仕事以外の書籍を二度読みするのは久しぶりだが、二度読みで、こ
れほど気になる個所が多いのも珍しいことだ。歴史的な事実を大嘘
と言いながら平然と大嘘を書き連ねる藤井氏の神経を疑うほかない。
ここで先に記述した「アメリカは、日本がチャイナの利権を独占す
るのが許せなかった」に戻ります。
「アメリカは、1941年(昭和16年)の開戦前の日米交渉の過程で
、シナ大陸から日本の兵隊をすべて引き揚げろと言ってきますが、
日本側がそんな提案を受け入れられるわけがありません。すでに
大勢の日本人が合法的にシナ大陸に在住していました」
この記述にはトリックがある。気づいた方もいらっしゃるだろう
が、歴史解説書で、戦地での人の動態を表す場合、「大勢の日本
人が」とは記述しない。まして「大勢の」などの副詞的な表現は
馴染まない。藤井氏は軍部に言及するのを避ける為に、敢えて
「大勢の日本人が合法的に」と記述し、その中に軍人も入っている
かのような錯覚を読者に与えたかったのではないか。
なぜか?
藤井氏の世代くらいまでは常識的なこととして、関東軍が政府
の制止を無視して暴走していたことは皆知っているからだ。
以下のwebの記事を読むと歴史解説の記述はかくあるべしとご
理解頂けるはずです。
web
「盧溝橋事件
1937年(昭和12年)7月7日、当時北支に駐屯していた日本軍の夜
間演習中に実弾が二度発射された。翌日午前五時三十分、攻撃命
令を受け、中国軍陣地に対し攻撃前進して行った[36]。その後、
中国国民党軍が衝突し、盧溝橋事件が勃発した[37]。この日本軍
が駐留していた豊台は、義和団の乱の事後処理を定めた北京議定
書に定められた駐留可能地ではなく、法的根拠のない駐留だった」
日本人に限らず居留民は決められた居留地に住んでいたが、日本
軍が駐留していた豊台は駐留可能な場所ではなく、日本軍は法的
根拠のない駐留をしていた。日本軍に関しては合法的ではなかっ
たということだ。つまり戦線をじわじわと拡大していたというこ
とになる。
更に
「当時この地区の居留民保護のため駐留していた外国部隊は日本
兵4080、フランス兵1839、米兵1227、英兵999、イタリア兵
384であり、日本人居留民は17000人、米欧居留民は計10338人
であった」このように歴史解説は軍隊と居留民は分けて表記して
いる。
そして日本軍がじわじわと戦線を拡大していることに対して米国は
「アメリカのスティムソン国務長官は幣原外務大臣に戦線不拡大を
要求し、これを受けた幣原は、陸軍参謀総長金谷範三に電話で万
里の長城や北京への侵攻を進めると英米との折衝が生じるため、戦
線を奉天で止めるべきことを伝え、金谷陸軍総長はそれを承認した
。この電話会談での不拡大路線の意志決定を幣原は駐日大使フォー
ブスに伝え、錦州までは進出しない旨を伝え、フォーブスはそれを
本国にいるスティムソン国務長官に伝え、スティムソンは戦線不拡
大を記者会見で伝える(スティムソン談話)。しかし金谷陸軍総長
の抑制命令が届く前日に、石原莞爾ら関東軍は錦州攻撃を開始して
しまう。スティムソンはこれに激怒する一方、関東軍も、軍事作戦
の漏洩に激怒する[注釈 15]」このように政府に手違いが起きてし
まい、米国を怒らせてしまう。「日本がチャイナの権益を独占しよ
うとしている状況をアメリカは許せないのです」ではなく約束も
守らず戦線を拡大していくことを米国は「許せなかった」のではな
いか。
陸軍参謀総長は現地に電報を打つか、電話で作戦中止命令を出して
、その命令が到達し作戦が停止したことの返信を待って幣原外務大
臣に報告し、その報告を以ってスティムソンに通知するという手順
を、どうして踏めなかったのだろうか。これが、このようなことを
する日本という国際的な評価になっていく。
