クリスマスを過ぎた街は一気に加速度を上げて、2008年を片付けようとする。
人の心臓が止まった音を聞いたのは、そんな1年で最も寒い季節だった。
その日、当時勤務していた介護施設の夜勤に入っていた。
それなりに忙しさはあったものの入居者は順番に就寝し、無事に日付が変わった。
オムツ交換が終わったタイミングで一服しに喫煙所へ向かう。
次の巡視までまだ少し時間がある。
落ち着いているし今のうちに少し仮眠をとっておこうか、とぼんやり時計を見上げたときだった。
夜勤リーダーの横山さんから内線が入り、一気に目が覚めた。
「はい」
「フロア落ち着いてる?」
「皆さん寝てます」
「そしたら医務室のバイタルセット一式持って来て。あと聴診器も」
何が起きたのか判らず、リーダーに指示された通りにバイタルセットを持って階段を2階分かけ上がる。
暗いフロア1つだけ明るい居室。
廊下から見た瞬間、何が起きたか大体わかった。
居室に飛び込んだとき、予感は確信に変わった。
「どうしたんですか?」
「Mさん息してなかったんだ、バイタルとってくれる?」
力を腕を持ち上げて、上腕にマンシェットを巻く。
重い。
人の腕ってこんなに重かったっけ。
指先に着けたパルスオキシメーターも反応を示さない。
「測れません」
「わかった」
「救急要請は?」
「いや、DNARだ」
「……じゃあ心肺蘇生は」
「しない。救急も呼ばない。そういう指示だ」
「じゃあどうしたら」
「僕らに出来ることはない」
奥歯で苦い味がした。
リーダーも同じ表情をしていた。
――これが限界なんだ。
施設長や家族への電話連絡をしにリーダーが部屋を出る。
立ち尽くすしかなく、私は利用者を見ていた。
時間にして数分程度のはずが、とてつもなく長く感じた。
何回か、電子血圧計やパルスオキシメーターを起動する。
何度やってもエラー表示が出るだけだった。
手をそっと左胸に当てると、自分の心臓の拍動が掌まで伝わってきた。
動いているような気がする。
いや本当は動いているんじゃないか。
掌に意識を集中すると、自分の心臓の拍動の向こう側、とても弱い、間隔の空いた、小さな拍動を感じた。
それは今にも力尽きそうなーー今消えた。
一度消えた拍動は、動き出すことはなかった。
聴診器を当ててみても、何も聞こえなかった。
時計のアラーム音が小さく夜の3時を告げた瞬間だった。
電話を終えたリーダーが戻ってきた。
「施設長、30分くらいには来るって」
「多分、今です。心停止したの」
沈黙が流れた。
血圧計のエラー音だけが、泣いてるんだか笑ってるんだか判らない声を出していた。
数十分して施設長や家族、主治医がやってきた。
朝方には警察もきた。
私はありのままを話すだけだった。
バイタルサインの数値と時刻だ。
自分がやったこと。
淡々と。
翌朝、10時ちょっと過ぎにタイムカードを切った。
荷物を更衣室のロッカーに投げ入れて、置いておいた煙草とライターを手にとる。
冬の風に震えながらも、火をつける。
煙草の煙が青空に消えていく。
なんでこんな日に限って気持ちいいくらいの快晴なんだろう。
いつもなら夜勤明けに買い物に行くのだけれど、その日はもう帰って眠りたかった。
日勤で出勤した主任がやってきた。
「やっぱりここにいた」
「あ、主任……」
「昨日大変だったらしいじゃん、おつかれさま」
主任が缶コーヒーを手渡す。
生ぬるさに前日の夜がよぎってハッとした。
「ありがとうございます」
「Mさんに挨拶してきた?」
「いや……何か行けなくて」
灰皿に煙草の火を押し付ける。
火が消えて、煙が消えて、やがてこの感覚も消えていくのだろうか。
少し俯いて、缶コーヒーあけた。
「そっか」
主任はそれ以上何も言わなかった。
思わず、涙が出そうになるのをこらえる。
「……聴診器、使った?」
「……使いました」
「……本当はダメなんだけどね……」
「……はい、わかってます」
「……うん、わかってることわかってる」
「……すいません」
主任はもう何も言わず立ち上がる。
ポンと肩を叩いて、「おつかれ」とだけ言って、事務所の方に戻っていった。
一粒だけ涙が溢れた。
一体何の涙なのかもわからなかった。
DNAR。
心肺蘇生を行わない。
言葉として理解するのは簡単だけれども、現実としていざ目の前にすると戸惑いが大きくのしかかる。
介護職としてベッドサイドに立ってから9ヶ月目。
身体介助にも少しずつ慣れて、仕事の楽しさも少しずつ考えたら、愚痴なんかも少しずつ溢すようになった頃だった。
眼前で心臓が止まったこと。
命が終わったこと。
そのときに何もできないこと。
何もしてはいけないこと。
心がそれを理解するには、時間が必要だった。
その日から10年以上経ってもなお、あの感覚を覚えている。
心拍の消えた瞬間、上腕の生ぬるい感触、酸素ボンベの重さ、血圧計のエラー音、チアノーゼの唇。
全てがありのままに浮かんでくる。
あの一粒の涙は、いったい何の涙だったのか。
自分自身の生死と向き合ってもなお、私は答えを出せていない。
いつか答えを知りたい。
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