前号で紹介した今年の写真と比較してください。
これは同じ場所の2011年5月の宝満山の牡丹です。
葉の茂り具合、花芽の大きさなど同じ木と思えない位に勢いが感じられます。
かつて福岡城にあった最後に残った貴重な一株です。
博多の謡曲に博多牡丹の研究者であった椿屋遊園を主人公にした演目があります。
ワキ
是は筑紫冷泉(れいぜい)の津 袖の湊に住居(すまひ)仕る遊園と申す者にて候。
我れ若年より百花を養ふことを手馴候程におのづから家業の如くなりて候。
頃は弥生の上旬なれば数多の数寄人の許へ差越江色よき花をも眺めばやと思ひ候。
我れ元より園に遊べる身とて〈 憂世の塵を春風に吹はらひつつたどり行く。
茲(ここ)は櫛田の宮(みや)居(ゐ)とて暫し念じて立居たり〈 (※〈 繰り返し記号 以下同じ)
シテ
なふ〈 彼(あ)れなる御方(おなた)に申すべき事の候。
ワキ
ふしぎやな由ありげなるさまより妙なる女房の我に言葉をかけ給ふは如何なる人にてましますぞ。
シテ
花のあるじとゆふ園(江ん)の手にふれ給ふ一本はいかなる花にて候ぞ。
ワキ
思ひもよらぬおん尋ねかなこれは我等が園生(そのぶ)なる岩波と申す花よなふ。
ワキ
いづれの古歌にも此花を二十日(はつか)草ふかみ草とこそよめ是はことなるおん答えやな。
ワキ
仰はもつとも然ることなれども唐士(もろこし)にて詩を賦する異名にも
シテ
玉盤錦芭(きんは)さまざまに品をかへ色を添〈 富貴の花と名づけたり。今は我国に類(るい)多しと以(い)ひながら殊に筑紫の春の色々いかにやいかに、釣(す)簾(だれ)のひまに花をあらそふ御(み)景色其名ゆかしき許りなり。
シテ
我名を何と岩波の落てくだくる習ひあり、其花に尋ね給へかし、花もの言はぬ色なれば暫し迷へる我心
ワキ
あやしき今の言葉よな。
シテ
さすが非情の姿とて雨露(うろ)霜雪(そうせつ)にまとはりし迷ひの雲も晴れやらす。
ワキ
ふしぎやさては草木のかりに現はれ給へるか。
シテ
まことや我はゆふ白の由良の戸わたる梶枕うかむことなき身なり、あら恥かしと言ひ捨て、形は見へずなりにけり、跡方もなく成にけり。
中入
ワキ
さては牡丹の精かりに現はれて我に言葉をかけしなぞと、此理にまかせつつ花の供養をなさんとて〈 、貴き僧を請じつつ花壇を清め閼伽を汲み南無白霊露地白(びやく)牛。
シテ
あら有難の法(のり)の庭やな、もとより此身は白妙(しらたへ)のかさねも重き罪科にうつらふ物もみな寄する博多の海の底もなく恋こがるる人(ひと)心(こころ)千尋(ちひろ)にのこる妄執(もうしう)哉(かな)。
ワキ
不思議やな半夜(はんや)の鐘の響にひらく姿は、なほも昨日みし御簾の追風に匂ひ来て。
シテ
恥かしながら仏果(ぶつくわ)の縁(えにし)に江める許りのありさまなり。
ワキ
嬉しやさては手向(たむ)けの花も誠の道に
シテ
通ひけり。熟々(つらつら)。飛花落葉を観ずるに一生は夢を結ぶに似たり、人間七十古来稀なり。
シテ
牡丹花下(くわか)の酔(すい)猫(びやう)は蝶に心のありとかや。されば我(わが)朝(てう)大内山、都鄙遠近に至るまで今に絶江せず翫(くわん)賞(せう)せり。仰(そもそも)雪月のふたつの色をあらそひ、水晶の光あきらかに彼(かの)玉堂を照らしけり。出雲八重垣や、かみやが園のふかみ草、寺前(じぜん)の花をかぞふるに閑松院のくれない慈悲万行の乙女白、太子堂の紅白、士農工商家々に其色々をにぎはせり。老を養ふ紅や残(のこ)んの雪に下萌(したもへ)の緑も四方(しほう)に匂ふらん。小夜姫の袖のうちしほる天が下、紐うちとけがたき初霜のおきまどはせる白野菊。ヨシ〈 言葉の花ざかり、色をあらそふ数々に人の家名をかたどるは名有るに勝さる品多しそのぬしひとり楽しみあるかなきかの清瀧や、もろこし船の唐錦、童子(わらご)や天の羽衣。袖の湊(みなと)をかざしつつ供養の鐘をききゐたり。
シテ
木の間の月もおぼろ〈 花にしたる露の光、
シテ
伝へ聞く文殊の浄土に咲く花は獅子たはぶれて愛をなす、愛をなす御怯(みのり)の庭の草木まで悉皆(しっかい)成仏の
シテ
色香もはなやかに情(なさけ)ぶかみ草、その面影もみへつかくれつ散りゆくやみへつがれつ吹ちらす東天紅(しののめ)の空とぞなりにける。
(春山育次郎著 博多毎日新聞「博多物語」二十牡丹の名花と博多人四 大正12年より)