ともあれ、このように幣原外務大臣が金谷陸軍総長に戦線不拡大を
指示したのは、幣原が「万里の長城や北京への侵攻をすすめると
米英との折衝が生じるため、戦線を奉天で止めるべきこと」侵攻と
は言い換えれば侵略の一部で、軍事用語である。中央政府は関東軍
の戦線拡大の様相を一定程度把握していた証だ。
そして、関東軍の暴走で日中全面戦争へと突入していく。
従って「すでに大勢の日本人が合法的にシナ大陸に在住していまし
た」という記述は不正確極まりないことになる。
そして「当時のシナ大陸は、しっかりした中央政府がなくて無政
府状態と言ってよい状況でした。中華民国という名前は存在してい
ましたが、その政府は全土を統治していたわけではないのです」
と暗に侵略を正当化している。確かに孫文の跡を受け継いだ蒋介石
は中華民国国民政府を中国全土を統治する政権にしたが、中国共産
党軍の浸透や日本軍の傀儡政権の樹立によって混迷を極めるが、中
華民国政府は国際連盟原加盟国で第一回国際連盟設立総会に出席し
ている。
「当時のシナ大陸は、しっかりした中央政府がなくて無政府状態と
言ってよい状況でした。中華民国という名前は存在していましたが
、その政府は全土を統治していたわけではないのです」と「無政府
状態」にした原因の一翼をになったのが、ほかならぬ日本であり関
東軍なのだ。柳条湖で謀略事件を起し、満州を占領して「満州国」
の傀儡政権を樹立して、なお飽き足らず下記の如く、さらに傀儡
政権を樹立して中国を不安定化させる。
以下が、その記録。
web
「華北自治運動―華北分離工作
支那駐屯軍や関東軍など日本現地軍は、1935年5月2日深夜の天津
日本租界事件を契機に、河北省と察哈爾省から国民党の排除を図
り、6月、所謂梅津・何応欽協定を締結し、藍衣社の北支からの
撤退、河北省主席于学忠の罷免などを実現させた。国民政府は、
「邦交敦睦令」を発し排日行為を禁止した。その後、現地日本軍
は、二十九軍が日本人を拘禁した張北事件(中国語版)などを理
由に、土肥原・秦徳純協定を締結し、察哈爾省東北部の二十九軍
を河北省に移駐させることを了承させた[32][33]。そして、旧軍
閥で二十九軍長宋哲元 を中心に北支五省に独立政権を樹立させ
、国民政府から分離させるため「北支自治運動」を展開した。
11月25日、非武装地帯に殷汝耕を委員長とする冀東防共自治委員
会を設立させ、宋哲元を中心にして「北支自治政権」を設立させ
て殷汝耕を合流させる計画を立てた。しかし、国民政府は、宋哲
元を冀察綏靖主任兼河北省主席に任命し、12月18日に冀察政務委
員会を設置し、自治独立運動の阻止に一応成功した。このため、
12月25日、日本現地軍は、冀東の冀察への合流を放棄して冀東防
共自治政府を成立させた」[32][33]。
以下は割愛します。
れほど気になる個所が多いのも珍しいことだ。歴史的な事実を大嘘
と言いながら平然と大嘘を書き連ねる藤井氏の神経を疑うほかない。
ここで先に記述した「アメリカは、日本がチャイナの利権を独占す
るのが許せなかった」に戻ります。
「アメリカは、1941年(昭和16年)の開戦前の日米交渉の過程で
、シナ大陸から日本の兵隊をすべて引き揚げろと言ってきますが、
日本側がそんな提案を受け入れられるわけがありません。すでに
大勢の日本人が合法的にシナ大陸に在住していました」
この記述にはトリックがある。気づいた方もいらっしゃるだろう
が、歴史解説書で、戦地での人の動態を表す場合、「大勢の日本
人が」とは記述しない。まして「大勢の」などの副詞的な表現は
馴染まない。藤井氏は軍部に言及するのを避ける為に、敢えて
「大勢の日本人が合法的に」と記述し、その中に軍人も入っている
かのような錯覚を読者に与えたかったのではないか。
なぜか?
