大宰府羅城説に対する批判的意見はおおかた2種に大別できる。
一つは羅城そのものの概念規定についてであり、
もう一つはルートについてである。
前者については学史を含め後述する。
ルートについては鏡山説による水城から大土居小水城間は
ここ50年の戦後の大宰府研究においてはほぼ是認されてきた。
問題は大野城から基肄城間であり、関屋土塁の存在は
鏡山説段階で紹介されていたものの阿部説が登場するまでは
論究するものはいなかった。
阿部は関屋土塁の西側の区画整理事業で「とうれぎ土塁」が発見されたことを
発想の原点として羅城南部のルート設定をおこなった。
1991年の阿部義平説に依拠した大宰府羅城概念図
(九州歴史資料館刊行 「大宰府復元」大宰府史跡発掘30周年記念特別展図録より)
一つは羅城そのものの概念規定についてであり、
もう一つはルートについてである。
前者については学史を含め後述する。
ルートについては鏡山説による水城から大土居小水城間は
ここ50年の戦後の大宰府研究においてはほぼ是認されてきた。
問題は大野城から基肄城間であり、関屋土塁の存在は
鏡山説段階で紹介されていたものの阿部説が登場するまでは
論究するものはいなかった。
阿部は関屋土塁の西側の区画整理事業で「とうれぎ土塁」が発見されたことを
発想の原点として羅城南部のルート設定をおこなった。
1991年の阿部義平説に依拠した大宰府羅城概念図
(九州歴史資料館刊行 「大宰府復元」大宰府史跡発掘30周年記念特別展図録より)