九州大学筑紫キャンパス内の谷で発見された古代の土塁は
低湿地の上にブロック状の花こう岩風化土や粘質の黒色土壌が
層状に積み重ねられた形状で、最終的に奈良時代の遺物包含層によって
北側が埋めたされた形状であった。
ところがこの重要遺構は最終的に刊行された九州大学による
調査報告書には存在が記載されるだけで図も掲載されぬままであった。
後年、この土塁の東半分が道路工事に伴い大野城市教育委員会の下村氏(当時)が調査され、
池田遺跡の名称で発掘調査報告書が刊行されている。
現場で確認された土塁端部の断層のズレによる崩壊した土層断面の図と写真が掲載されている。
(※画面中央の20cmほどの土層が左右で上下にズレた部分が地震痕跡か)
1990年代に古代官道の研究をおこない、その際に水城西門ルートにピタリと乗るこの土塁を
官道施工によってできた土橋と取り扱ったが(「大宰府周辺の古代官道」)、
当時から地震痕跡のことが気になり、ずっとこれで良いのかと疑問を持っていた。
それが氷解したのが、2年前の10月に姿を現した前畑遺跡の土塁の出現であった。
つづく
低湿地の上にブロック状の花こう岩風化土や粘質の黒色土壌が
層状に積み重ねられた形状で、最終的に奈良時代の遺物包含層によって
北側が埋めたされた形状であった。
ところがこの重要遺構は最終的に刊行された九州大学による
調査報告書には存在が記載されるだけで図も掲載されぬままであった。
後年、この土塁の東半分が道路工事に伴い大野城市教育委員会の下村氏(当時)が調査され、
池田遺跡の名称で発掘調査報告書が刊行されている。
現場で確認された土塁端部の断層のズレによる崩壊した土層断面の図と写真が掲載されている。
(※画面中央の20cmほどの土層が左右で上下にズレた部分が地震痕跡か)
1990年代に古代官道の研究をおこない、その際に水城西門ルートにピタリと乗るこの土塁を
官道施工によってできた土橋と取り扱ったが(「大宰府周辺の古代官道」)、
当時から地震痕跡のことが気になり、ずっとこれで良いのかと疑問を持っていた。
それが氷解したのが、2年前の10月に姿を現した前畑遺跡の土塁の出現であった。
つづく