古い街並みを一歩出ると、そこはもうビルと人とがひしめくビジネス街だった。昨夜、彼の家を訪れたときには、ずいぶんと長く歩いたような気がした。しかし、狭い路地をぬけると、あっけないほどすぐに人いきれの中に出ることができた。街は、夜とは雰囲気をがらりと変えていた。暗い夜のベールを脱ぐと、街は目がくらみそうなほど、たくさんの色とトゲトゲしい光で充ち満ちていた。
振り返ると、歩いてきたばかりの路地が消えていた。彼の家に続く道は、ビルの間に挟まれた、決して道とは言えない隙間に変わっていた。人が横向きに立って、やっと体を入れることができるような、ビルの谷間になっていた。
私は、驚くと共に目を疑って、あわててビルの隙間に足を伸ばした。フッ、と目を細めさせるほどの弱い風が吹いた。足を止めると、そこは彼の家に続く路地だった。目の錯覚にしては、どこかに人の手が加えられているようだった。手のこんだ、大仕掛けのイリュージョンのようだった。
街を歩き始めると、はっきりとではないが、どことなく見覚えのある場所がいくつもあった。デジャヴュかもしれないが、この街を知っているという思いが、次第に強くなってきた。
スーツ姿の人々が、途切れることなく行き来するビジネス街。昨夜、私を捕らえようとした連中が、後をつけてきているのではないか……。時折立ち止まっては、自然なふりを装って周囲を確認した。辺りに目を配りつつ、行き交う人々の中にまぎれながら、隠れるように歩いていると、人の流れの先になにかが見えるような気がした。
「たしか、ここは駅前通り……」
うっすらと、額に汗をにじませながら、早足で進んだ。通りの先には、思い浮かんだとおりの駅があった。ぼんやりとしていたイメージが、はっきりと輪郭を持つまで記憶が回復しているようだった。
そういえば、この近くに図書館があったはず……。と、自信を持ち始めた私は、図書館があると思う方向に向き直り、大股に歩き始めた。
図書館を示す案内看板が、電柱の胴に取り付けられているのを見つけた。
私は、うれしさのあまり足の痛みも忘れ、急ぎ足で図書館に向かった。
イメージのとおり、象牙色をした図書館が現れた。
もっと時間をかけて街を歩けば、なくしている記憶を取り戻すことができるかもしれない。希望が、フツフツと湧き上がってきた。すぐにでも、人通りの多い道に戻るつもりだった。後をつけられている様子はなかったが、不用意に人目に付くことは、避けなければならなかった。しかし、立ち止まって図書館に出入りする利用者を目にしているうち、なにか自分自身をさがす手がかりがあるのではないかと、ついつい冷静さを失い、思うままに図書館の階段を上っていた。
館内は、しんとした空気に包まれていた。聞こえてくるのは、受付で手続きをするやり取りと、本を閲覧している人々のゆったりとした靴音ばかりだった。
私は、居眠りをしている男の隣に席を見つけて、腰をおろした。無精ひげを蓄えた男の口元には、うっすらとよだれの筋が光っていた。と、席に腰をおろした私に気がつき、男が顔を上げた。思わず目が合い、男が「ヒッ」と目を剥いた。火傷を負った顔を見て、悪夢の続きだと思ったのだろうか。私はすぐに顔を伏せ、帽子を深く被り直した。居眠りをしていた男はあわてて席を立つと、逃げるようにどこかへ行ってしまった。
机の上には、男が忘れていった新聞が残されていた。私は新聞をそっと引き寄せると、紙面を広げた。
政治にも経済にも、まるで関心がなかった。新聞をめくっていくと、科学欄を見つけた。私は、彼の家で読んだ記事を思い出した。
彼の家で手にした新聞は、3年前の物だった。受付に行き、新聞のバックナンバーが図書館にないか、早口でたずねた。私の顔と言葉の勢いにおびえたような受付の女性が、目を泳がせながら指をさして、新聞の場所を示した。礼を言いながら、私は新聞が置いてある書架へ小走りで向かった。
分厚い新聞の縮小版が、びっしりと並べられていた。探している新聞社の号を見つけると、古い号から順に掲載された科学欄に目を通していった。数学に関連した記事だけではなく、社会面にも目を走らせた。
