1
今も、時おり思い出すことがある。
戦いが始まったあの日のことだ。
冷たい、雨が降っていた。
――――雨。
雨が降ってきた。
私はゆっくりと目をあけた。
公園のベンチで、体を大きく投げ出すように座っていた。
ぼんやりと明るい夜空から、うっすらと開けたまぶたに雨粒が落ちた。
ヒリ――
頬に痛みが走った。
ヒリ、ヒリ――
雨粒が顔に当たるたび、針を刺されたような鋭い痛みが走った。
―――― 。
どうして頬が痛むのか。思い出そうとするが、髪をなぶる冷たい風を感じるだけで、なにも思い出せなかった。無理に考えようとすると、頭の中で不愉快な目覚まし時計がじんじんと鳴り始め、集中力をさまたげた。
しん、と体が小さく震えた。凍えるほどではないが、吐く息が白く見えるほど、寒かった。
私は体を起こした。両膝に肘を突き、ぎゅっとかたく目を閉じた。しくしくと集中力を邪魔する痛みをこらえ、自分がどうしてここにいるのか、まるで手がかりのない記憶を探った。
そして、わかった。
私には、記憶がなかった。
思い出そうと、無理に止めていた息を大きく吸いこみながら、また目を閉じた。頭を後ろへ放り出すように顔を上げ、ベンチの堅い背もたれに体をあずけた。
むくむくと、不安がわき上がってきた。自分が何者であるのか、これまでどんな生き方をしてきたのか、どんな性格の人間だったのか……。願うなら、社会に顔向けのできないような、重い罪を背負った人間であってほしくはなかった。
滑稽かもしれないが、この時の私は、心の底からそう思っていた。
神を信じる心も、未来に希望を持つ強さも、自分自身のありかがわからない人間にとっては、夢見ることを夢見ているのと同じだった。
雨音が、だんだんと大きくなってきた。
”逃げなければ”
不安からだろうか、いてもたってもいられない衝動を抑えながら、私は立ち上がった。
足を一歩踏み出すたび、右膝の裏側が、硬いゴムのように引きつった。左腕が、肩の付け根からしびれたように重く、思うように動かせなかった。片足を引きずりながら、不自由のない右手で服のポケットを探った。
持っていたのは、財布に入っていた小銭と、暗証番号のわからないカード。左手首につけた時計は、はたして正確な時刻を刻んでいるのかどうか、疑わしかった。
フラフラと、公園のトイレに入った。暗い明かりが照らす鏡を見て、あぜんとした。鏡に映った顔の半分が、火傷で赤黒く腫れ上がっていた。こんな怪我をいつ負ったのか、まだ乾いていない傷口は、じくじくと醜く膿んでいた。
蛇口をひねり、ちょろちょろと流れる水を手ですくうと、おそるおそる腫れあがった顔に当てた。涙がにじむほどの痛みが、奥歯にまでしみた。
雨で濡れたズボンの上から、右膝の後ろをそっと触った。ヒリリ、と顔をしかめるほどの痛みが走った。頬と同じく、火傷を負っているのに違いなかった。
顔を上げ、再び鏡を見た。眉をひそめたくなるような顔が映った。
「お前は、誰なんだ?」
自分自身に話しかけながら、じっと目の奥をうかがった。鏡の中にいる自分は、ただ同じように目を見合わせるだけで、思い出のひとつも分けてくれなかった。
コンビニエンスストアーの灯りが、鏡の端に写っていた。振り返ると、公園の外、道路を渡ってすぐの所だった。暇をもてあましているのか、制服を着た店員が一人、じっと立ち読みをしている姿が見えた。
私は行くべきか迷ったが、何軒か隣にドラッグストアーのシャッターを見つけると、思い切って道路を渡った。
まぶしいヘッドライトを灯した車が、追い立てるように何台も後ろを通り過ぎていった。痛む足を引きずりながら走り、誰もいない歩道にたどり着いた。わずかな距離だったが、のどがかすれるような音を立て、重苦しい息を吐いた。立ち止まって膝に手をついたが、それ以上は休まず、私は息を切らせながらドラッグストアーに向かった。コンビニエンスストアーの前を通ると、立ち読みをしている店員が、クツクツといやらしい笑顔を浮かべているのが見えた。
ドラッグストアーの裏に回ると、顔の高さにあるガラス窓があった。当たり前だろうが、鍵がかかっていて開けられなかった。私は足下に目をやり、手ごろな石を拾い上げた。気休めとは知りつつも、周りに人がいないのを確認してから、ガラス窓を割った。予想外に派手な音が響いた。ぶるりと全身に鳥肌が立った。不審な物音を聞きつけ、誰か様子をうかがいに来るのではないかと、しゃがみこんで振り返った。身動きもせず、じっと息を殺して周囲に目を光らせていたが、人がやって来る気配はなかった。私は窓枠に残った大きなガラスの欠片を取り除き、腕を伸ばして、鍵を開けた。頭から中に忍びこむと、そこは、事務室のような狭い部屋だった。