琉球北山時代の沖永良部の島主であった世之主が居住した世之主城跡には、現在は世之主をご神体として神社が建っていますが、当家には神社の最初の建立時期や経緯などについての詳細な記録は残っておらず、和泊町誌や島にお住いの古老からの聞き取り情報では以下の情報が得られました。
和泊町民族編より
明治4年世之主および四並蔵(知名町徳時)従来仏祭のところ神社に改称し、世之主神社は風災に堪えかね山頂から数百メートル南方の峰の中腹の禅王寺跡へ建立する。
明治35年城跡へ帰転尊崇致し度内城人民の希望により、和泊方一戸金三銭、人夫知名方の内、上城、下城、久志検、赤嶺、上平川、下平川、屋者、余田は人夫寄付を以て敷地引き下げ社殿を建築す。との記録がある。
この町史の記録によれば、明治4年にそれまでは寺であった世之主(寺)と四並蔵(寺)がそれぞれ神社になったということです。
これは、江戸時代には幕府の仏教保護政策の影響もあって,仏像をもって神体とする神社があるなど神仏混淆の傾向があり、王政復古によって祭政一致をめざす明治の新政府は、1868(明治元)年神仏分離令を出しましたことによるものだと思われます。
神社からの仏教的色彩の払拭に努め、旧幕時代に僧侶より低く位置付けられていた神職は、神仏分離に止まらず寺院・仏像の破壊、経典・仏具の焼却を求めたといいます。
多くの地方では神仏分離のみで廃仏毀釈までには至らなかったようですが、鹿児島藩は廃仏を断行し、数年間は藩内に一つの寺院もなく一人の僧侶も見られなかったといいます。
鹿児島藩においてこのように廃仏毀釈が実施された理由としては,鹿児島では,寺院と民衆の結びつきが薄かったことや廃寺により職を失った僧侶の生活の保障に努めたこと、藩が廃寺によって得た財源を軍備充実に充当しようとしたことなどがあったといいます。この措置により、鹿児島県である沖永良部島も廃仏毀釈のあおりをうけて、世之主(寺)や四並蔵が神社へと変わったのでしょう。
多くの地方では神仏分離のみで廃仏毀釈までには至らなかったようですが、鹿児島藩は廃仏を断行し、数年間は藩内に一つの寺院もなく一人の僧侶も見られなかったといいます。
鹿児島藩においてこのように廃仏毀釈が実施された理由としては,鹿児島では,寺院と民衆の結びつきが薄かったことや廃寺により職を失った僧侶の生活の保障に努めたこと、藩が廃寺によって得た財源を軍備充実に充当しようとしたことなどがあったといいます。この措置により、鹿児島県である沖永良部島も廃仏毀釈のあおりをうけて、世之主(寺)や四並蔵が神社へと変わったのでしょう。
そう言われてみれば、世之主神社の御神体である世之主像は、仏像のような趣きがあります。御神体が北山王の二男であった世之主こと真松千代をイメージしたものなのか? 寺を建立した当家のご先祖様の誰かをイメージしたものなかの?そこは不明です。
こういった経緯をうけての神社化だったようですが、もともとは前身の寺がいつの頃からか(琉球時代に寺を多く建立した尚泰久王の時代では?)城跡にあり、明治4年に神社化するときに山頂から数百メートル南方の峯の中腹にあった禅王寺跡へ移って建立されたようですね。この時には禅王寺は既に廃寺になっていたようです。この場所は以前も禅王寺の記事でご紹介した現在は寺敷と呼ばれる場所です。
しかしもともとは山頂の城跡にあったため、集落の住民の希望により明治35年に城跡の方に戻して建立したようです。地元の内城住民の寄付と、その他の地域の人夫としての労働の寄付によって実現したようです。
この明治期の神社化以降に、当家のお爺様の先祖である屋号:上花城が神主をやっていたということです。
しかし1つ気になるのが、町史に書かれている「敷地を引き下げ社殿を建築す」という文面です。敷地を引き下げとはどういう意味なのでしょうかね。単純に山を削って高度を低くしたということなのか?そこは意味が分かりません。
この明治35年建立の神社は、藁ぶき屋根の社殿だったようで、1962(昭和37)年にコンクリートを用いた社殿に建て替わっています。その時に神社北側から車が入れる道を作ったようです。
そしてその神社も2018(平成30)年に老朽化により現在の社殿に建て替わりました。
神社の経緯をまとめると、以下のようになります。
~明治4年まで 寺があった。
明治4年 神社1号 世之主神社となった。
この時に禅王寺があった場所に移転した。
明治35年 神社2号 住民の希望で城跡に移転し、藁ぶきの社殿だった。
昭和37年 神社3号 老朽化でコンクリートを使った社殿に建て替える。
北側から入れる周辺の道路も整備される。
平成30年 神社4号 老朽化で現在の社殿に建て替える。
この神社の敷地には現在は参道を登った正面入口に大きな鳥居があります。
現在の参道階段の登り口は新しく作られた場所のようで、昔は階段が真っすぐ下に伸びていたといいます。
そして参道の登り口にも何と鳥居があったのだそうです。
この階段部分は現在の登り口ですが、昭和になって作られたものです。階段上から左に真っすぐに鳥居まで参道階段が続いています。
この参道入口にあったという鳥居については、次回にまた続きます。