非才無才の雄叫び

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「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽30

2020-11-22 12:41:25 | 日記
「「赤狩り」という極端な政策がアメリカで吹き荒れた理由」

「赤狩り」即ちマッカーシズムを理解するには、これを巻き起こし
たアメリカの上院議員・マッカーシーを知る必要がある。
・・・マッカーシズムのきっかけは、どうも偶然だったようだ。

マッカーシーの横顔が全国的に知られるようになったのは1950年
2月9日、ウェストバージニア州のホイーリングにおける共和党女性
クラブでの演説のあとだった。
マッカーシーの演説での言葉は、・・・しかしこの時彼がひとつの
文書を示し「国務省で働いている著名な共産主義者のリストを持っ
ている」と主張した・・・「私は正規の党員であるかまたは共産党
に確かに忠誠であると思われる人物の205人の実例のリストを手に
持っている」としている。
・・・」
この情報はFBIのフーヴァー長官からもたらされたと言われている。
マッカーシー自身も演説へのメディアの大きな反応に驚き、そし
て絶え間なくその後告発、共産党員数の両方をコロコロと修正した
が、それは彼のやり方の特徴的な側面だった。これらは事実無根で
あることがそのうちに分かった。彼は告発を少しだけ変え、そして
それを上院や報道に対して示すのだった

1950年から1953年の間マッカーシーは、政府が内部にいる共産
主義者を扱うことに失敗しているという非難をし続けたが、一方で
彼が一夜でスターダムにのしあがったことは、力ある国民的追随者
とかなりの収入を得ることになった。彼の収入は上院の委員団によ
り調査
され、その結果、彼のキャンペーンにおける問題ある行動と
財政的な不正行為が明らかとなったが、法律的行動に出るための根
拠を見つけられなかった


ここで言う「力ある国民的追随者」とは誰のことか?
ジョン・ウェインかゲーリー・クーパーか?誰だろう・・・。
とにかくマッカーシーは上院の調査団から調査を受けるところをみ
ると、評判はあまり良くなかったようだ。

1952年における共和党の選挙勝利(大統領選勝利は、20年ぶり)
には彼の攻撃が助けとなった。
選挙勝利後、党の指導者は彼の人気の大きさをリベラルな民主党員
を攻撃するための武器と認め、彼を上院政府活動委員会常設調査小
委員会の委員長に任命した。しかし彼が信頼できないところ、及び
言い逃れしようとするところは、決して党(特にドワイト・D・ア
イゼンハワー大統領)に完全には信用されていないことを意味し


マッカーシーの厚顔無恥な攻撃に激怒した陸軍は、反撃に出た。
陸軍は、過去にマッカーシーの事務所で働いていて当時徴募されて
いた兵士デイヴィッド・シャインについて便宜をはかるようマッカ
ーシーとコーンが軍に依頼していたことを暴露し、さらにコーンと
シャインが同性愛の関係にあったとみられることをマスメディアに
リークした。1954年4月から上院において陸軍・マッカーシー問題
特別委員会が開かれ、これがテレビで中継されたことで、アメリカ
国民のマッカーシーに対する支持率は急落し、共和党政治家の中に
もマッカーシーを見限る者が現れ始めた


「マッカーシーはその後も、アメリカ陸軍を追及する委員会におい
て、コーンとともに陸軍内の「共産主義シンパ」の浸透を許した
と、アメリカ軍の上層部を告発したが、6月9日に全米へ中継された
公聴会では、マッカーシーの攻撃的かつ侮辱的な問責が目立ち、喚
問された陸軍側弁護士のジョセフ・ウェルチから、逆に告発の内容
の信憑性の低さを指摘された上に終いには、この様に叱責されるお
粗末さだった。
「君、ちょっと話を止めて良いかね?……もう沢山だ。君には品位
というものが無いのかね?— ジョセフ・ウェルチ。
全米に放送されたこのシーンは、その後のマッカーシーの没落の象
徴として多く流されることになる


さらにその後、共和党のラルフ・フランダース上院議員が、1954
年6月11日にマッカーシーに対する譴責決議案を発議し、アーサー
・V・ワトキンス上院議員率いる委員会が組織され、マッカーシ
ーに対する調査を開始した。その後、上院は1954年12月2日に、
65対22でマッカーシーを「上院の品位を損ね、それへの批判を
生む行動をした」とした譴責決議を採択した


このようにマッカーシーの言質は品位を欠いて墓穴を掘ってし
まう。

アメリカ社会がそれほど左傾化してしまっていたからです。社会
主義革命の数歩手前の状況になっていた、それくらいの危機感が
ありました


そんなことではなくて、マッカーシーは共産党の連中が我が物顔
で庁舎内を跋扈するのが、我慢がならなかった。しかし、その中に
まさかソ連のスパイがいるとは思わなかった。その程度だ。
だからマッカーシーが身内の共和党内からも批判されて、没落する
と同時に「赤狩り」は終息していくことになったのだ。
従って「社会主義革命の数歩手前の状況になっていた」などという
のは藤井氏の創作だ。

ニューディール政策は革命の一部だったのです

ニューディール政策がケインズ経済学を基礎にしていて、日本の
高橋是清の政策と、おおむね同じだったことは、もちろん藤井氏
は知っていて書くのだから、悪質と言うほかない。

