『無痛』『破裂』の相次ぐドラマ化が話題の久坂部羊さん。
上記2作品を見て「面白い!」と思った方は、ぜひこちらを読まれることをオススメします。
高齢化日本の介護問題に対してかなり過激な一石を投じる1冊。
医療・介護の現場に携わっている方々にお薦めしたい1冊。
そして、親には読ませられない1冊です。
以下、2014年12月エントリの加筆です。ネタバレ注意。
最初に感じたのは違和感でした。
いきなり出てきた『漆原糾』という名前、聞き覚えのない出版社名、日付が空いているまえがき。
「なんか変だな」
と思いながら、ページをめくりました。
「まるでノンフィクションのような作りだな」
そう感じたのも、おそらくリアリティのある描写のせいでしょう。
高齢者医療が抱える問題、虐待、介護職の言葉、デイケアの様子。
「ああ、あるある」
と現役介護職員でも頷けてしまうほどです。
美徳と美談ばかりを並べた介護体験談の斜め上をいく筆致です。
岩上さんという一人の利用者の尊厳と人権、生命を考えた上で出した漆原医師の結論は、麻痺している下肢と左上肢の切断でした。
移動移乗の障害になっているだけではなく、圧力をかけ褥瘡の回復を阻害しており、また感染症によって壊疽しはじめている、まさに『廃用身』。
それを『切断』することに対する本能、生命そのものへの畏れと葛藤する漆原医師。
葛藤の末に『決断』をした漆原医師は、デイケア職員とのカンファレンスの末に『切断』を決めます。
堂々と冷静で、それでも人間味を含めた漆原医師の説明を受け、反対の意を示したのは看護師1名のみでした。
紹介されているのは乙定氏という先天性四肢切断症という病の患者で、その知性と明るさで社会的地位を築いた人物です。
「これって……」
疑問を抱きましたが、ページをめくる手は止まりませんでした。
その後、岩上さんは生命機能の回復どころか、失われていたADLも取り戻し、デイケアでも取り戻した自由で周囲の利用者に明るい影響を与えはじめます。
岩上さんの変化に感化され、同じく生活と介護を阻害している『廃用身』の切断を希望する利用者が名乗り出てきました。
行われるカンファ、手術、笑顔を取り戻した利用者……
切断という言葉は使われず、『Aケア』という言葉が使われました。
『Aケア』がもたらしたものはADLの回復や介護負担の軽減のみならず、はからずも不可逆的とされていた脳機能の回復までももたらしました。
認知症(本書内では痴呆と表現)の回復までもがみられたのです。
「すごいな」
日頃から認知症周辺症状の暴力暴言行為に悩まされている私が呟いたのはその一言でした。
漆原医師は『Aケア』の結果をまとめあげ、こう言い切ります。
「医学は科学であることは認めます。しかし医療は科学ではありません」
「医療はサービス業です」
なるほど、確かにその通り。
こんなに患者本位で介護者のことまで考える医師なんて今時珍しいな、と。
加えて、漆原医師は介護破綻についても言及しています。
この本が出版されたのは2003年ですが、2014年現在、実際に介護はほとんど破綻しています。
疲弊する家族、絶えない虐待、在宅ケア方針の失敗、介護従事者の圧倒的不足、対立する現場と経営、減額されていく介護報酬…
先の「拘束介護」もまた介護破綻の招いた結果のひとつであると思います。
「10年前にすごいこと考えた人がいたもんだなあ」
しかし漆原医師の『Aケア』は、マスコミによって糾弾されることになります。
それが本書の後編、「封印されたAケアとはなんだったのか」という矢倉俊太郎という編集者の註釈部分に詳細に書かれています。
ここからが、この『物語』の本編でした。
・戦慄のデイケア
・異様な光景
・巧妙なすり替え
・手足を切断して介護を楽に
・猟奇の老人デイケア
漆原医師が院長を務める異人坂クリニックは週刊誌などによって追い詰められていきます。
しかし漆原医師はまっすぐ前を向いて沈黙を守っていました。
それは『Aケア』の倫理性に絶対的自信があったからなのかもしれません。
