妄想ジャンキー。202x

人生はネタだらけ、と書き続けてはや20年以上が経ちました。

生命兆候

2024-11-17 19:33:00 | 長いひとりごと




クリスマスを過ぎた街は一気に加速度を上げて、2008年を片付けようとする。
人の心臓が止まった音を聞いたのは、そんな1年で最も寒い季節だった。

その日、当時勤務していた介護施設の夜勤に入っていた。
それなりに忙しさはあったものの入居者は順番に就寝し、無事に日付が変わった。
オムツ交換が終わったタイミングで一服しに喫煙所へ向かう。
次の巡視までまだ少し時間がある。
落ち着いているし今のうちに少し仮眠をとっておこうか、とぼんやり時計を見上げたときだった。

夜勤リーダーの横山さんから内線が入り、一気に目が覚めた。

「はい」
「フロア落ち着いてる?」
「皆さん寝てます」
「そしたら医務室のバイタルセット一式持って来て。あと聴診器も」

何が起きたのか判らず、リーダーに指示された通りにバイタルセットを持って階段を2階分かけ上がる。
暗いフロア1つだけ明るい居室。
廊下から見た瞬間、何が起きたか大体わかった。
居室に飛び込んだとき、予感は確信に変わった。

「どうしたんですか?」
「Mさん息してなかったんだ、バイタルとってくれる?」

力を腕を持ち上げて、上腕にマンシェットを巻く。
重い。
人の腕ってこんなに重かったっけ。
指先に着けたパルスオキシメーターも反応を示さない。

「測れません」
「わかった」
「救急要請は?」
「いや、DNARだ」
「……じゃあ心肺蘇生は」
「しない。救急も呼ばない。そういう指示だ」
「じゃあどうしたら」
「僕らに出来ることはない」
奥歯で苦い味がした。
リーダーも同じ表情をしていた。
――これが限界なんだ。

施設長や家族への電話連絡をしにリーダーが部屋を出る。
立ち尽くすしかなく、私は利用者を見ていた。
時間にして数分程度のはずが、とてつもなく長く感じた。
何回か、電子血圧計やパルスオキシメーターを起動する。
何度やってもエラー表示が出るだけだった。

手をそっと左胸に当てると、自分の心臓の拍動が掌まで伝わってきた。
動いているような気がする。
いや本当は動いているんじゃないか。
掌に意識を集中すると、自分の心臓の拍動の向こう側、とても弱い、間隔の空いた、小さな拍動を感じた。
それは今にも力尽きそうなーー今消えた。
一度消えた拍動は、動き出すことはなかった。
聴診器を当ててみても、何も聞こえなかった。
時計のアラーム音が小さく夜の3時を告げた瞬間だった。

電話を終えたリーダーが戻ってきた。
「施設長、30分くらいには来るって」
「多分、今です。心停止したの」
沈黙が流れた。
血圧計のエラー音だけが、泣いてるんだか笑ってるんだか判らない声を出していた。

数十分して施設長や家族、主治医がやってきた。
朝方には警察もきた。
私はありのままを話すだけだった。
バイタルサインの数値と時刻だ。
自分がやったこと。
淡々と。


翌朝、10時ちょっと過ぎにタイムカードを切った。
荷物を更衣室のロッカーに投げ入れて、置いておいた煙草とライターを手にとる。

冬の風に震えながらも、火をつける。
煙草の煙が青空に消えていく。
なんでこんな日に限って気持ちいいくらいの快晴なんだろう。
いつもなら夜勤明けに買い物に行くのだけれど、その日はもう帰って眠りたかった。

日勤で出勤した主任がやってきた。
「やっぱりここにいた」
「あ、主任……」
「昨日大変だったらしいじゃん、おつかれさま」
主任が缶コーヒーを手渡す。
生ぬるさに前日の夜がよぎってハッとした。
「ありがとうございます」
「Mさんに挨拶してきた?」
「いや……何か行けなくて」
灰皿に煙草の火を押し付ける。
火が消えて、煙が消えて、やがてこの感覚も消えていくのだろうか。
少し俯いて、缶コーヒーあけた。
「そっか」
主任はそれ以上何も言わなかった。
思わず、涙が出そうになるのをこらえる。

「……聴診器、使った?」
「……使いました」
「……本当はダメなんだけどね……」
「……はい、わかってます」
「……うん、わかってることわかってる」
「……すいません」

主任はもう何も言わず立ち上がる。
ポンと肩を叩いて、「おつかれ」とだけ言って、事務所の方に戻っていった。

一粒だけ涙が溢れた。
一体何の涙なのかもわからなかった。

DNAR。
心肺蘇生を行わない。
言葉として理解するのは簡単だけれども、現実としていざ目の前にすると戸惑いが大きくのしかかる。

介護職としてベッドサイドに立ってから9ヶ月目。
身体介助にも少しずつ慣れて、仕事の楽しさも少しずつ考えたら、愚痴なんかも少しずつ溢すようになった頃だった。
眼前で心臓が止まったこと。
命が終わったこと。
そのときに何もできないこと。
何もしてはいけないこと。
心がそれを理解するには、時間が必要だった。

その日から10年以上経ってもなお、あの感覚を覚えている。
心拍の消えた瞬間、上腕の生ぬるい感触、酸素ボンベの重さ、血圧計のエラー音、チアノーゼの唇。
全てがありのままに浮かんでくる。

あの一粒の涙は、いったい何の涙だったのか。
自分自身の生死と向き合ってもなお、私は答えを出せていない。

いつか答えを知りたい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ワンスター | トップ | 【ショートショート】UFO »

コメントを投稿

長いひとりごと」カテゴリの最新記事