裏表紙からページをさかのぼっていき、とうとう気になる記事を見つけた。小さな記事だったが、不可解で恐ろしい事故のことが書かれていた。
日付は、二年前。場所は、大学の研究室だった。深夜、なんらかの実験中に火災が起こり、中にいた教授が一人、亡くなったと書かれていた。それだけであれば、不可解なことはなかった。危険な物質を使用する実験であれば、誤って火災を起こしてしまうこともあり得るだろう。だが、記事はそれだけで終わっていなかった。亡くなった教授の遺体は、焼け焦げた頭髪以外、なにも残っていなかった。それほどの火災にもかかわらず、奇妙なことに火は研究室の中だけを焼きつくし、隣り合ったほかの研究室に燃え移ることはなかった。そのせいで、同じ学部で働く助手が、教授に依頼されていた講義資料を研究室に届けに来る翌朝まで、誰にも発見されなかった。新聞には、”神 鏡也教授”と事故にあった教授の名前がのせられていた。私が読んだ記事の教授と、間違いなく同じ人物だった。
数学の教授が、どんな実験をすれば、人体が燃え尽きるほどの火災を起こすことができるのだろうか……。
私は、神教授の経歴を調べた。教授は、関東地方の高校から東大へ進み、卒業後は海外の大学へも留学していた。帰国後は、民間の研究機関に研究員として迎えられていた。三年前の記事は、研究機関を辞め、大学教授として、本格的な研究に取り組み始めた直後のものだった。
教授の研究と横顔を紹介する記事が、科学雑誌のバックナンバーに掲載されていた。笑顔で映るカラー写真があった。写真の教授は、新聞記事の写真同様、雰囲気が彼とよく似ていた。ただ、比べれば髪は短く、その表情は、同じ人物とは思えないほど、きらきらとした生気に溢れていた。
もしも、彼が事故にあった教授と同じ人物であるのなら、亡くなった人物は何者なのか。仮に同一人物であったとしても、エリート中のエリートとして、将来を嘱望されていたはずの教授が、なぜ街の奥深く、人との接触をあえて避けるようなさびしい家で、世捨て人のような生活を送ることになったのか。
失われた自分を探すつもりが、自らを潜水艦の艦長になぞらえた、不思議な男の正体を暴くことに夢中になってしまった。
振り返ると、歩いてきたばかりの路地が消えていた。彼の家に続く道は、ビルの間に挟まれた、決して道とは言えない隙間に変わっていた。人が横向きに立って、やっと体を入れることができるような、ビルの谷間になっていた。
私は、驚くと共に目を疑って、あわててビルの隙間に足を伸ばした。フッ、と目を細めさせるほどの弱い風が吹いた。足を止めると、そこは彼の家に続く路地だった。目の錯覚にしては、どこかに人の手が加えられているようだった。手のこんだ、大仕掛けのイリュージョンのようだった。
街を歩き始めると、はっきりとではないが、どことなく見覚えのある場所がいくつもあった。デジャヴュかもしれないが、この街を知っているという思いが、次第に強くなってきた。
スーツ姿の人々が、途切れることなく行き来するビジネス街。昨夜、私を捕らえようとした連中が、後をつけてきているのではないか……。時折立ち止まっては、自然なふりを装って周囲を確認した。辺りに目を配りつつ、行き交う人々の中にまぎれながら、隠れるように歩いていると、人の流れの先になにかが見えるような気がした。
「たしか、ここは駅前通り……」
うっすらと、額に汗をにじませながら、早足で進んだ。通りの先には、思い浮かんだとおりの駅があった。ぼんやりとしていたイメージが、はっきりと輪郭を持つまで記憶が回復しているようだった。
そういえば、この近くに図書館があったはず……。と、自信を持ち始めた私は、図書館があると思う方向に向き直り、大股に歩き始めた。
図書館を示す案内看板が、電柱の胴に取り付けられているのを見つけた。
私は、うれしさのあまり足の痛みも忘れ、急ぎ足で図書館に向かった。
イメージのとおり、象牙色をした図書館が現れた。
