくした

千利休遺偈と利休像 千宗旦作 
江戸時代17世紀
秀吉に切腹を命じられた利休が、大徳寺で修行中の孫宗旦に遺した遺偈(ゆいげ)といわれる、

人生七十 力囲希咄 吾這寳剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛

直接の意味は、

人生七十年。 えい!やぁ!とう! 我がこの宝剣で、 祖仏も我と共に殺してしまえ、上手く使いこなすことのできる刀を引っさげて、 今、天にこの身を放つ

川辺勝一氏によると、

人生七十にして悟るところあり、侘茶とは凄いものである、この侘茶の道を武器として天下に問い、雄飛せよ。」参照元∶日本美術刀剣保存協会四国讃岐支部「利休の遺偈 川辺勝一」一つの卓越した見解だと思います。

千利休画像 卒啄斎利休遺偈 
三井高祐・卒啄斎 寛政6年(1794)
三井高祐は室町三井家の出で、数寄者として茶道具の蒐集にも熱心だったようです
聚楽第図屏風 桃山時代16世紀
利休は天正19年(1591)2月28日
聚楽屋敷にて自刃する

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板倉鼎・須美子展

2024-05-27 17:02:54 | 日記
20世紀初頭のパリは、世界中から画家や画学生が集まる芸術の中心地だった。1920年代はエコール・ド・パリの時代で、モディリアーニ、シャガール、キスリング、ユトリロ、ローランサンや藤田嗣治など外国出身の画家が脚光を浴びた。パリ在住の日本人画家も最盛期は200人をこえていたらしい。パリで客死した佐伯祐三もその一人。
板倉鼎・須美子夫妻は藤田嗣治や佐伯祐三にくらべると知られざる(私が知らなかった…)画家といえるだろう。
1926年夫妻で横浜からハワイ、アメリカ本土を経由してパリに着き、3年余りモンパルナスに住み絵画制作に励み、短い生涯を終えた…
パリで生まれた娘と板倉鼎・須美子夫妻(1927年頃?)

板倉鼎(いたくらかなえ・1901-29)は埼玉県北葛飾郡旭村(現在の吉川市)の生まれ。幼い頃より松戸市に過ごし、県立千葉中学校で堀江正章に学びました。1919年(大正8)東京美術学校西洋画科に進み、在学中に早くも帝展への入選を果た します。1925年(大正14)、ロシア文学者昇曙夢の長女須美子(すみこ・1908-34)と与謝野鉄幹・晶子夫妻の媒酌により結婚。翌年須美子とともにハワイ経由でパリに留学しました。須美子は鼎の影響により、1927年(昭和2) 頃より油彩画を手が けています。

パリでは斎藤豊作や岡鹿之助と親しみ、アカデミー・ランソン でロジェ・ビシエールに学びました。そして穏やかな写実的スタイルを脱し、簡潔な形と鮮烈な色彩による詩的な構成に新境 地を拓き、1927年にはサロン・ドートンヌに初入選しました。 一方須美子は、ホノルルの風物を純真な筆致で描き、やはり同展で初入選。当時の評判は、鼎よりもむしろ高かったといい ます。鼎は以後も精力的に制作を続け、須美子をモデルに、 あるいは窓辺の静物に取材して多くの佳作を残しますが、 1929年(昭和4)に惜しくも28歳で客死しました。ふたりの娘たちも、須美子も相次いで亡くなっています。早世したため評価の機会を逸しましたが、パリで確立した斬新・華麗な作風により、近年評価が高まっています。須美子の油彩画もまた、そ のまっすぐで明朗な造形が注目されています。

千葉市美術館では、2021年(令和3)に、板倉鼎のご遺族より 鼎の作品33点をご寄贈いただく機会に恵まれました。本展は これを記念して、鼎と須美子を長く顕彰してきた松戸市教育 委員会の全面的なご協力のもと、ふたりの画業を総覧します。 代表作を網羅するとともに書簡などの資料を展観し、夫妻の軌跡と作品世界の全貌を浮き彫りにします。』展覧会パンフレットより


会場は一部作品を除き撮影禁止
出品作品で撮影禁止はネット画像を借用しました
(ネット画像借用)
板倉鼎 自画像 1921年
線の細い芸術家の顔ですね

(ネット画像借用)

