「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

「クシフルタケ」とは本来「クシフルネ」であって、鳥取県北栄町の亀谷丘陵であった

2018-07-04 18:11:20 | 天孫降臨
1 「クシフルタケ」とは本来「クシフルネ」であって、鳥取県北栄町の亀谷丘陵全体をさす言葉であり、先端は船着場になっていた。亀谷丘陵の横には由良川が流れている。
 クシフルとはアイヌ語で、川などの向こうをクシと言い、丘をフルというから、「向こう(クシ)の丘(フル)」である。問題は古事記に書かれている、クシフルタケのほうだ。久土布流多気とあるが、これは明らかに当て字。日本超古代地名解でタケに岳ではなく峯と当てているのは、何か根拠があるに違いない。ネがミネになり、それがタケになったのはどういうプロセスがあったのだろうか?ネが縄文や弥生時代の言葉だとしたら、タケは奈良・飛鳥時代の言葉だということだろう。一般的に、日本の古語は、西日本が後から入ってきた百済語、東日本が古くからある新羅語だという。となると、タケは後から入ってきた百済語であった。
 
2 波波伎神社の由緒
 神社明細帳には、「事代主大神、国譲りの後、己も天の使いの旨を諾け給い、国向けの代と、天夷鳥命の御子・国夷鳥命に手組ましめ、一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を、此の青柴の巻籬内にと蹈み方向けしめ来まして宣わく、吾心すがすがし幾世福庭曾此の青柴の弥栄に栄えゆく如く、皇孫命の大御代は栄え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天栄手を青柴籬(まがき)に拍誓て御隠坐しし天栄手の宮なり」とある(式内社調査報告・1983)。
※ 私見
 一ツ木の神玖四浮根(神のクシフルネ)とは鳥取県北栄町の亀谷丘陵のことであった。当時は海抜4mに海面があったので尾崎まで海岸線が来ていた。事代主はそこに船を停めていた。何回もの書き換えの時に「船足」に惑わされクシフネとなったと思われる。邇邇芸命もクシフルネ(クシフルタケ)の山側に御所を造った。

 亀谷丘陵を上から見たものです。先端の◇形あたりに事代主は住んでおり、国譲り後は木花之佐久夜毘売が住んでいた。この◇形あたりは正確に北口本宮冨士浅間神社と同じ緯度である。この丘陵の山側に邇邇芸命がいた大宮神社がある。この丘陵全体をクシフルタケ(クシフルネ)と言っていた。

 亀谷丘陵の◇形(事代主は尾崎に祀られていた)より島(右側)と入江の入口(左側遠方)を望む。実はこれが「つくし」の日向の橘の小門であった。木を伐り「つくし」ていたからこの丘陵地は木が一本しか生えていなかった。「一ツ木の神玖四浮根(この丘陵地)」とある。左側遠方の入り口の両サイドは瀬戸と原であるが、伊邪那岐が原で禊をしているときに3貴神が上陸してきた。そして、伊邪那岐と3貴神は前に見える大島に来て、少年少女をここで育てるようにと命じた。海抜4mのラインがすぐ前まで来ている。中が津になっていて、天然の良港があった。徐福(天照大神)文書にある「大山の裾野の小さな湾」とはここのことであった。徐福(天照大神)はこの小さな湾に上陸した。向こうに見える大島が徐福(天照大神)文書にある「宇記島」であった。現在、葦原中津国であったところは全面稲作地帯である。
 
3 徐福の古墳と言われている八女市の童男山古墳群は27基の円墳である。新宮市徐福公園にあった徐福の重臣7人の墓も円墳であった。
​​ 童男山古墳の伝説や新宮市の徐福の重臣7人の墓は藤原氏が作ったものであるが、京都の藤原氏は徐福たちの墓が円墳であり奈良時代まで都が鳥取県中部にあったことを明治になるまで知っていた。
 鳥取県中部に古墳は2395基発掘されているが、そのうち2338基(97.62%)は箱式木棺・石棺を土で封じた円墳である。徐福一行の古墳は円墳であった。鳥取県中部にいた一族は徐福一行であった。徐福が留まった倭国とは鳥取県中部であった。
 天照大神は徐福であったから天孫も徐福一行であり、その古墳は円墳であった。だから、天孫族が降臨したところは円墳でなければならない。天孫が降臨したクシフルタケ(ネ)は鳥取県中部にあった。
 
 
 
 
 
 
 


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