しかしその姿勢が裏目に出てしまい、今度は漆原医師本人が標的となってしまいます。
漆原医師本人だけではなく、切断手術を執刀した磯上医師もまた標的となりました。
それでもなお漆原医師は自身の姿勢を貫きます。
遺棄老人が問題となっても、ネット小説でネタにされても、彼は変わりませんでした。
ちなみにこのネット小説、老人牧場そのもので、奇妙なリアリティに恐怖感すら抱きます。
高齢者は四肢を切断され、人工肛門を造設され、舌を切断される。
書いてても胸糞が悪いです。
確かに、要介護度は中途半端な低さよりもいっそのこと5とか4とかのほうが介護は楽ですし、もう介護よりも作業に近い感覚になります。
ネット小説でもその通り、介護は完全に機械化されている様子が描かれます。
近い将来をみているようです。
しかし漆原医師のその自信が絶対的であったからこそ、事件がもたらした影響は膨大なものとなりました。
『Aケア』の一例目となった岩上氏、本名は立岩武が家族を殺害する事件が起きました。
元々は家族からの虐待がきっかけで褥瘡を作り、また感染症による壊死に至った立岩です。
それ根に持ち、回復した身体機能を活用して家族を殺害しました。
遠因が『Aケア』であった、とのこと。
『Aケア』によって脳血流量が増加し躁状態になり家族を殺害するという凶行に至ったと考えられ、漆原医師の仮説は真逆に裏返されかねない事態となりました。
立岩だけではなく、もう一人。
『Aケア』を受けていた患者が、車椅子で首をつり自殺をしました。
「自分は本当はAケアを望んではいなかった」
という旨の遺書を残しました。
それが漆原医師を激しく揺すります。
漆原医師はその後矢倉氏に胸の内を打ち明けて、列車に飛び込み自殺を遂げました。
首を轢断される形になり、
『頭は 私の 廃用身』
という言葉だけを遺して。
漆原医師の死後、妻の菊子も列車に飛び込み自殺を遂げます。
編集者である矢倉氏は別の出版社にうつり、漆原医師の手記、及びマスコミ報道から漆原夫妻が自殺を遂げるまでの経緯を記し、出版に至ります。
「しかしこんな事件あったかな?」
奥付で出版期日を確認しようとしたとき驚きました。
作者名、漆原糾。
「あれ、久坂部羊……」
あれ?あれあれ?
とページをめくると本当の奥付がありました。
そのとき、最初に感じたあの違和感を思い出しました。
「まるでノンフィクションのような作りだなあ」
これはフィクションだと。
そうだ、これはフィクションだと。
これは久坂部羊が、漆原糾と矢倉俊太郎という人物を作り、「『Aケア』という新たな医療と、それに対する世論」の物語であると。
「……フィクション、だよね?」
何度も確認しました。
まさかノンフィクションではない、と思いながら、それでもまだ疑っています。
それほどにリアリティがありました。
医療とは何なのか?
医師を医師たらしめるものとは何なのか?
漆原氏は医療はサービス業とし、充分なインフォームドコンセントに裏打ちされた絶対的自信でした。
その自信が崩されたとき、彼の頭は『廃用身』となったわけです。
フィクションだとしても、なんとも後味の悪い話です。
後味の悪さ、気味の悪さ、グロテスク、恐怖感…
その正体は奇妙なまでのリアリティでした。
ホラー的、ミステリー的なグロテスクだけではなく、読む者の感覚まで狂わせる社会的なグロテスクがある一冊です。
叙述トリック、そう言ってしまえばそれまでなのですが、トリックとは言い切れません。
だって、今だに本当にフィクションかどうかわかってないんですから。
今はまだフィクションかもしれない。
まだ作り話でいいかもしれない。
でも2025年は?それ以降は?
漆原医師のような考え方が出てくるのは至極当然のことかもしれません。
もしかしたら世論から糾弾されるのかもしれません。
あるいはAケアは画期的な医療として、高齢者医療の世界に光を照らすのかもしれません。
そのとき、このフィクションはノンフィクションとなるのでしょう。
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