板倉鼎 須美子 1925年頃
結婚直後の作品のようだ、大きな瞳が印象的

須美子さんの『婦人グラフ』記事
(ネット画像借用)

パリに着いた須美子は鼎の両親に手紙を書いている
「巴里はほんとうに、芸術家の天国の様に、画についての何物も、たやすく、得ることが出来、他で見られない物を見ることが出来ます」とパリに感激し、これからの生活に心躍らせている様子が感じられます

板倉鼎 雲と秋果 1927年

戸外の光をうけた果実が輝く、明るい色彩のハーモニー

「私は静物で今まで垂れもがやってこなかった境地を開いてみる考えです」「こちらのえらい誰かの受け売りではない事は例え貧しくとも私の誇りです」と鼎は両親に手紙を送っている
パリでロジェ・ビシエールに師事し、手応えを感じていたようです

(ネット画像借用)
板倉鼎 黒衣の女 1927年

左右の眼の焦点が別々で形も異なり強い印象を残す
黒の衣服の透け具合、首元の赤、椅子の赤、袖口の赤
奈良美智の少女の原型のようだ

板倉鼎 垣根の前の少女 1927年
口元に小さな赤い花をくわえている、肩のレースが印象的

板倉須美子 午後ベル・ホノルル12 1927〜28年頃

アンリ・ルソーみたいですね、ロバと犬は絵本のようでかわいい

(ネット画像借用)


板倉須美子 ベル・ホノルル21 1928年頃
マリー・ローランサンが入ってますね


(ネット画像借用)
板倉鼎 白いシャツの須美子 1927年頃
左右焦点か合わない眼、かなりデフォルメされた長い胴体と組まれた両手、シャツの質感… 個性的表現で現代性を感じる いいですね😊

(ネット画像借用)

板倉鼎 画家の像 1928年
須美子をモデルにした作品
タータンチェックの衣装と手にした垂直なパレットの構図がおもしろい
少女のような純真さを持つ須美子が描かれている😊

板倉鼎 黒椅子による女 1928年

平面性がいいですね

板倉鼎 ダリアと少女 1929年
ちょっと須美子が入っている?

(ネット画像借用)

板倉鼎 休む赤衣の女 1929年


板倉鼎の代表作で最高傑作だと思う

鼎の死によってサロンには出品されなかった、出品されていたらパリでの評価は決定的だっただろう

シワのよるベットに横たわる須美子は赤い服を着て、三角形を構成する不自然な姿勢でこちらを向く

ベッドの両端にはアネモネと金魚

窓の外には海と雲とヨット

強固な構図と明るい色彩にはイタリアルネサンスのフレスコ画も感じる

なんともモダンで清新さが印象的な絵画である

「休む赤衣の女」を完成させた28歳の鼎は、突然の病で急逝。
次女を亡くし、長女を連れて帰国した須美子だが、長女は2歳で亡くなり、須美子も25歳で病死する。
悲劇的な生涯と短い活動期間から、忘れられていた画家板倉鼎・須美子夫妻。

作品と書簡などの資料で、
時代の熱気と二人の画業
“短くも美しい生涯”を体験できた
★★★★★

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皇居三の丸尚蔵館 皇室のみやび

2024-05-05 08:30:47 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等カテゴリー

ようやく晴れた日の皇居
外国人観光客の姿も多い大手門は
皇居東御苑入口(入場無料)


大手門から、番所、百人番所を通って、武道場済寧館の向かいに皇居三の丸尚蔵館がある


皇居三の丸尚蔵館開館記念展
皇室のみやびー受け継ぐ美ー
第3期を鑑賞
第3期のテーマは、近世の御所を
飾った品々



第一会場正面に
不思議な屏風?