藤井氏の世代くらいまでは常識的なこととして、関東軍が政府
の制止を無視して暴走していたことは皆知っているからだ。
以下のwebの記事を読むと歴史解説の記述はかくあるべしとご
理解頂けるはずです。
web
「盧溝橋事件
1937年(昭和12年)7月7日、当時北支に駐屯していた日本軍の夜
間演習中に実弾が二度発射された。翌日午前五時三十分、攻撃命
令を受け、中国軍陣地に対し攻撃前進して行った[36]。その後、
中国国民党軍が衝突し、盧溝橋事件が勃発した[37]。この日本軍
が駐留していた豊台は、義和団の乱の事後処理を定めた北京議定
書に定められた駐留可能地ではなく、法的根拠のない駐留だった」
日本人に限らず居留民は決められた居留地に住んでいたが、日本
軍が駐留していた豊台は駐留可能な場所ではなく、日本軍は法的
根拠のない駐留をしていた。日本軍に関しては合法的ではなかっ
たということだ。つまり戦線をじわじわと拡大していたというこ
とになる。
更に
「当時この地区の居留民保護のため駐留していた外国部隊は日本
兵4080、フランス兵1839、米兵1227、英兵999、イタリア兵
384であり、日本人居留民は17000人、米欧居留民は計10338人
であった」このように歴史解説は軍隊と居留民は分けて表記して
いる。
そして日本軍がじわじわと戦線を拡大していることに対して米国は
「アメリカのスティムソン国務長官は幣原外務大臣に戦線不拡大を
要求し、これを受けた幣原は、陸軍参謀総長金谷範三に電話で万
里の長城や北京への侵攻を進めると英米との折衝が生じるため、戦
線を奉天で止めるべきことを伝え、金谷陸軍総長はそれを承認した
。この電話会談での不拡大路線の意志決定を幣原は駐日大使フォー
ブスに伝え、錦州までは進出しない旨を伝え、フォーブスはそれを
本国にいるスティムソン国務長官に伝え、スティムソンは戦線不拡
大を記者会見で伝える(スティムソン談話)。しかし金谷陸軍総長
の抑制命令が届く前日に、石原莞爾ら関東軍は錦州攻撃を開始して
しまう。スティムソンはこれに激怒する一方、関東軍も、軍事作戦
の漏洩に激怒する[注釈 15]」このように政府に手違いが起きてし
まい、米国を怒らせてしまう。「日本がチャイナの権益を独占しよ
うとしている状況をアメリカは許せないのです」ではなく約束も
守らず戦線を拡大していくことを米国は「許せなかった」のではな
いか。
陸軍参謀総長は現地に電報を打つか、電話で作戦中止命令を出して
、その命令が到達し作戦が停止したことの返信を待って幣原外務大
臣に報告し、その報告を以ってスティムソンに通知するという手順
を、どうして踏めなかったのだろうか。これが、このようなことを
する日本という国際的な評価になっていく。
ともあれ、このように幣原外務大臣が金谷陸軍総長に戦線不拡大を
指示したのは、幣原が「万里の長城や北京への侵攻をすすめると
米英との折衝が生じるため、戦線を奉天で止めるべきこと」侵攻と
は言い換えれば侵略の一部で、軍事用語である。中央政府は関東軍
の戦線拡大の様相を一定程度把握していた証だ。
そして、関東軍の暴走で日中全面戦争へと突入していく。
従って「すでに大勢の日本人が合法的にシナ大陸に在住していまし
た」という記述は不正確極まりないことになる。
そして「当時のシナ大陸は、しっかりした中央政府がなくて無政
府状態と言ってよい状況でした。中華民国という名前は存在してい
ましたが、その政府は全土を統治していたわけではないのです」
と暗に侵略を正当化している。確かに孫文の跡を受け継いだ蒋介石
は中華民国国民政府を中国全土を統治する政権にしたが、中国共産
党軍の浸透や日本軍の傀儡政権の樹立によって混迷を極めるが、中
華民国政府は国際連盟原加盟国で第一回国際連盟設立総会に出席し
ている。
「当時のシナ大陸は、しっかりした中央政府がなくて無政府状態と
言ってよい状況でした。中華民国という名前は存在していましたが
、その政府は全土を統治していたわけではないのです」と「無政府
状態」にした原因の一翼をになったのが、ほかならぬ日本であり関
東軍なのだ。柳条湖で謀略事件を起し、満州を占領して「満州国」
の傀儡政権を樹立して、なお飽き足らず下記の如く、さらに傀儡
政権を樹立して中国を不安定化させる。
以下が、その記録。
web
「華北自治運動―華北分離工作
支那駐屯軍や関東軍など日本現地軍は、1935年5月2日深夜の天津
日本租界事件を契機に、河北省と察哈爾省から国民党の排除を図
り、6月、所謂梅津・何応欽協定を締結し、藍衣社の北支からの
撤退、河北省主席于学忠の罷免などを実現させた。国民政府は、
「邦交敦睦令」を発し排日行為を禁止した。その後、現地日本軍
は、二十九軍が日本人を拘禁した張北事件(中国語版)などを理
由に、土肥原・秦徳純協定を締結し、察哈爾省東北部の二十九軍
を河北省に移駐させることを了承させた[32][33]。そして、旧軍
閥で二十九軍長宋哲元 を中心に北支五省に独立政権を樹立させ
、国民政府から分離させるため「北支自治運動」を展開した。
11月25日、非武装地帯に殷汝耕を委員長とする冀東防共自治委員
会を設立させ、宋哲元を中心にして「北支自治政権」を設立させ
て殷汝耕を合流させる計画を立てた。しかし、国民政府は、宋哲
元を冀察綏靖主任兼河北省主席に任命し、12月18日に冀察政務委
員会を設置し、自治独立運動の阻止に一応成功した。このため、
12月25日、日本現地軍は、冀東の冀察への合流を放棄して冀東防
共自治政府を成立させた」[32][33]。
以下は割愛します。