沖永良部島の本家に保管されている「玉帳陰符経」という兵法の秘術書。これについては、Vol.60と128で書いておりますが、いつ、なぜ当家にこの兵法秘術書があるのかは、はっきりとは分かっておりません。ただ、1700年代に生きた平安統惟貞という御先祖様が、薩摩から流刑で沖永良部にやってきた示現流の東郷実勝に示現流を学んでいた時に、実勝によって与えられたものではないか?というのが、今のところの見解です。
示現流もそうですが、この秘術書を頂くことも当時の薩摩と琉球や奄美群島との関係を考えると、何だかとても異質に感じてしまいます。あの時代の薩摩が、なぜ島役人の1人であった当家のご先祖様に薩摩の御流儀であった示現流を伝授し、秘術兵法書まで与えたのか?
これは単に東郷実勝と当家のご先祖様の二人の信頼関係によるものだったのか、それとも薩摩承認だったのか?そこも不明です。
この「玉帳陰符経」ですが、何やらおまじないのような事が書かれているようですが、まだ解読はしていないので詳細は不明です。この謎の兵法秘術書について、先日ブログに情報を下さった方がいました。
何と、大阪の岸和田市にこの兵法書と同様の物をお持ちの家があるというのです。その兵法書は「史料太郎兵衛講文書」という郷土史資料の中に活字化されて書かれているとのことでした。
さっそく調べて、内容を確認することができました。
こちらの資料には、確かに活字化されて掲載されていましたが、当家の物よりは書かれている内容が少し多いようです。
当家の兵法書は承暦2年(1078年)の年号があり、従二位中納言兼太宰大江匡房の名があります。しかし、大江匡房が従二中納言になったのは寛治8年(1094年)で、永長2年(1097年)に大宰権帥を兼ね、 大宰府へ下向したのは承徳2年(1098年)のことですので、1078年という年号は合わないのです。しかし1077年に家蔵の典籍類を収蔵した江家(ごうけ)文庫を樋口町尻の具平親王の旧邸(千種殿)を購入し構えたそうなので、その時の年号なのかもしれませんが、詳細は不明です。
「史料太郎兵衛講文書」の方も年号は承暦2年3月12日(1078年)。
しかし名前は中納言大江匡房となっており在判があります。この時の大江匡房は中納言だったようです。
その後述に、永享6年6月12日(1434年)の日付があるので、もしかしたらその時に複写されたのかもしれません。
いずれにしても、原本は承暦2(1078)年に書かれていた可能性がありますね。
内容としては、第1から第42までの秘術事がどちらにも書かれており、各タイトルを見ても同じ内容のようです。
この「玉帳陰符経」ですが、弘法大師空海を祖とする真言宗の総本山善通寺(香川県)の善通寺宝物館の方に保管されていることを発見しました。玉張陰符経は「ぎょくちょういんぷきょう」と読むようです。
真言宗といえばかつてのご先祖様達もその宗派であったようです。
宗教的なことが絡んでいたのか?単なる示現流からの流れでの兵法書だったのか?
お寺の方にも確認をしてみようと思います。
情報をくださった方には大変感謝を申し上げます。頂いた1つの情報で、新しい扉が開きました。
この秘術兵法書が、新たなご先祖様の歴史を発見するキーになるかもしれませんね。