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終戦記念日も過ぎましたが、ヒロシマの話。
私の母方の祖母の妹・綾子は、15歳のときに広島の原爆で亡くなりました。
一緒に同じ部屋にいた母親(私のひいおばあさん)はたんすの陰にいたため熱線にも焼かれなかったのに、数メートル先にいた綾子は死にました。
死んだあと、綾子がいた場所には、着ていた服の切れ端と、胃の中にあった大豆の皮だけが残っていたそうです。
私の両親は共に実家が戦前から広島市内にあったのですが、意外にも近親者で原爆で亡くなった人は少なく、遠縁の人を除けば、この綾子という少女だけです。
私も小さいときから祖母や母から綾子という人の最期については聞かされていて、生前の写真を見ては「この人が生きていたら、母にはいとこがもっといただろう。私のはとこももっといただろう」と、残念な気持ちと可哀想な気持ちはありましたが、どこか「遠い昔の話」のように感じていたんです。
でも大人になって、自分が被爆者三世であることを思い出すとき、「私はなぜ生きられているのだろう」とか、「この地で生まれた者として考えるべきことは」とか、「30年後、40年後には、私の世代が語り継がなくてはいけないのでは」と、色々と考えるようになりました。
実際は考えるばっかりで、その想いを口にすることも、こうして書くこともなかなかしないのですが……
今年、私の叔父たち(母の兄と弟)が、綾子が亡くなったときの様子と母親(ひいおばあさん)の想いを歌にしました。
お聴き辛い点があるやもしれませんが、こうして亡くなった一人の少女がいた、という話の中に、戦争のない世の中への想いを感じていただけたらと思います。
↓フォークギターが叔父(母の兄)、フラットマンドリンが伯父(母の弟)です。そして撮影場所は祖母宅の和室です
ちなみに、綾子の母親=私のひいおばあさんは、10数年前に93歳でこの世を去りました。
この歌を聴かせてあげられていたらなあ、と思います。
Follow、歓迎します→ Twitter
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終戦記念日も過ぎましたが、ヒロシマの話。
私の母方の祖母の妹・綾子は、15歳のときに広島の原爆で亡くなりました。
一緒に同じ部屋にいた母親(私のひいおばあさん)はたんすの陰にいたため熱線にも焼かれなかったのに、数メートル先にいた綾子は死にました。
死んだあと、綾子がいた場所には、着ていた服の切れ端と、胃の中にあった大豆の皮だけが残っていたそうです。
私の両親は共に実家が戦前から広島市内にあったのですが、意外にも近親者で原爆で亡くなった人は少なく、遠縁の人を除けば、この綾子という少女だけです。
私も小さいときから祖母や母から綾子という人の最期については聞かされていて、生前の写真を見ては「この人が生きていたら、母にはいとこがもっといただろう。私のはとこももっといただろう」と、残念な気持ちと可哀想な気持ちはありましたが、どこか「遠い昔の話」のように感じていたんです。
でも大人になって、自分が被爆者三世であることを思い出すとき、「私はなぜ生きられているのだろう」とか、「この地で生まれた者として考えるべきことは」とか、「30年後、40年後には、私の世代が語り継がなくてはいけないのでは」と、色々と考えるようになりました。
実際は考えるばっかりで、その想いを口にすることも、こうして書くこともなかなかしないのですが……
今年、私の叔父たち(母の兄と弟)が、綾子が亡くなったときの様子と母親(ひいおばあさん)の想いを歌にしました。
お聴き辛い点があるやもしれませんが、こうして亡くなった一人の少女がいた、という話の中に、戦争のない世の中への想いを感じていただけたらと思います。
↓フォークギターが叔父(母の兄)、フラットマンドリンが伯父(母の弟)です。そして撮影場所は祖母宅の和室です

ちなみに、綾子の母親=私のひいおばあさんは、10数年前に93歳でこの世を去りました。
この歌を聴かせてあげられていたらなあ、と思います。
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