秀祥が世界を巡る旅に出た1980年は中東がとても不安定な時期だったので、そこは飛行機で飛び越えるコトにします。
'80年ではパキスタンとインドの国境争いがまた激しくなっており、アフガニスタンはロシアに侵攻されていて、イランとイラクも戦争を始めました。
イスラエルとアラブ諸国の戦争も続いており、そうした国々にチベットを支援する余裕はありませんでした。
なので旅はヨーロッパからとし、一気に飛行機でドイツに飛びます。
ドイツは既にこの頃から難民を積極的に受け入れる「人権大国」で、チベットを政治的にサポートして来ました。
スイスもチベット難民を多く受け入れている国で、これは同じ「山の民」として共感するモノがあったからでしょう。
スイスも永世中立国で軍隊を持たず、国の危機には民衆が力を結集させるスタイルでチベットと共通しています。
このコラムでは「選ばれし子供達」がスイスに送られたコトを述べていますが、そうした子供達はスイス国籍を活かしてチベットへの帰還も果たしており、そこの現状を亡命政府に報告する役割を担っています。
一方でフランスはよりディープなチベット支援をしており、それはフランス人がチベット仏教に帰依するというスタンスです。
フランス人は精神性を追い求める傾向が強く、ルネッサンスやフランス革命の影響でキリスト教への信仰は揺らいでいたので、自然と仏教が浸透しました。
ベトナムや日本の仏教も浸透しましたが、やはり本場のチベット仏教が1番多くの信者を獲得し、そうしたフランス人ヒッピー達はネパールや北インドを目指しました。
その中にはチベットに潜入する強者もおり、大半が外国人立入禁止(ラサの周りだけ入れるが許可料はバカ高い)の高原でチベット人との連帯を深めています。
そうしたコアなチベット-フォロワーは、フランス語を話せる女性トゥルク秀祥の来訪を特別に歓迎します。
まだインターネットが普及していない時代なのでトゥルク来訪のニュースは広まるのに時間が掛かりますが、秀祥はパリのお寺に腰を据えてセラピーカウンセリングを始めます。
秀祥はミトとユパを引き連れてパリの貧困区も巡り、そこで肉体的·精神的に病んでいる人達に救いの手をさし伸べます。
この頃からもう彼女の手には特別な癒やしの力が宿っており、秀祥は「キリストの再来」とまで崇められて多くの信者を獲得します。