「行きましょう。このままでは、風邪を引いてしまいます」と、彼は私に背を向け、黙って前を歩き始めた。気がつけば、雨はだんだんと強さを増し、大粒の雨に変わっていた。
彼の後をあわてて追いかけながら、私は道路に倒れた男を振り返った。男は、両手で腹を押さえながら、横になってうずくまっていた。苦悶の表情を浮かべ、ひくひくと悶絶していた。腹を押さえている指の間から、焼け焦げた匂いのする煙が、幾筋も細く立ち昇っていた。
私は、息を切らせながら彼に追いつき、肩をつかんで足を止めさせた。
「誰なんだ――」と、絞り出すような声で言った。
「あなたは、誰ですか」立ち止まった彼が、質問をそのまま返してきた。
ブルブルと、体が震え始めた。理由もなく、恐かった。足がすくみ、見かねた彼が手を貸してくれなければ、その場に倒れていただろう。私は唇を噛みしめ、なんとか平静を装うとした。
「無理はしないでください」と、彼が困った顔をして言った。「まずは怪我の手当をしましょう。話はその後で―」
2
ここは、オフィス街のようだった。外観も高さも違う様々なビルが、窓をはめこんだ小山のように連なっていた。多くの飲食店の看板が、色とりどりに掲げられ、見る者の目を誘っていた。
彼はゆっくりと、時折、足を痛がる私を気づかいながら、建ち並ぶビルの間を歩いていった。大きな交差点を曲がり、狭い路地を抜け、この土地で生まれ育った人間にしかわからないような街の奥へと、どんどん進んでいった。
朝になれば、まな板を打つトントントン、と小気味のいい音が聞こえてきそうな、古びたトタン屋根の住宅が点々と残っていた。低い屋根の向こうには、見上げるばかりのビル群がそびえていた。まるで、違う時代に足を踏み入れたような感覚だった。思い出の中にしか残っていないはずの風景を、そっくり切り取って再現したかのようだった。
道を進むと、ぽっかりと広い野原のような芝生が現れた。きれいに手入れをされたその奥には、避暑地によくある別荘のような、木造の古い小さな洋館が建っていた。
彼は、ゆるい弧を描いて据えられた石の小径をいくと、屋根のある玄関のドアを開けた。
「どうぞ、お入りください」と、彼は靴のまま、家の中に入っていった。
私は、雨に濡れた上着を脱ぎながら、おそるおそる家の中に入った。家具のほとんどない家は、間仕切りのないワンルームといった作りで、室内を一望することができた。
「まずは着替えですね」と、彼は少ないドアのひとつを開け、服を持って出てきた。「私の物なので少し窮屈かもしれませんが、今はこれで我慢してください」
「――ありがとう」私は礼を言うと、彼が持ってきた服に着替えた。
着替えを終えると、彼にうながされるまま、キッチンのそばに置かれたテーブルの椅子に腰をおろした。
「特別なものはありませんが、たいていの薬はそろえてあります――」と、彼は木製の薬箱と手鏡を、テーブルの上に置いた。
私はまた礼を言うと、彼が持ってきた薬品で火傷の処置をしながら、聞いた。
「きみは、何者なんだ。なぜ、私にここまで――」
彼は、面白そうに笑った。「追われているのは、ぼくも一緒です」
灯りの下で見る彼の顔は、頬がすっきりとこけて小さく、三角のあごは意志の強さをうかがわせた。うっすらと伸びた無精ひげに囲まれた唇は、血のように赤かった。太く、切れ上がった眉に似つかわしくないぱっちりとした目は、目尻が少し垂れ気味で、おどけているわけではないが、見る物を自然になごませてしまう力があった。
分け目のないたっぷりの髪は、元々は黒かったはずだが、ところどころに大きくブチのような白髪が混じっていた。染めているわけではないだろうが、もしかすると、私には考えられないような経験が、髪の毛を白く変えてしまったのかもしれなかった。
