2013年8月、柴又帝釈天から近くにある矢切の渡しに乗船してみました。
細川たかしの歌「矢切の渡し」で初めて知った渡し船。
あとは、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の中で出てくる渡し船ですかね。
柴又帝釈天から矢切の渡し620m、柴又駅270mの表記あり。
距離が記載されている案内表示板は有り難いと思います。
東京都と千葉県の県境を流れる江戸川にある「矢切の渡し」。
現存する江戸川の農民渡船で柴又と矢切を結んでいます。
片道料金は中学生以上200円、小人(4歳~小学生)100円、所要時間約10分。
天候や河川の水位状況により運休の場合がありますのでお問い合わせください。
「矢切の渡し」は江戸時代初期に、地元民専用の耕作や対岸の農地への移動手段、日用品購入、寺社参拝などの目的のために、
徳川幕府が設けた利根川水系河川15か所の渡し場のうちのひとつであり「金町・松戸の渡し」と呼ばれていたそうです。
「矢切の渡し」が世に広まったのは、
1906年(明治39年)、雑誌「ホトトギス」に発表された矢切が舞台の伊藤左千夫の小説「野菊の墓」。
1982年(昭和57年)、細川たかしが歌った「矢切の渡し」が大ヒット。
フーテンの寅さんが柴又を舞台に上映された「男はつらいよ」などにより再び脚光を浴びています。
この時は往復乗船時間約20分+対岸滞在時間約20分の合計40分程度。
矢切側に小さな売店があってかき氷を食べたような気がします。
往復400円で「矢切の渡し」を体験した程度の感じでした。
何気なく、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」を読んでみました。
<野菊の墓より引用>
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
たしかこのフレーズは山口百恵のテレビドラマもしくは松田聖子の映画をもじって、お笑い芸人が引用していたような気がしますね。
15歳の少年・斎藤政夫と2歳年上の従妹・民子の淡い恋物語舞台は千葉県松戸市矢切付近であり、
政夫と民子の最後の別れの場となったのが矢切の渡しみたいですね。
「余所から見たならば、若いうちによくあるいたずらの勝手な泣面と見苦しくもあったであろうけれど、二人の身に取っては、真にあわれに悲しき別れであった。互に手を取って後来を語ることも出来ず、小雨のしょぼしょぼ降る渡場に、泣きの涙も人目を憚り、一言の詞もかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流を下って早く、十分間と経たぬ内に、五町と下らぬ内に、お互の姿は雨の曇りに隔てられてしまった。物も言い得ないで、しょんぼりと悄れていた不憫な民さんの俤、どうして忘れることが出来よう。民さんを思うために神の怒りに触れて即座に打殺さるる様なことがあるとても僕には民さんを思わずに居られない。年をとっての後の考えから言えば、あアもしたらこうもしたらと思わぬこともなかったけれど、当時の若い同志の思慮には何らの工夫も無かったのである。八百屋お七は家を焼いたらば、再度思う人に逢われることと工夫をしたのであるが、吾々二人は妻戸一枚を忍んで開けるほどの智慧も出なかった。それほどに無邪気な可憐な恋でありながら、なお親に怖じ兄弟に憚り、他人の前にて涙も拭き得なかったのは如何に気の弱い同志であったろう。」
心が通っていても引き離され、民子は無理無体に勧められ嫁がされ、身持ちになるもおりて跡の肥立ちが悪く息を引き取ることに。
息を引き取った民子は左の手に紅絹の切れに包んだ小さな物を握ってその手を胸に乗せているのです。
その中には政夫の写真と手紙が・・・。
わたしも年を取ったせいか涙が溢れます。
今日は七夕です。
政夫さんと民子さん、逢えることを願っております。