「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

猿田彦は鳥取県中部に土着の縄文人であり、徐福集団(天孫族)に協力していた

2018-07-01 14:59:20 | 天孫降臨
1 蜘ヶ家山と土下山周辺の猿田彦を祀る神社(6社)。合併(大正時代)前の神社も含む。
 金刀比羅神社(由良町由良宿)、松神神社(下北条村松神)、田村神社(下北条村島)、三輪神社(下北条村土下)、船内神社(上北条村下古川)、山根神社(西郷村山根)
 猿田彦一族の本拠地は田村神社(下北条村島)のあたりである。饒速日命を鏡ヶ成に迎えに行かせたのは父の大物主(天忍穂耳)である。その時、天忍穂耳は関金町耳で待っていた。
 饒速日の降臨は、江府町江尾神社→江府町下蚊帳→江府町鏡ヶ成→野添→神田神社→日吉神社→倉吉八幡神社のある哮峰→倉吉市夏谷のルートであった。猿田彦はさらに哮峰から船で天忍穂耳(大物主)と一緒に大国主の本拠地の北栄町茶臼山の東の海に至った。天忍穂耳(大物主)が本拠地にした北栄町下神の三輪山の隣の松神を本拠地にした。大国主と4伴諸を長瀬高浜(多芸志)に案内したのも猿田彦であった。
 饒速日が亡くなったので、邇邇芸が蒜山高原の加茂神社から関金町の矢送神社に降臨した。邇邇芸は蒜山の長田神社→加茂神社→関金町の矢送神社→上福田の楯縫神社→北栄町上種の大宮神社のルートで降臨した。猿田彦は邇邇芸を北栄町上種の大宮神社に案内して、天太玉と稚産霊を天照大神と月読命がすでに降臨していた伊勢(琴浦町中尾)に案内した。
 天太玉と稚産霊が降臨した中尾第一遺跡や伊邪那岐・伊邪那美が降臨した松ヶ坪遺跡や玉祖命が降臨した長瀬高浜遺跡において縄文晩期と弥生前期の遺物が同時に見つかっている。これらは、天孫族に協力していた縄文人がいたということである。この縄文人たちは猿田彦一族であった。後(紀元前160年頃)に長瀬高浜遺跡の巨大4本柱(直径2.5m前後)の高床式建物(SB40)を建てた。
 
2 縄文海進ピーク時の鳥取県中部の海岸線
 倉吉住吉神社の前の案内板には「このあたり一帯が入り江であった時」と書いてあるのでその状態になるのは海抜20mに海面があった時(縄文時代)であり、鳥取県中部の海岸線はこのようになる。蜘ヶ家山と土下山周辺からは旧石器時代・縄文前期・中期・後期・晩期の遺跡や遺物が発掘されている。鳥取県中部には旧石器時代から連続して人が住んでいた。

3 島遺跡発掘調査報告書「位置・環境」よりー北条町(現北栄町)の遺跡
 北条町は鳥取県の中央部を流れる天神川を境にして、東は羽合町、西は大栄町、南は倉吉市と接しており、北部は日本海に面している。
 砂丘地では、砂丘遺跡で有名な羽合町の長瀬高浜遺跡が近接するが、本町の江北浜で土師器、須恵器、土馬、銅鏡、鎧片などが出土し、下神及び弓原浜からは、弥生土器、土師器片が出土している。
 丘陵地においては、茶臼山古墳群、土下古墳群、北尾古墳群、島古墳群、曲古墳群など約600基が存在する県下有数の古墳密集地であり、その中でも土下古墳群に含まれる土下210号墳及び、土下213号墳からは全国的にも貴重な鹿埴輪、鹿の子模様の入った人物埴輪が出土している。
 平野部においては、今回調査を行った島遺跡が代表的な遺跡として挙げられる。島遺跡は、昭和27年に発見された遺跡である。当時、縄文遺跡の存在は鳥取県では目久美遺跡(米子市)、北灘遺跡.(境港市)、青島遺跡(鳥取市)など数えるほどしかなく、島遺跡は縄文時代前期から晩期にまたがる土器や、石器、動物骨格片等の豊富な遺物の出土と相伴って山陰を代表する遺跡として脚光を浴びた。
 昭和58年の発掘調査によって多量の縄文土器のほか、石器や丸木舟、縄文貝塚等が発見され、特に縄文土器においては前期から晩期につながる山陰地方の土器編年がなされ、この地域の縄文遺跡としての重要性が注目されている。また、島遺跡の上流部には、縄文時代中期の土器片、ひきりうす、木製品が検出された米里船渡遺跡が存在している。
 北条町の遺跡分布状況は圧倒的に丘陵部における古墳が多いが、まだ埋もれた遺跡がたくさん存在することは、平野部に位置する島遺跡の立地状況からみても容易に推測できるところである。

4 私見
 島遺跡は遺物がほとんどであり遺構は見つかっていない。島遺跡の場所は海抜5mくらいであり、縄文時代は海の底であった。流土で流されたか準王一族がここを襲ったときに捨てたものと思われる。縄文人の遺構はまだ発掘されていないが、周辺の丘陵地にあるはずである。鳥取県中部の蜘ヶ家山と土下山に縄文人が住んでいたと思われる。縄文前期・中期・後期・晩期の遺物が島集落や米里集落から発掘されている。
 この蜘ヶ家山と土下山に住んでいた縄文人は猿田彦一族であった。徐福一行がこの地に到着してから伊邪那岐に頼まれて徐福一行に協力していたと思われる。猿田彦は土着の縄文人であったから、徐福集団の道案内もし、定住できるように協力していた。「天津御子の天之御巣の壮大な構えの屋根の高い立派な宮殿を築いた」(古事記)のも猿田彦一族であった。
 「北条」という地名は統一新羅が滅んで京都から此の地を支配しに来た藤原氏(山田氏)が付けたものと思われる。京都(条里制)の「北にある古い都」(北の条)という意味と思われる。北条で条里制の遺跡は発掘されていない。


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