ひとりの女性の再生の物語。
名前はとわ。永遠の「とわ」と実母に名付けられ、その後「田中十和子」と市長に名付けられました。
永遠のとわとして母と暮らした日々の物語と、母と決別し新たに十和子として生きる日々の物語が力強くやさしく綴られていきます。
その境目は、地震。
あの地震の恐怖が、とわ自身を動かし生きる力をよみがえらせます。
物語はやさしいのに残虐です。とわを取り巻く自宅の庭の自然や動物はとてもやさしいのに。
実の母から受けるやさしさと虐待の数々。
飴と鞭。
甘さの後に味わう強烈な辛さ。
それはそれを与えた母もまたそれを味わったということ。そうやって生きるしかなかったという、かなしさ。
でも、そのかなしさも捨てる。自身が生きるために。
再び生まれるために、歩けない裸足の足で一歩一歩。
その一歩一歩は産道を通る一歩一歩。
とわは、十和子として再び生まれ、この世界で生きるための術を授けられます。
授けるのは全くの他人なのだけれど、彼女に寄り添い彼女に力を与えた彼女の庭の自然や動物たちのような存在です。
そうして、彼女の目のかわりとなる盲導犬と出会い、再びあのわが家へ。
親子、特に母と子の難しさ。母を取り巻く周りの難しさがそのまま子との難しさにつながって。
それでも、その難しさを解いてくれる何かがどこかにはあって、一歩前に足を出せば助けてくれる誰かにも出会える奇跡のようなものも確かにあって、
その場所に奇跡がないなら、どこか別の場所へ行ってみる。
自分の狭い世界から飛び出してみる。
空想でも物語でもいいから、自分の心地よい場所へ。とにかく行ってみる。自分を連れ出してみる。
たったひとつの自分の生だもの。
恨み辛みや、妬みや、そういうものに支配されてたまるか!!!
と。
安倍晋三元総理が銃撃され亡くなられ、容疑者の母の宗教の問題がクローズアップされて、
彼はその宗教を恨んでいたと伝えられていますが、恨みは母へ向かわなかったのでしょうか?
物語の中でとわは次第に母を理解していきますが、容疑者も母のかなしさを理解していた?
母を助けだしたかった?
とにかく、母には生きていてほしかったんですね。



そこからじわじわと蒸気のように言葉の内側に秘められていたエキスが、言葉の膜の外側ににじみ出てくるということが。
安倍晋三元総理のご冥福をお祈り申し上げます。