二人がいた食卓 / 遠藤彩見

2022年07月19日 | あ行の作家


新婚の男女の出会いから別れまでを食事をテーマに描いていく物語。


「好きな食べ物は何?」と訊かれたら、私は「スイカ!」と答えます。
スイカなら、食欲がなくても食べられます。
毎食だって食べられます。
そういう食べ物があるって大事なことです。
そうして、今なら、「好きなだけ食べろ」と言ってくれる人をパートナーにしたいと思います。

古民家に暮らすある男女の動画を観ていると、ふたりの価値感が心地よかったりします。
全く同じというわけでなく、あえて同じにしない、相手の違う価値感を尊重する、それでも大事なところは同じということが良いです。

さて、この物語ですが、自分とは違う相手の価値感を大事にしなかった、その結果が共に暮らせないということになってしまいます。

たとえ、栄養の面で価値があったとしても、望まない望んでいない食事を毎日毎日食べることは苦痛でしかないということです。

作る側からすれば何というわがままなことを!!ということになりますが。
作る側の妻の泉さんは一所懸命朝晩食事を作ります。
それはもう鬼の形相の一所懸命です。
その一所懸命が食卓を重くしていき、夫の旺介さんの食欲を奪ってしまします。
しかも、旺介さんは好きなものを好きなだけ食べるということも奪われていきます。
しかも、一所懸命作っている泉さんは責められない。

鬼の形相で作る食事と鬼の形相の妻との食卓はもはや恐怖で、楽しい食卓とは無縁になってしまいました。
作る側、食べる側、一方的な思いだけで、お互いに労わる心もないというのが決定的です。

言葉はなくてもありがとうの気持ちがあって食卓は楽しくなるのかもしれません。
どんなテーブルで食べようと、どんなメニューであろうと、どんな人と食事を共にしようと、笑顔で向き合える食卓がいちばんです。

物語にはふたりの同僚や、同じマンションの住人、義実家の人たち等々が登場してきます。
その人たちが、いろいろなことを妻の泉さんに気づかせてくれます。

歩み寄ろうとしたら、ほかの人を介さずにその深層心理に気づいたのでしょうか?

物語のラスト、泉さんが旺介さんのチーズ好きに気づく場面が衝撃的でした。
そもそもが違っていた…。
泉さんにしたら、これ以上のショックはないくらいのショックですが、言葉は当てにならないということなのですね。



本文より

家庭は食卓だ。

「餓える、って、我を食べるって書くでしょう?なんていうか、感謝とか褒め言葉とか、言ったら愛?そういうものに餓えたら自分を消耗しちゃうってことだと思うんだよね」
「奥さんが言ってた。自信があるから感謝や褒め言葉がなくてもなんとか頑張れるの、って」

「誰かのために作る料理は、自分のためだけの倍疲れるだろ?なのに亭主は何やってんだ。こんなところで道草食ってないで早く帰れってんだ、って思ってさ」

「おいしい身は仲間と味わって、捨てたいアラは野良猫に食わせるのさ」




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