もっと時間をかけて街を歩けば、なくしている記憶を取り戻すことができるかもしれない。希望が、フツフツと湧き上がってきた。すぐにでも、人通りの多い道に戻るつもりだった。後をつけられている様子はなかったが、不用意に人目に付くことは、避けなければならなかった。しかし、立ち止まって図書館に出入りする利用者を目にしているうち、なにか自分自身をさがす手がかりがあるのではないかと、ついつい冷静さを失い、思うままに図書館の階段を上っていた。
館内は、しんとした空気に包まれていた。聞こえてくるのは、受付で手続きをするやり取りと、本を閲覧している人々のゆったりとした靴音ばかりだった。
私は、居眠りをしている男の隣に席を見つけて、腰をおろした。無精ひげを蓄えた男の口元には、うっすらとよだれの筋が光っていた。と、席に腰をおろした私に気がつき、男が顔を上げた。思わず目が合い、男が「ヒッ」と目を剥いた。火傷を負った顔を見て、悪夢の続きだと思ったのだろうか。私はすぐに顔を伏せ、帽子を深く被り直した。居眠りをしていた男はあわてて席を立つと、逃げるようにどこかへ行ってしまった。
机の上には、男が忘れていった新聞が残されていた。私は新聞をそっと引き寄せると、紙面を広げた。
政治にも経済にも、まるで関心がなかった。新聞をめくっていくと、科学欄を見つけた。私は、彼の家で読んだ記事を思い出した。
彼の家で手にした新聞は、3年前の物だった。受付に行き、新聞のバックナンバーが図書館にないか、早口でたずねた。私の顔と言葉の勢いにおびえたような受付の女性が、目を泳がせながら指をさして、新聞の場所を示した。礼を言いながら、私は新聞が置いてある書架へ小走りで向かった。
分厚い新聞の縮小版が、びっしりと並べられていた。探している新聞社の号を見つけると、古い号から順に掲載された科学欄に目を通していった。数学に関連した記事だけではなく、社会面にも目を走らせた。
裏表紙からページをさかのぼっていき、とうとう気になる記事を見つけた。小さな記事だったが、不可解で恐ろしい事故のことが書かれていた。
日付は、二年前。場所は、大学の研究室だった。深夜、なんらかの実験中に火災が起こり、中にいた教授が一人、亡くなったと書かれていた。それだけであれば、不可解なことはなかった。危険な物質を使用する実験であれば、誤って火災を起こしてしまうこともあり得るだろう。だが、記事はそれだけで終わっていなかった。亡くなった教授の遺体は、焼け焦げた頭髪以外、なにも残っていなかった。それほどの火災にもかかわらず、奇妙なことに火は研究室の中だけを焼きつくし、隣り合ったほかの研究室に燃え移ることはなかった。そのせいで、同じ学部で働く助手が、教授に依頼されていた講義資料を研究室に届けに来る翌朝まで、誰にも発見されなかった。新聞には、”神 鏡也教授”と事故にあった教授の名前がのせられていた。私が読んだ記事の教授と、間違いなく同じ人物だった。
数学の教授が、どんな実験をすれば、人体が燃え尽きるほどの火災を起こすことができるのだろうか……。
私は、神教授の経歴を調べた。教授は、関東地方の高校から東大へ進み、卒業後は海外の大学へも留学していた。帰国後は、民間の研究機関に研究員として迎えられていた。三年前の記事は、研究機関を辞め、大学教授として、本格的な研究に取り組み始めた直後のものだった。
教授の研究と横顔を紹介する記事が、科学雑誌のバックナンバーに掲載されていた。笑顔で映るカラー写真があった。写真の教授は、新聞記事の写真同様、雰囲気が彼とよく似ていた。ただ、比べれば髪は短く、その表情は、同じ人物とは思えないほど、きらきらとした生気に溢れていた。
もしも、彼が事故にあった教授と同じ人物であるのなら、亡くなった人物は何者なのか。仮に同一人物であったとしても、エリート中のエリートとして、将来を嘱望されていたはずの教授が、なぜ街の奥深く、人との接触をあえて避けるようなさびしい家で、世捨て人のような生活を送ることになったのか。
失われた自分を探すつもりが、自らを潜水艦の艦長になぞらえた、不思議な男の正体を暴くことに夢中になってしまった。