神武天皇の「鵜飼いが友」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった
1 日本建国史 「曲学の徒」桂川光和より
「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね。」この奈良の伊那佐山での戦いを歌ったものである。
伊那佐山の木の間を行き来しながら、楯を並べ防戦しているが食べ物が無く飢えてしまった。鵜養(うかい)がとも(伴・供)よ早く助けに来い、という意味である。
苦戦する兵が、食料の到着を待つ差し迫った歌である。現実感のある歌だと思う。
興味深いのは「島つ鳥」である。従来鵜飼にかかる枕詞とする解釈は多い。しかし前に述べたように、この時代では枕詞というような、慣用的表現は確立していないであろう。
神武は奈良盆地侵攻の前に、吉野や阿田(五条市阿田)など奈良県南東部を訪れている。吉野の阿田あたりでは鵜を使った漁法が早くから行われていたとされる。
「鵜飼いのともよ」という語句が、この五條市阿田の住民を指した語句であることは容易に察しがつく。
この阿田には小島、上島野、下島野という地名がある。島という地域である。まさにこの「島つ鳥」というのは鳥の鵜と、島という土地の名に掛かる掛け言葉である。
2 神武天皇たちがこもって戦った伊那佐山と神武天皇たちが使っていた楯。
現在、伊那佐山(奈良)と稲佐の浜(出雲)は離れたところに造ってあるが、もともと「いなさ山」と「いなさの浜」は同じところにあった。それは周囲は砂だが山は隣の三輪(神)山のような砂の山でない(否砂)鳥取県北栄町の茶臼山であった。
島集落から見た伊那佐山(茶臼山)
伊那佐山(茶臼山)から天香久山(土下山)と島集落(縄文人の猿田彦一族がいた)を望む。
神武天皇は天照大神のいた琴浦町の伊勢を取り返すために伊勢でも出雲族と戦った。伊勢から船で茶臼山(伊那佐山)にきて、敵情を偵察した。天香久山(土下山)までは中洲があり、中洲の豪雄と呼ばれていた長髄彦がいた。
神武天皇は戦いに勝てるかどうか占うために、二人に天香久山(土下山)の赤土を下させた。二人が土を下したところが伊那佐山と天香久山との間にある土下集落である。
手前の伊那佐山の木の間に楯を立てて戦った。中洲の右側は汽水池になっていた。向こうの島集落から来た猿田彦一族は汽水池で鵜飼いをしていた。
鳥取県の青谷上寺地遺跡で発掘された弥生時代中期後葉(紀元前50年頃)の楯
神武天皇たちは伊那佐山(茶臼山)でこの楯を立てて戦った。
3 私見
奈良には伊那佐山が作ってある。神武天皇はここに立てこもって戦ったと学者も思うようにしてある。桂川氏もこの歌の舞台は奈良であると疑問に思うこともなく信じ込んでいる。島は猿田彦一族がいたところであり、伊那佐山の目の前にある。島の猿田彦一族は神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。
紀元前60年頃は海抜が4mほど高かったから鳥取県北栄町はこのような地形となる。天神川の度重なる洪水により日下邑の楯津は埋まり、中洲は流され(弓原集落まで三角形の土砂の堆積が見られる)、長瀬高浜の弥生土器も流された。
島からは縄文土器が出土しており、縄文人がいた。それは、天孫族に協力していた猿田彦一族であった。猿田彦一族は島から船を出し伊那佐山に近い汽水域で鵜飼いをしていた。五條市阿田というような遠くではなく、神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。
「島つ鳥、鵜飼いがとも」とあるが、奈良に津はないので、藤原氏は「津」の読みだけ残して、漢字は消している。例えば葦原中国、黄泉平坂などである。
この島はのちの磐余邑の中にあり、履中天皇が作った金繰溜池の近くに蘇我馬子大王は池辺双槻宮を造った。蘇我馬子大王は島大臣(王)と呼ばれていた。金繰溜池の池上で同棺複数埋葬の島古墳群が発掘された。池上の陵である。
道路右側の家の敷地から縄文前期~縄文晩期の連続遺物が発掘された。島集落に縄文前期から縄文晩期までの縄文人が住んでいた。それが徐福一行(天孫族)に協力していた猿田彦一族であった。「島つ鳥、鵜飼いがとも」とは猿田彦一族のことであった。
茶臼山(伊那佐山)の横の北条川放水路分水堰(ぶんすいぜき)で川鵜を見た。2021年5月17日撮影。汽水池はなくなっているがちょうど猿田彦一族(縄文人)が鵜飼いをしていた辺りである。
島のとも(猿田彦一族)に飼われていた鵜の子孫!?