火坂雅志先生が、長岡市の講演会でお話された内容に感動したので、そのエッセンスを書いてみます。
上杉謙信はご存知の戦国武将ですが、特徴が2つあります。
一つは経済に明るかった。当時の越後は戦国の中でナンバーワンの経済力を誇っていました。金山銀山の開発や新田開発、殖産興業としての藍蘇による越後上布あるいは直江津港を使った貿易などで経済力を強化していました。
二つ目は「義」をテーマとしていました。当時は下克上と言われるように相手を出し抜くことや暗殺、謀略が当たり前の中で、正義、信義、義理人情の義を一国の統治に当たっての理念に据えました。これによって求心力が生まれ、多くの優秀な武将が集まり、上杉軍団という強力な組織が出来ました。
上杉謙信は経済と義という理念を両立した稀有の武将でした。
上杉軍団は、当時の武田軍団と並んで、織田信長や徳川家康の軍団よりも強かったと思います。例えば、徳川家康は信玄上洛の前に三方ヶ原の戦いで信玄に一蹴されています。その後信玄が逝去して後、信長は長篠の合戦で武田勝頼に勝利しましたが、信玄存命中は武田を大変恐れていました。一方武田信玄と上杉謙信がライバルであったことは皆さんご存知のとおりで、川中島の5回に上る闘いで互角の戦いで決着が着かなかったことを見てもわかります。
<解説>三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄軍2万7,000人と徳川家康軍1万1,000人(うち織田信長からの援軍3,000人)との間で行われた戦い。信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、家康の歴史的大惨敗であり唯一の敗戦として有名な戦である。
さて、直江兼続は上杉謙信の実姉・仙桃院の実子、景勝の小姓として、春日山城で謙信から薫陶を受けました。上杉謙信が49歳で急死後、御館の乱(おたてのらん)で、その家督をめぐって謙信の養子である景勝と景虎(実父は北条氏康)が戦い結果的に景勝が勝つのですが、この時には景勝は24歳、兼続は19歳でした。
兼続の使ったといわれる「愛」という字を前立にあしらった兜が米沢市の上杉神社稽照殿に伝わっています。この「愛」の字を使った理由については、2説あり私も迷っていました。天地人を書きはじめてからも迷っておりました。今日はこれについてお話したいと思います。
多くの歴史の先生が言われるには、上杉謙信が毘沙門天の信仰を表した「毘」の字を旗印に使用するなど、当時、神名や仏像を兜や旗などにあしらう事は広く一般に行われていたことから、「愛染明王」または「愛宕権現」の信仰を表したものだという説が一般的です。
もう一つが、「仁愛」や「愛民」の精神に由来するとも言われ米沢に伝わる言い伝えです。
さて、悩みながら、調べながら執筆していきました。
まず、謙信の語録を納めた書物(北越軍談 謙信公語録?)で「愛」を発見しました。
その中には、最初に、「天の時、地の利に叶い、人の和とも整いたる大将というのはまず古今いない」という記述があります。私の「天地人」というタイトルはここから使いました。
2と3は省略して、4.に大将は強くなくてはいけない。しかし、それだけではダメで、仁義礼智信がなくてはいけない。とあります。仁は慈愛をもって民を憐れむ、愛民という思想です。
また、長野県の佐久市近代美術館には、元々中野市の佐藤美術館から寄贈された謙信の大馬印が保存されています。金地に赤の日の丸の巨大な馬印です、本物に間違いないと言われています。このほかにも軍旗、旗指物が保存されています。
その旗指物、テレビの合戦シーンでおなじみの毘沙門天の「毘」一字のものや、縦長の指物に一文字「愛」と書かれたものがありました。上杉謙信の軍旗の中にすでに「愛」はあったのです。
皆さんご存知のことと思いますが、新渡戸稲造の名著『武士道』。原文は英語なのですが、その中に武士道を支える柱として2つのことが書かれています。