琉球塗板屏風(旧桂宮家伝来) 
江戸時代(17〜18世紀)
『油と顔料を混ぜて描く油絵の一種、密陀絵(みつだえ)による屏風です。 表に花鳥や野馬などを描き、裏には山水や人物とともに詩文が記されています。旧桂宮家に伝えられた品で、江戸時代後期には桂離宮において、唐物の茶道具とともに飾られていた ことが記録から知られます。』作品紹介より

旧桂宮家は、一旦、豊臣秀吉の猶子となった智仁親王が鶴丸の誕生で猶子解消となり、秀吉の奏請で八条宮家を創設し、常磐井宮、京極宮、桂宮と称号を受け継ぐ。明治14年まで約290年存続した四親王家の一つ。「桂離宮」は、天正18年(1590)に八条宮家の別荘として造営された。


琉球塗料紙箱・硯箱 江戸時代(17世紀)

『琉球王国時代 (1429-1879)の17世紀頃に本土からの求めに応じて琉球で製作されたと考えられます。旧桂宮家に伝来しました。』作品解説より


修学院焼ふくべ形香炉 江戸時代18世紀

修学院焼は、修学院離宮の御庭焼で現存作品が希少な焼物
ふくべ形はユウガオの実をあらわす

第2会場正面は
衝立

牡丹に蝶 茶に小鳥図衝立
円山応立 江戸時代19世紀
『牡丹と蝶の図と、茶の花と小鳥の図を表裏に張った、親しみやすい画風の衝立です。腰板の蒔絵や縁の裂にも、宮中の美意識が見てとれます。応挙を祖とする円山家を継いだ円山応立は、安政2年(1855)に京都御所の障壁画を描いており、本 図もその頃制作されたのでしょう。』作品解説より


百鳥図 伝銭選 中国明時代16世紀
鳥の王、鳳凰を中心に43種97羽が描かれている
明治時代に京都・妙心寺より献上されたが、それ以前に御所にあった可能性があるらしい

浜松図屏風 海北友松 桃山時代慶長10年(1605)

源氏四季図屏風 円山応挙 
江戸時代18世紀

三の丸尚蔵館としては、精一杯の“平安ブーム”にのった演出が微笑ましい
雲紙本和漢朗詠集が国宝になったことを解説している

雲紙本和漢朗詠集 伝藤原行成
平安時代11世紀
『藤原公任撰『和漢明詠集』を書写した完本で、源兼行の筆 と推定されます。名称は藍で染めた雲形のある料紙の 使用に由来します。斜めに雲形が配置される点が本作の特徴です。跋文からは近衛家で旧蔵の後に禁裏御所の所有に期し たことが推測されます。 』作品解説より

国宝 更級日記 藤原定家筆 鎌倉時代13世紀
『国宝『更級日記』を貴族で歌人の藤原定家が書写した古写本です。奥書には、定家所持本の紛失により再度書写した旨があ り、本紙には出典等を注記した「勘物」が残ります。後水尾上皇の仙洞御所に伝来し、後西天皇の御遺物にも 含まれており、禁裏御所伝来の品と考えられます。』作品解説より

和歌懐紙・詩歌懐紙張交屏風
伏見宮貞敦親王ほか 
室町〜江戸時代16〜17世紀
『貞敦親王ほか親王、諸門跡、公卿、殿上人らの詠歌、詩詠した懐紙が、屏風1隻に24名ずつ、48名分が張り交ぜられま す。檀紙などの高級料紙が使用されており、禁裏や宮家主催の詩歌会でしたためられたと思われ、後に屏風に仕立てられて 伝来したと推測されます。』 作品解説より

源氏物語図屏風 狩野永岳 江戸時代19世紀
『『源氏物語』の紅葉賀や常標など4場面を、精緻な描写と鮮 やかな色彩で描いた屏風で、京都御所に伝来した作品です。 者の狩野永岳は、19世紀の京都で活躍した狩野派の絵師です。京都御所の障壁画制作に参加したほか、彦根藩の御用絵 師としても活躍しました。』作品解説より

六玉川図巻 住吉広守 江戸時代18世紀
『名所として知られた6つの玉川(六玉川)は、平安時代より歌枕として親しまれてきました。本作では和歌に詠まれた玉川の風景が、靄の合間に濃密な色彩と描線によって広がります。 江戸時代中期に活躍した住吉広守が、宮中の依頼により描い たと考えられます。』作品解説より

三の丸尚蔵館を出て東御苑へ

アヤメはもう少し先かな…

天守台石垣 天守は焼失
日本一の大天守だったようです

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