相手の目をまっすぐに見て話す瞳の奥には、そのやわらかい笑顔とは違い、はっきりとした意志と、強く厳しい信念が感じられた。
「私は――」と、彼は考えるように言った。「ネモ、としておきましょう。科学の深海に潜った、潜水艦のような人間ですから」
それから、何を話しただろうか。彼の手作りで軽い食事をとり、ソファーに場所を移したとたん、抗しがたい睡魔に襲われ、そのまま深い眠りに落ちてしまった。
――……。
ひどい夢だった。
ドーム球場のように大きくて広い工場の上から、私は眼下を見下ろしていた。
人々がびっしりと、縦横に等間隔の線が引けるほど、整然と並んでいるのが見えた。
何をしているのだろうか? 私は疑問に思い、空中に浮かんだエレベーターで下の階に降りると、立ったままで凍りついたように動かない人々に近づいた。
声をかけようとして足を止めると、はっと息をのんだ。人のように見えたが、人ではなかった。まるで生きているかのような、ロボット達だった。
私に反応したのか、精巧に作られたロボット達は、一斉にこちらを向いた。方位磁石が、強い地磁気に引きつけられたかのようだった。どのくらいの数だろうか、端が見通せないほど、隙間なく並んだロボット達は、無表情で硬く、感情のない冷たい視線を、じっと私に向けていた。
不意に、笑い声が聞こえた。
ギョッとして振り返ると、名前は思い出せなかったが、間違いなく知っている男だった。男は大口を開け、興奮したように甲高い声で笑いながら、こちらに歩いてきた。
(逃げ出さなければ――)と、私はとっさに思った。
重たくて、自由に動けない両腕をダラリとさせながら、ぶよぶよで、踏みこむ足の力が吸い取られるような通路を、跳ねるように走った。
人の形を与えられ、かりそめの命を吹きこまれたロボット達が、津波のような勢いで私を追いかけてきた。笑う男は、勝ち誇ったように胸を張って腕組みをしながら、ニヤついた地獄の魔王のような顔をしていた。男は、親指を立てた右手を私に向かって突き出すと、ゆっくりと親指を下に向けた。
彼の後をあわてて追いかけながら、私は道路に倒れた男を振り返った。男は、両手で腹を押さえながら、横になってうずくまっていた。苦悶の表情を浮かべ、ひくひくと悶絶していた。腹を押さえている指の間から、焼け焦げた匂いのする煙が、幾筋も細く立ち昇っていた。
私は、息を切らせながら彼に追いつき、肩をつかんで足を止めさせた。
「誰なんだ――」と、絞り出すような声で言った。
「あなたは、誰ですか」立ち止まった彼が、質問をそのまま返してきた。
ブルブルと、体が震え始めた。理由もなく、恐かった。足がすくみ、見かねた彼が手を貸してくれなければ、その場に倒れていただろう。私は唇を噛みしめ、なんとか平静を装うとした。
「無理はしないでください」と、彼が困った顔をして言った。「まずは怪我の手当をしましょう。話はその後で―」
2
ここは、オフィス街のようだった。外観も高さも違う様々なビルが、窓をはめこんだ小山のように連なっていた。多くの飲食店の看板が、色とりどりに掲げられ、見る者の目を誘っていた。
彼はゆっくりと、時折、足を痛がる私を気づかいながら、建ち並ぶビルの間を歩いていった。大きな交差点を曲がり、狭い路地を抜け、この土地で生まれ育った人間にしかわからないような街の奥へと、どんどん進んでいった。
朝になれば、まな板を打つトントントン、と小気味のいい音が聞こえてきそうな、古びたトタン屋根の住宅が点々と残っていた。低い屋根の向こうには、見上げるばかりのビル群がそびえていた。まるで、違う時代に足を踏み入れたような感覚だった。思い出の中にしか残っていないはずの風景を、そっくり切り取って再現したかのようだった。
道を進むと、ぽっかりと広い野原のような芝生が現れた。きれいに手入れをされたその奥には、避暑地によくある別荘のような、木造の古い小さな洋館が建っていた。
