「昭和16年12月8日、われわれは国連を賭し、栄光を夢見て、大東亜戦争の開戦に踏み切った。」で始まる能村次郎さんの手記である。 能村次郎さんは戦艦大和の副長でした。 能村次郎さんはすでに故人となられています。 昭和16年と云えば、自分がこの世に生をいただいた年です。そうして、今70歳も半ば過ぎてしまいました。あの戦争のことは何一つ覚えていません。 おめでたいことです。 わたしは、「戦艦大和の最期」の映画を2度見ています。最初は12才の時です。父と母に連れられて尼崎の国道沿いの映画館であったような気がします。 戦争の凄惨な映像は今も脳裏に焼き付いています。出演者の中では高島忠夫のことだけが覚えているのです。他の俳優さんのことは知らなかったのか、どうか自分でもわかりません。子供のころですので、今と違って俳優の名前はあまり興味なかったと思います。 映画のシーンは、壮絶そのもでした。米軍の銃撃で次々と死に追いやられる兵士。甲板から滑り落ちる兵士。----- もう一本は「男たちの大和」です。内容的には「戦艦大和の最期」とそう大差ないと思います。出演者の中では中村獅童と反町隆史のシーンが今もよく覚えています。 手記の中から、少し拾い出してみます。 「全員シーンとなった。過去もなく未来もなく我もない無の世界である。」 全員の気持ちは察せられる。 兵士の気持ちも、能村副長の気持ちもこんな気持であっただろう、と察せられます。読んでいてつらいですね。 ーーーーー 「それにしても、三千余名の「大和」乗組員、世界最大の巨艦、無比の戦力。あまりにも尊い。取引は我に利か、彼の思うつぼか。失われる三千余の命は、二度と再びもとに肉体へは宿らぬ。活路は絶無である。 やがては消え去る歴史の一コマ。一瞬焦燥胸を痛めるが、偉大なる時の流れの強さに頭の下がる思いがする。 ーーーーー 艦の傾斜は、35度、40度、45度ーーーと、にわかに速さを増し始めた。ついには横倒しとなり、巨鯨のような艦腹を水面に表して、さらに回転が続く。沈みゆく艦をおおって本流する怒涛の轟音。 傾斜が激しくなる甲板では、破壊された機銃や飛び散った弾丸の鉄片、それにあえない最期をとげた乗組員の死体、ちぎれた腕、足、肉片が、さえぎるものない甲板を徐々に左舷へと滑り去る。その甲板に出たものは、高くなった右舷を目指して這い上がる。中には、戦友の流した血ノリにすべって、海中に没している左舷へ落ちていくものもあった。 乗り組み総員3332名。 生き残った者269名。 生き残った人たちの人生はどんなものであったのでしょうか。大和の乗組員は特に選ばれた精鋭であったと言われています。 それゆえ、生き残った人達は自分の命に向き合い生涯を精一杯にいきられたのではないでしょうか。 戦争はするべきではないことをみんな知っていることです。 今でも覚えております。戦後、傷痍軍人の方たちが駅のそばや橋の上で真夏でも真冬でも生きてゆくためにアコーデオンを弾き一日の食費代を道行く人たちにお金をめぐんでもらっていた姿を今でも覚えています。戦後の混乱期の一時期でした。 翻って今はどうでしょうか? 中東では今なおISやシリアの戦闘が収まっていません。 中国の覇権主義、日本の領海を尖閣諸島はもとより、九州北部そして、津軽海峡をも侵入しています。また、北朝鮮の脅威もどうなるか知れません。国内では、加計 学園のことで、また、森友学園のことも蒸し返されていくようなことが取りざたされています。政府の責任は当然あると思いますが、野党ももっと真剣に中国や北朝鮮のことを問題にすべきであるはずです。真剣に国民、国土をどうして守るのか、といったことを野党自ら、政府に問題提起すれば、それこそ、国民から信頼され、拍手喝さいを受けるのではないかと思います。