長崎の中心街とは小高い山ひとつ隔たっていて、僅かに平らな河口沿いに当時から路面電車が走って繋がってました。
私は15年も前に浦上と中心街を隔てる山のキャンプ場で一月暮らし、とにかくずっと山裾の上の方まで広がる町だった事を覚えています。
夏ミカンの木が沢山植えられていて、酸っぱすぎてあまり食べられないので、私は毎日落ちて熟したのを頂いてました。
今では浦上も住宅が密集してベットタウンといった趣ですが、百年前はもっとずっと緑が多く、陽当たりのよい山の南斜面の町は園芸にもってこいで、畑も在ったことでしょう。(今でも果樹園は僅かに在る) 魚も採れるので昔の人々はかなり自給自足できてたかと思われ、コミュニティーで支え合って生活していた時代を羨ましい思いで懐古します。
さて、まだこの町の百年前の住人達が描き切れてませんね。ここは成長を続ける郊外の町で、流入人口は年に10世帯程でした。
日本人が八割強を占めますが、中国と韓国の人達も一割強が溶け込んで生活しており、残りの数パーセントが目立つ外国人でした。
中でも特に目立ったのが、ベトナムからトゥルク一行に加わってやって来たフランス人カップルで、彼等は平和な地を求める貴族階級の理想主義者、といった触れ込みでしたが、実はフランスのスパイでトゥルク達の活動を報告する任務で浦上に住みます。(こんな捻りは要らない?) まあ取りあえずは学校でピアノでも教えてて貰いましょう。
ロシアの貴族も革命を逃れて日本に来ており、クリスチャンの町として浦上は住み心地が良いとして集まります。
彼等は目立ってしまうので小コミュニティーを作って引きこもり勝ちになりますが、教会はいつでもオープンで良き交流の場となります。
彼等の中にはジャーナリストや作家もおり、彼等の目を通した日本が描かれた事かと思いますが、それらは戦火で焼かれて残っておりません。 そんな時代の荒波によって失われた精神活動に興味があり、再現を試みたいと思います。
あと忘れてはいけない家庭が一つあり、
これはお寺で多くの孤児を育てる大家族です(新之助も始めここに暮らした)。面倒を見るのは主に近所のお婆さん達で、住職はもうかなり高齢ですがまだ毎朝太鼓を打って坂の町を歩きます。
日中は専ら坐禅と畑仕事をし、非常に僅かな糧で生きる習慣を身につけています。
この浦上の古民家を守った雲水のお爺さんは皆から大切にされ、百歳で大往生をとげさせようと思ってます。
物語の多様性はだいたいこの位でいいかと思いますが、どうしても加えて欲しい家庭の理想像がありましたら 教えて下さい。