彼は、ゆるい弧を描いて据えられた石の小径をいくと、屋根のある玄関のドアを開けた。
「どうぞ、お入りください」と、彼は靴のまま、家の中に入っていった。
私は、雨に濡れた上着を脱ぎながら、おそるおそる家の中に入った。家具のほとんどない家は、間仕切りのないワンルームといった作りで、室内を一望することができた。
「まずは着替えですね」と、彼は少ないドアのひとつを開け、服を持って出てきた。「私の物なので少し窮屈かもしれませんが、今はこれで我慢してください」
「――ありがとう」私は礼を言うと、彼が持ってきた服に着替えた。
着替えを終えると、彼にうながされるまま、キッチンのそばに置かれたテーブルの椅子に腰をおろした。
「特別なものはありませんが、たいていの薬はそろえてあります――」と、彼は木製の薬箱と手鏡を、テーブルの上に置いた。
私はまた礼を言うと、彼が持ってきた薬品で火傷の処置をしながら、聞いた。
「きみは、何者なんだ。なぜ、私にここまで――」
彼は、面白そうに笑った。「追われているのは、ぼくも一緒です」
灯りの下で見る彼の顔は、頬がすっきりとこけて小さく、三角のあごは意志の強さをうかがわせた。うっすらと伸びた無精ひげに囲まれた唇は、血のように赤かった。太く、切れ上がった眉に似つかわしくないぱっちりとした目は、目尻が少し垂れ気味で、おどけているわけではないが、見る物を自然になごませてしまう力があった。
分け目のないたっぷりの髪は、元々は黒かったはずだが、ところどころに大きくブチのような白髪が混じっていた。染めているわけではないだろうが、もしかすると、私には考えられないような経験が、髪の毛を白く変えてしまったのかもしれなかった。
相手の目をまっすぐに見て話す瞳の奥には、そのやわらかい笑顔とは違い、はっきりとした意志と、強く厳しい信念が感じられた。
「私は――」と、彼は考えるように言った。「ネモ、としておきましょう。科学の深海に潜った、潜水艦のような人間ですから」
それから、何を話しただろうか。彼の手作りで軽い食事をとり、ソファーに場所を移したとたん、抗しがたい睡魔に襲われ、そのまま深い眠りに落ちてしまった。
――……。
ひどい夢だった。
ドーム球場のように大きくて広い工場の上から、私は眼下を見下ろしていた。
人々がびっしりと、縦横に等間隔の線が引けるほど、整然と並んでいるのが見えた。
何をしているのだろうか? 私は疑問に思い、空中に浮かんだエレベーターで下の階に降りると、立ったままで凍りついたように動かない人々に近づいた。
声をかけようとして足を止めると、はっと息をのんだ。人のように見えたが、人ではなかった。まるで生きているかのような、ロボット達だった。
私に反応したのか、精巧に作られたロボット達は、一斉にこちらを向いた。方位磁石が、強い地磁気に引きつけられたかのようだった。どのくらいの数だろうか、端が見通せないほど、隙間なく並んだロボット達は、無表情で硬く、感情のない冷たい視線を、じっと私に向けていた。
不意に、笑い声が聞こえた。
ギョッとして振り返ると、名前は思い出せなかったが、間違いなく知っている男だった。男は大口を開け、興奮したように甲高い声で笑いながら、こちらに歩いてきた。
(逃げ出さなければ――)と、私はとっさに思った。
重たくて、自由に動けない両腕をダラリとさせながら、ぶよぶよで、踏みこむ足の力が吸い取られるような通路を、跳ねるように走った。
人の形を与えられ、かりそめの命を吹きこまれたロボット達が、津波のような勢いで私を追いかけてきた。笑う男は、勝ち誇ったように胸を張って腕組みをしながら、ニヤついた地獄の魔王のような顔をしていた。男は、親指を立てた右手を私に向かって突き出すと、ゆっくりと親指を下に向けた。