一つは義でもう一つは仁愛です。義は今では義理チョコなどと使われますが、元々は崇高な言葉です。仁愛は思いやる、情けという意味ですが、漢語の教授にお聞きしたら、仁と愛は同義語を重ねたものだそうです。
上杉謙信やその考えを引き継いだ直江兼続は江戸時代に固まった武士道を大きく先取りした人物であったと思います。また当時の越後はそれを可能にした豊かさ、文化レベルを持っていました。
これらのことから、私は今では、米沢の人たちが「愛」は仁愛の愛民の意味だと言い伝えているのが本当ではないかと思っています。
さて、織田信長から豊臣秀吉、その後、徳川の世に移っていく過程で、徳川家康にとって、会津を拠点としていた120万石の上杉(当時№3の巨大さ)はいかにも恐ろしく、邪魔だったと見えて、難癖をつけますが、直江兼続は有名な直江状を送ります。このときも、兼続は主君景勝に対して「義」を捨てては一国の経営は成り立たないと説き、一戦辞さずと準備します。陣をしいて待ちうけますが、石田三成のクーデターで徳川軍が引き返してしまいます。もし、会津上杉征伐と呼ばれる戦いが起こっていたら、上杉が勝った可能性もあったと思います。それほど、上杉は石高以上に殖産興業によって強大であり、周囲の戦国武将に信用がありました。
関が原の戦いで徳川家康はほぼ日本統一を果たしました。兼続はそれを見て、和平に動き、上杉は米沢30万石に移封となりましたが、このとき、家臣団を整理せずにそのまま上下一体となって、米沢一国の経営にあたります。ここから越後の謙信時代に薫陶を受けた、義と愛の経営、殖産興業(金銀こうぞ紅花藍蘇)につとめ豊かな国造りに励み成功を収めます。
最近有名になった上杉鷹山ですが、この鷹山は兼続の経営を引き継いで、真似たことによって破綻に直面した米沢藩(30万石からさらに15万石に減封されていた)を立て直すことができたと言っても過言ではありません。
慶応義塾の創始者福澤諭吉の言葉に「胸に前垂れ、心に兜」があります。武士道と経済は一体であれとの意味だと思います。今の企業、経済界や政界に求められることではないかと思います。
上杉謙信はご存知の戦国武将ですが、特徴が2つあります。
一つは経済に明るかった。当時の越後は戦国の中でナンバーワンの経済力を誇っていました。金山銀山の開発や新田開発、殖産興業としての藍蘇による越後上布あるいは直江津港を使った貿易などで経済力を強化していました。
二つ目は「義」をテーマとしていました。当時は下克上と言われるように相手を出し抜くことや暗殺、謀略が当たり前の中で、正義、信義、義理人情の義を一国の統治に当たっての理念に据えました。これによって求心力が生まれ、多くの優秀な武将が集まり、上杉軍団という強力な組織が出来ました。
上杉謙信は経済と義という理念を両立した稀有の武将でした。
上杉軍団は、当時の武田軍団と並んで、織田信長や徳川家康の軍団よりも強かったと思います。例えば、徳川家康は信玄上洛の前に三方ヶ原の戦いで信玄に一蹴されています。その後信玄が逝去して後、信長は長篠の合戦で武田勝頼に勝利しましたが、信玄存命中は武田を大変恐れていました。一方武田信玄と上杉謙信がライバルであったことは皆さんご存知のとおりで、川中島の5回に上る闘いで互角の戦いで決着が着かなかったことを見てもわかります。
<解説>三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄軍2万7,000人と徳川家康軍1万1,000人(うち織田信長からの援軍3,000人)との間で行われた戦い。信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、家康の歴史的大惨敗であり唯一の敗戦として有名な戦である。
さて、直江兼続は上杉謙信の実姉・仙桃院の実子、景勝の小姓として、春日山城で謙信から薫陶を受けました。上杉謙信が49歳で急死後、御館の乱(おたてのらん)で、その家督をめぐって謙信の養子である景勝と景虎(実父は北条氏康)が戦い結果的に景勝が勝つのですが、この時には景勝は24歳、兼続は19歳でした。
