矢を射るようだった守衛の目が、とろんと焦点を失い、寝ぼけたように宙をさまよった。
「いえ、何でもありません――」
守衛は目をしばたたかせながら、我に返ったように元の場所へ戻っていった。
「いいえ、こちらこそ」と、彼は小さく会釈をしながら、笑顔を浮かべて言った。
注意深く、こちらの様子をうかがっていたほかの守衛達も、私達に向けていた視線を、再び周囲に巡らせ始めた。
私達は、なにもなかったようにエレベーターに乗りこんだ。
彼は迷わず、最上階にほど近い数字のボタンを押した。
乗り合わせた数人の社員達が、次々に目的の階で降りていくと、残ったのは私達だけだった。
ティン――、と小さな音が鳴り、重い荷重を膝に感じさせて、ふんわりとエレベーターが止まった。
厚いドアが左右に開くと、凛と張り詰めた空気が漂ってきた。それまでの階とは違い、廊下には毛足の長いカーペットが敷かれていた。どうやら会社の重役達が、机を置いている階のようだった。
人の気配がしない廊下を進むと、二人の女性が並んでいる受付が現れた。秘書と書かれたプレートが、二人の間に置かれていた。彼女達は、廊下をやって来る私達に気がつくと、席に着いたまま、深々と頭を下げた。
受付の前に来ると、火傷を負った私の顔に驚いたのか、彼女達は私と視線を合わさず、彼の方を見ながら「いらっしゃいませ」と笑顔を浮かべた。
「あの人は、いるかな――」と、彼が聞いた。
「……?」と、二人は顔を見合わせた。
「どちらと、お約束なさっていらっしゃいますか」と、女性の一人が言った。
彼はその問いに答えず、もう一人の女性に言った。
「君は、私達のことを忘れなければならない」
守衛の時と同じ、経文を唱えるような、独特のイントネーションだった。
無視された女性が、表情を曇らせた。
と、もう一方の女性が「はい」と、満面の笑みを浮かべてうなずいた。
隣に座った女性はあっけにとられ、信じられないというように手で口を覆うと、返事をした女性と彼の顔を交互に見比べた。
動揺を隠せない女性は、逃げるように椅子を引きながら、机の上に置かれた電話を手に取った。
「君にも、お礼を言わなければならない」
彼は手の平をかざしながら、電話を手にした女性に言った。
「ありがとう――」
電話を手にしたまま、女性が凍りついたように動きを止めた。その目は、彼がかざした手にくぎ付けになっていた。
”もしもし――”と、受話器から誰かが問いかけている声が聞こえてきた。彼女は答えることなく受話器を置くと、電話を元の場所に戻し、笑顔で言った。
「いってらっしゃいませ」
二人の女性は、深々と頭を下げた。
私達が訪れたのは、会社の部長室だった。彼がノックをすると、低く野太い声が、中から「ああ」と、面倒くさそうに答えるのが聞こえた。
ドアを開けると、濃いグレーのスーツを着た年輩の男が、いかにも権力の塊といった風体で、大きな机に頬杖をついたまま、どっかりと微動だにせず、じっとこちらを向いていた。
「……誰だ貴様は、何者だ」と、男は彼を睨んで一喝した。「出て行け!」
しかし男の額には、遠目にもじっとりと脂汗が浮かんでいるのがわかった。男が彼の素性を知っているのは、明らかだった。
「はじめまして」と、彼は笑みを浮かべながら、小さく頭を下げた。「けれどあなたは、私のことを知っているはずです。このひと月ほどで、あなたが雇った人間に何度もお会いしましたから――」
机の前で立ち止まった彼を、男は眉をひそめながら見上げていた。緊張のあまり息を詰め、顔を紅潮させながら、歯を食いしばっていた。どうするべきか、考えあぐねているようだった。
と、その視線が私に移った。
「博士……?」と、男が驚いたように言った。「なぜあなたが、この男と一緒にいるんですか―― 」
私は、帽子のひさしで顔を隠すようにうつむくと、片目だけを出すように顔を上げ、黙って男の視線を受けた。記憶を失っている私は、目を丸くしている男のことなど、なにひとつ覚えていなかった。
「動くな!」
と、男が急に大きな声をあげた。
いつの間に取り出したのか、その手には拳銃が握られていた。彼が私の方をちらりと見た隙をついて取り出したようだったが、もしかすると、私達が部屋に入る前から、机の下で隠し持っていたのかもしれなかった。
「知っているでしょ、私に銃は通用しない」と、彼は男に向かって静かに言った。
「ハハハ……」と笑いながら、男は椅子から立ち上がった。
勢いよく後ろに引かれた革張りの椅子が、大きな窓にかけられたレースのカーテンを揺らすと、壁一面にはめ込まれたガラスにぶつかって、どすんと横向きに倒れた。
「おまえじゃない」と、男は引き金に指をかけたまま、銃の先を危なっかしく振りながら言った。「博士は弾をよけられないんだろ?」
銃口が、私に向けられた。男は机を離れ、私達との距離を広げると、近くの壁に背中を預けた。男は拳銃だけをこちらに向けたまま、背中をこするようにしてドアに向かった。私達は二人とも、ドアに近づいていく男の様子をじっとうかがっていた。
