先生が煙になったのは、今にも雲が剥がれ落ちてきそうな冬の日だった。
ピアノを習いたいなんて言った覚えはない。
いや覚えてないだけでもしかしたら言ったのかもしれない。
言ったとしても、そもそも熱意はなかった。
『ピアノのレッスン』という言葉に憧れただけ、そんな軽い気持ちで開いた防音扉は子供心ながらにとても重く冷たかった。
毎週火曜日の夕方6時半。
気の重い30分だった。
ちっとも上手にひけやしない。
多分センスがない、向いてない。
正直なところ面白くない。
楽しくない。
「これはまいった、思った以上につまらない」
練習が足りないから弾けないなんて当然とわかりながら、でも練習はそんなにしたくない。
辞めたいと言えればいいけれど、まだ3ヶ月も経ってないからさすがに気が引ける。
とりあえずこの30分を耐えればいい、と困った顔で先生を見上げる。
先生のほうも、嫌なら辞めなさいとも言えるわけもなく困っていたと思う。
毎週毎週同じところで詰まる私の指をチラッと見て、小さな溜め息をつくようになった。
その日、防音室の中で待っていた先生はいつもと少し違った。
お母さんの太ももより細いウエストも。
垂直に上を向いた睫毛も。
人を食べたあとのような真っ赤な唇も。
だいたいはいつもと同じなのだけれど、ひとつだけ違った。
指先に真っ赤な長い付け爪が10本ついていた。
「ああ、ごめんなさいね」
先生はそう言いながら、付け爪を剥がす。
静かな防音室に、爪の捲れる音が響く。
思わず顔をしかめたら、先生はクスッと笑った。
思い返せば、先生の笑った顔を見たのはこのときが最初で最後だったかもしれない。
剥がれたあとの爪は深爪で、ところどころ爪の際に血が滲んでいた。
「それ、痛くないんですか?」
「コツをつかめば剥がすのも痛くないわ」
その深爪は痛くないんですかと聞きたかったけど、なんとなく聞けなかった。
多分、聞いちゃいけない。
あれは先生の秘密で、簡単に触れてはいけない気がする。
大人には秘密があって、それに触れてはいけないのだ。
ドキドキした。
恋とは違う。
緊張とも違う。
両親や学校の先生とは違う、初めて出会った『大人』だった。
それからしばらくした12月のある日だった。
雪子先生が亡くなった。
病気だったらしい。
市内の斎場で葬儀が行われるということで、母に連れられて向かった。
先生の教え子らしい人が大勢いた。
小学生もいたし、高校生、もっと大きな大人もいた。
ハンカチで目頭を押さえながら、泣いている人もいた。
人の死の記憶は、雪子先生のそれが初めてだった。
先生死んじゃったんならもうレッスン行かなくていいのか。
そんなことを思いながら、母を真似て焼香をした。
「先生なんで死んだの」
「心臓が急にとまっちゃったんだって」
母は、雪子先生なんだか具合悪そうな顔してたね、と付け加えた。
朝からどんより曇っていた空からついに雨が降り出す。
雲がついに剥がれ落ちてきた。
「もうレッスンないんだね」
「そうだね」
「そっか」
「え、あんたピアノ好きなの」
好きってわけじゃないけど。
いや多分ピアノは嫌いだけど。
何も言わなかったけれど多分母は察していた。
「……でも先生のことは、嫌いじゃなかったんだ」
揺れる軽自動車、窓の外。
遠くから救急車のサイレンが聴こえる。
水滴が一塊になって後ろに流れていく。
泣いてるみたいだな、なんて思っていたら、涙が少しだけはみ出た。
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