兼続の使ったといわれる「愛」という字を前立にあしらった兜が米沢市の上杉神社稽照殿に伝わっています。この「愛」の字を使った理由については、2説あり私も迷っていました。天地人を書きはじめてからも迷っておりました。今日はこれについてお話したいと思います。
多くの歴史の先生が言われるには、上杉謙信が毘沙門天の信仰を表した「毘」の字を旗印に使用するなど、当時、神名や仏像を兜や旗などにあしらう事は広く一般に行われていたことから、「愛染明王」または「愛宕権現」の信仰を表したものだという説が一般的です。
もう一つが、「仁愛」や「愛民」の精神に由来するとも言われ米沢に伝わる言い伝えです。
さて、悩みながら、調べながら執筆していきました。
まず、謙信の語録を納めた書物(北越軍談 謙信公語録?)で「愛」を発見しました。
その中には、最初に、「天の時、地の利に叶い、人の和とも整いたる大将というのはまず古今いない」という記述があります。私の「天地人」というタイトルはここから使いました。
2と3は省略して、4.に大将は強くなくてはいけない。しかし、それだけではダメで、仁義礼智信がなくてはいけない。とあります。仁は慈愛をもって民を憐れむ、愛民という思想です。
また、長野県の佐久市近代美術館には、元々中野市の佐藤美術館から寄贈された謙信の大馬印が保存されています。金地に赤の日の丸の巨大な馬印です、本物に間違いないと言われています。このほかにも軍旗、旗指物が保存されています。
その旗指物、テレビの合戦シーンでおなじみの毘沙門天の「毘」一字のものや、縦長の指物に一文字「愛」と書かれたものがありました。上杉謙信の軍旗の中にすでに「愛」はあったのです。
皆さんご存知のことと思いますが、新渡戸稲造の名著『武士道』。原文は英語なのですが、その中に武士道を支える柱として2つのことが書かれています。
一つは義でもう一つは仁愛です。義は今では義理チョコなどと使われますが、元々は崇高な言葉です。仁愛は思いやる、情けという意味ですが、漢語の教授にお聞きしたら、仁と愛は同義語を重ねたものだそうです。
上杉謙信やその考えを引き継いだ直江兼続は江戸時代に固まった武士道を大きく先取りした人物であったと思います。また当時の越後はそれを可能にした豊かさ、文化レベルを持っていました。
これらのことから、私は今では、米沢の人たちが「愛」は仁愛の愛民の意味だと言い伝えているのが本当ではないかと思っています。
さて、織田信長から豊臣秀吉、その後、徳川の世に移っていく過程で、徳川家康にとって、会津を拠点としていた120万石の上杉(当時№3の巨大さ)はいかにも恐ろしく、邪魔だったと見えて、難癖をつけますが、直江兼続は有名な直江状を送ります。このときも、兼続は主君景勝に対して「義」を捨てては一国の経営は成り立たないと説き、一戦辞さずと準備します。陣をしいて待ちうけますが、石田三成のクーデターで徳川軍が引き返してしまいます。もし、会津上杉征伐と呼ばれる戦いが起こっていたら、上杉が勝った可能性もあったと思います。それほど、上杉は石高以上に殖産興業によって強大であり、周囲の戦国武将に信用がありました。
関が原の戦いで徳川家康はほぼ日本統一を果たしました。兼続はそれを見て、和平に動き、上杉は米沢30万石に移封となりましたが、このとき、家臣団を整理せずにそのまま上下一体となって、米沢一国の経営にあたります。ここから越後の謙信時代に薫陶を受けた、義と愛の経営、殖産興業(金銀こうぞ紅花藍蘇)につとめ豊かな国造りに励み成功を収めます。
最近有名になった上杉鷹山ですが、この鷹山は兼続の経営を引き継いで、真似たことによって破綻に直面した米沢藩(30万石からさらに15万石に減封されていた)を立て直すことができたと言っても過言ではありません。
慶応義塾の創始者福澤諭吉の言葉に「胸に前垂れ、心に兜」があります。武士道と経済は一体であれとの意味だと思います。今の企業、経済界や政界に求められることではないかと思います。