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先祖を探して

Vol.25 かわいそうな墓石

お墓ネタが多いですが、ご先祖調査にはかかせない素材であります。
当家である屋号:上花城は、昭和28年に家族で島を出て、現在は下関の海の見える高台の墓地にお墓があります。沖永良部島には琉球式のチュラドゥールと呼ばれるお墓があり、一族がそこに眠っているのですが、薩摩藩に侵略された1609年以降は、日本式の墓石を建てるようになったようです。
でも納骨については昭和初期までは琉球式の風習で行っており、墓石の下に納骨されているわけではありませんでした。
(納骨の方法については「2月25日:永良部のお墓のこといろいろ」をご参照ください。)
現代はもう本土と同じように墓石の下に納骨することが多いようですが、納骨堂を持っている家は、墓石の下ではなく納骨堂の方に遺骨を保管しています。

このチュラドゥールにある当家の日本式墓石ですが、島には墓石の主がもう住んでいませんので、墓石のことがちょっと気になっておりました。
そんな中、島の親族が墓石の写真を撮って送ってくれました。
これがその墓石です。


墓石の前面ですが、何と、、、削られたようになって石が崩れて落ちていて、何と刻まれていたのかが分からない状態です。この写真を見て、かなりショックな悲しい気分になりました。墓石が泣いている気がします。

こちらは側面2枚






廷享の文字がうっすらと見えます。

後ろはこちらです。


あああ、、、もう何と書いてあるか、さっぱり分かりません。
南国の灼熱の太陽に照らされて、潮風にあたり、台風に襲われ、延享あたりの時代から(1744年-1748年)の時代からずっとここにいてくれている墓石さんです。
今はもう墓石に書かれている文字が写真では判別がつきませんが、磨いてあげたら復活するのかな。。。コケに覆われてちょっと可哀そうな姿になっています。島に行ったら綺麗に掃除してあげようと思っています。

こんなかわいそうな墓石なのですが、実は当家の先祖調査をしていた義経お爺様が、なんと当時(おそらく昭和初期)に、墓石の調査をして、その内容を書き残してくれているんです。

この墓石は何と1760年(宝暦10年6月)に建立。今年で261歳です!
当家の2代目:池悦(2月28日:宗家に連なる人々2:池悦で記事にした人)が、自分の父親である佐久田のために建立しています。
この佐久田という人は、本来なら長男であるので本家の後継ぎだったわけですが、兄弟が多かったことで結婚して分家になっているのです。詳しい理由は分かりませんが、その時から分家として屋号:上花城が誕生しています。
分家となったので、墓石も本家とは別に作ったのでしょう。
お爺様の記録がなければ、今となってはいつ建立されたのか?だれのために作った墓なのか?そんな事もわからなかったかもしれませんね。
これは私たち子孫に対する教訓かもしれません。
代々子孫に伝えていきたいこと、それは記録で残していくこと。今ではこうしてインターネットを使ったり、動画を使ったり、紙以外の媒体でも様々な方法がありますので、工夫して記録を残していくようにしたいですね。

しかしこの墓石、今後どのように保存すべきなのか。。。また1つ課題が増えました。

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