そして藤井氏の虚言は続く。
ちょっと脱線しますが、アメリカで夢を果たせなかったニュー
ディラーたちが日本に来て、ここで思い切り社会主義革命をやろ
うと
言って造ったのが、日本の憲法とか戦後の体制なのですね


ニューディラーの誰が「思い切り社会主義革命をやろう」と言った
のか?そこには触れていない。なぜか?藤井氏の創作だからだ。

「ニューディラー」のweb記事に、メンバーの名前がある。
ディーン・アチソン、ジョン・ヴィンセント、チャールズ・ケー
ディス、ジェイムズ・バーンズ、コートニー・ホイットニー、最
後にフランクリン・ルーズベルト


この中でGHQに所属したのは、ホイットニーとケーディス。
先ずGHQの民生局長のホイットニーはマッカーサーの忠実な部下
だったことを述べておく。

コートニー・ホイットニーは、アメリカ合衆国の弁護士・法学
博士、第二次世界大戦におけるアメリカ陸軍の将官。戦後、占領
軍・連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局の局長時代に、
憲法草案制定会議の責任者として、日本国憲法草案作成を指揮し
」また「マニラの超保守弁護士」の異名を持つ。

そのホイットニーの指揮下で日本国憲法草案作成の責任者とし
て従事したのがケーディス。
1946年2月・・・ケーディスは条文の起草を行うため7つの委員
会と各委員会を監督する運営委員会を設置することを提案した。
ホイットニーは提案を受け入れ、2月4日の会議で1週間以内に草
案を作成するように指示した。ケーディスら民政局員は昼夜を問
わず作成作業に当たったが、局員の中に憲法学を学んだものが一
人もいなかったため、作成に当たっては憲法研究会の「憲法草案
要綱」の他、世界12か国の憲法を参考にしている。2月7日以降
に各委員会が作成した試案は運営委員会に提出され、8日から9
日にかけて運営委員会で会合が行われた後、10日に草案はホイ
ットニーからマッカーサーに提出した。
マッカーサーは一部の修正を指示した後、2月12日に「マッカー
サー草案」として日本政府に提示した


3月4日、ケーディスは国務大臣松本烝治が提示した日本政府案
と説明書の英訳を行うが、日本政府案がマッカーサー草案と異な
っていることに気付き、「日本政府案は受け入れられない」と激
怒し松本と口論となった。松本は経済閣僚懇談会への出席を理
由に退席したが、ケーディスは松本の助手である法制局第一部長
・佐藤達夫を相手に口論を続けた。英訳作業を終えた後、ケーデ
ィスは日本側と憲法の最終案作成の作業に入り、32時間の議論を
経た3月5日に最終案が確定し、翌6日に日本政府により最終案「憲
法改正草案要綱」が公表された。その後、憲法改正草案要綱は
衆議院・貴族院での手続きを経て、1947年5月3日に日本国憲法と
して施行された


日本では敗戦後、すぐに全国で朝鮮人による事件や暴動が頻発し
ていた。たとえば生田警察署襲撃事件で在日朝鮮人からなる暴徒
によって1945年(昭和20年)12月24日、および翌1946年(昭和
21年)1月9日の2回続けて発生した。警察では手に負えなくて連
合軍が出動し鎮圧している。当時の日本は、この程度の脆弱な警
察力しか保持していなかった為、治安の悪さも政情不安も払拭で
きなかった。このような日本の現状に米国は危機感を抱く。

1948年(昭和23年)1月6日、ジャパン・ロビーのケネス・ク
レイボーン・ロイヤル長官が日本の過度の弱体化を進めるGHQ
の占領政策を批判する。同年2月、米国のジェームズ・フォレス
タル国防長官がケネス・クレイボーン・ロイヤル陸軍長官に「
日本と西ドイツの再軍備」を検討するよう指示。その3ヶ月後に
ロイヤル長官は「アメリカの人的資源の節約のためにも日本の
再武装が望ましい。そのためには日本人が改憲することが必要
だ。」と答弁する。この年から、米政府から日本に改憲と再武
装を要求する圧力が強まり、警察予備隊(のちの保安隊、自衛
隊)設立の準備が進む。
サンフランシスコ講和会議に先立っては、ダレス国務長官から
「主権回復後は日本も軍事面においても国際社会に貢献するよ
うに」と再武装を強く迫られるが、吉田首相はそれを回避し、
激しいやり取りが起こった。このときマッカーサーは吉田を弁
護したが、離任帰国直後に吉田に対して「日本は再武装すべき
である」と書簡を送っている


それ以降、共産主義がアジアを次々に侵略していったことも
あって、日本という国が戦前にやってきたことはまともなこと
だったのだ
、ソ連の共産主義を防ぐ防波堤になっていたという
ことに、アメリカもやっと気が付きます


日本という国が戦前にやってきたことはまともなこと
だったのだ

藤井君
アメリカは日本に対して、
そんなこと言ってはいないぞ
君の創作だろうがっ
見え透いた嘘を言うんじゃないよ
戦後レジームからの脱却を訴えた安倍元首相の
水先案内人のつもりで、
戦前回帰を訴えるつもりか
読者をコケにしすぎる
君の書いたことをネットで調べもせずに
はいはいと頷く者ばかりではないぞ
いい加減にしろ