「いえ、何でもありません――」
守衛は目をしばたたかせながら、我に返ったように元の場所へ戻っていった。
「いいえ、こちらこそ」と、彼は小さく会釈をしながら、笑顔を浮かべて言った。
注意深く、こちらの様子をうかがっていたほかの守衛達も、私達に向けていた視線を、再び周囲に巡らせ始めた。
私達は、なにもなかったようにエレベーターに乗りこんだ。
彼は迷わず、最上階にほど近い数字のボタンを押した。
乗り合わせた数人の社員達が、次々に目的の階で降りていくと、残ったのは私達だけだった。
ティン――、と小さな音が鳴り、重い荷重を膝に感じさせて、ふんわりとエレベーターが止まった。
厚いドアが左右に開くと、凛と張り詰めた空気が漂ってきた。それまでの階とは違い、廊下には毛足の長いカーペットが敷かれていた。どうやら会社の重役達が、机を置いている階のようだった。
人の気配がしない廊下を進むと、二人の女性が並んでいる受付が現れた。秘書と書かれたプレートが、二人の間に置かれていた。彼女達は、廊下をやって来る私達に気がつくと、席に着いたまま、深々と頭を下げた。
受付の前に来ると、火傷を負った私の顔に驚いたのか、彼女達は私と視線を合わさず、彼の方を見ながら「いらっしゃいませ」と笑顔を浮かべた。
「あの人は、いるかな――」と、彼が聞いた。
「……?」と、二人は顔を見合わせた。
「どちらと、お約束なさっていらっしゃいますか」と、女性の一人が言った。
彼はその問いに答えず、もう一人の女性に言った。
「君は、私達のことを忘れなければならない」
守衛の時と同じ、経文を唱えるような、独特のイントネーションだった。
無視された女性が、表情を曇らせた。
と、もう一方の女性が「はい」と、満面の笑みを浮かべてうなずいた。
隣に座った女性はあっけにとられ、信じられないというように手で口を覆うと、返事をした女性と彼の顔を交互に見比べた。
動揺を隠せない女性は、逃げるように椅子を引きながら、机の上に置かれた電話を手に取った。
「君にも、お礼を言わなければならない」
彼は手の平をかざしながら、電話を手にした女性に言った。
「ありがとう――」
電話を手にしたまま、女性が凍りついたように動きを止めた。その目は、彼がかざした手にくぎ付けになっていた。
”もしもし――”と、受話器から誰かが問いかけている声が聞こえてきた。彼女は答えることなく受話器を置くと、電話を元の場所に戻し、笑顔で言った。
「いってらっしゃいませ」
二人の女性は、深々と頭を下げた。
私達が訪れたのは、会社の部長室だった。彼がノックをすると、低く野太い声が、中から「ああ」と、面倒くさそうに答えるのが聞こえた。
ドアを開けると、濃いグレーのスーツを着た年輩の男が、いかにも権力の塊といった風体で、大きな机に頬杖をついたまま、どっかりと微動だにせず、じっとこちらを向いていた。
「……誰だ貴様は、何者だ」と、男は彼を睨んで一喝した。「出て行け!」
しかし男の額には、遠目にもじっとりと脂汗が浮かんでいるのがわかった。男が彼の素性を知っているのは、明らかだった。
「はじめまして」と、彼は笑みを浮かべながら、小さく頭を下げた。「けれどあなたは、私のことを知っているはずです。このひと月ほどで、あなたが雇った人間に何度もお会いしましたから――」
机の前で立ち止まった彼を、男は眉をひそめながら見上げていた。緊張のあまり息を詰め、顔を紅潮させながら、歯を食いしばっていた。どうするべきか、考えあぐねているようだった。
と、その視線が私に移った。
「博士……?」と、男が驚いたように言った。「なぜあなたが、この男と一緒にいるんですか―― 」
私は、帽子のひさしで顔を隠すようにうつむくと、片目だけを出すように顔を上げ、黙って男の視線を受けた。記憶を失っている私は、目を丸くしている男のことなど、なにひとつ覚えていなかった。
「動くな!」
と、男が急に大きな声をあげた。
いつの間に取り出したのか、その手には拳銃が握られていた。彼が私の方をちらりと見た隙をついて取り出したようだったが、もしかすると、私達が部屋に入る前から、机の下で隠し持っていたのかもしれなかった。
「知っているでしょ、私に銃は通用しない」と、彼は男に向かって静かに言った。
「ハハハ……」と笑いながら、男は椅子から立ち上がった。
勢いよく後ろに引かれた革張りの椅子が、大きな窓にかけられたレースのカーテンを揺らすと、壁一面にはめ込まれたガラスにぶつかって、どすんと横向きに倒れた。
「おまえじゃない」と、男は引き金に指をかけたまま、銃の先を危なっかしく振りながら言った。「博士は弾をよけられないんだろ?」
銃口が、私に向けられた。男は机を離れ、私達との距離を広げると、近くの壁に背中を預けた。男は拳銃だけをこちらに向けたまま、背中をこするようにしてドアに向かった。私達は二人とも、ドアに近づいていく男の様子をじっとうかがっていた。