前回Vol.224で書いた世之主の墓の移転時期などと関連することをお爺さまの記録から書きます。
沖永良部島の島主であった世之主の墓(ウファ)は、内城の泉川というところにあります。このお墓が出来た時期について、17世紀中旬以降(1600年代中期以降)ということを、お墓の調査報告をもとに前回も書きました。
そのお墓ですが、お爺様がお墓の建築場所について以下のことを記録していました。
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世之主の墓の第一候補地はチュラドゥールの敷地であった。第二候補地は学校敷(T氏屋敷)であった。そして琉球から指折りの石工を派遣して築墓にあたらしめた。
第一候補の敷地にチュラドゥールのところを、第二敷地の候補を学校敷といっているところから、寺子屋でも始めた年代に墓を造ろうとしたことが推測できる。
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お墓の候補地が2つあったようですね。実際には候補地以外の場所に作られましたが、第二候補地の学校敷というところが1つのポイントです。この学校敷とお爺様が書いている場所は、寺敷と呼ばれる場所です。
昔に禅王子という寺があって、その跡地に寺子屋が出来たという場所です。
島での私塾は寛永年間(1789年)頃に初めてできたといいますが、お寺でやっていたのであれば寺子屋だと思われます。私塾は少しレベルの高い学習で、生徒も上層階級の家の子供が多く、寺子屋は庶民の学習の場。学校敷と呼んでいたのであれば、私塾が開講される前に庶民の寺子屋があった可能性があります。
島で寺子屋などの学習の場が設けられたのは、恐らく薩摩が統治するようになってからでしょう。お爺さまが考察しているように、寺子屋を始めた頃であれば、やはり1600年中期から1700年中期頃の間に建築されたのではないかと推測されます。
お爺さまの記録がいつ書かれたものかははっきり分かりませんが、昭和の初期から中期頃の記録ではないかと思われます。
まだ学術調査などがされていない時期に、同じような年代が書かれているということは、大変興味深いです。
この伝承は事実の可能性が高いように思えますね。
そうであれば、伝承の通りの世之主のお墓であるのかという疑問もわいてきます。もし世之主でなかったとしたら、それはいったい誰のお墓であったのか。勝手な想像ですが、可能性をいろいろ考えてみたいと思います。
*禅王子については、Vol.69・142、私塾についてはVol.108で書いております。