「断捨離」という言葉が評判になって久しい。 今も、「こと」や「物」の断捨離についての本が次から次に上梓されている。 「物」の断捨離はさておき、人生の断捨離とは? をいろいろ考えてみたい。自分も75才も過ぎた。断捨離の言葉が世に出る前から定年過ぎたころから少しずつではあるが手を付け始めていたように思う。 それでは、「断捨離」とは、人生の上においてどんな「こと」を意味するのか? 人によっていろいろの解釈もあろうかと思う。何を持って「断捨離」したと言えるのか? どこまで実行出来たらしたと言えるのか? 自分一人の問題なのか? 自分たちの世代は、戦後の物の無い時代に生まれ育っているせいか、物をなかなか捨てることに勇気のいることである。今は、物が溢れかえっており、お金を出せば、大方のものは手に入れることが出来る。 ここに一人の女性がいます。「やました ひでこ」さんという方で、たくさんの「断捨離」の本をだしておられます。「断捨離」に関心がおありの方であれば「やましたひでこ」さんの名前はご存知の方は多いかと思います。 「やました」さんは「断捨離」をするときに用いられる基準あるいは物差しにされるのは「自分軸」と「他人軸」を基準におき決断されるようです。 ここに、「やました」さんの本の「50才からラクになる人生の断捨離」の一文が参考になるので記しておきます。 『何かを捨て、何かを断ち、何かを離れることは、後ろめたさや、つらさを伴って当然。でも、そうした心の痛みを引き受けてこそ、新たな喜びや嬉しさに出会えるのではないでしょうか。断捨離は私にとって、自分の人生にスイッチを入れるメソッドでありアクション。 自分の周りにあるものを見つめ直し、物と自分の関係を問い直していき、結果ご機嫌な自分を手に入れることが出来る。 ---「断捨離」をすれば、良いことばかり起こるようになるか?---かならずもそうではありません。「何が起きても大丈夫な自分」「どんなことにも対処できる自分」を培っていくのが断捨離なのです。』 興味のある方は是非一読されたらいいと思います。 「やました」さんは、自分軸と他人軸で説明をされ、分かりやすく説明をされています。 自分軸や他人軸で量るる方法がありますが、 私は「物」や「こと」への[執着心]ではないかと思っています。[執着心]をどれだけ断ち切れるか、切れないかによって「断捨離」が出来るかできないかの分かれ目になるのではないでしょうか。 それでは、断捨離できる対象にはどんな「物やこと」があるのだろうか? 今日は、人によって対象は違うのは当然であるが自分なりに列記し、 個別についてはまた、別の機会に述べてみたい。 ( 断 )ーーー年賀状等 ( 捨 )---カセットテープ・本・背広・ネクタイ・切り抜き資料 等( 離 )ーーー写真・趣味の切手・親子等 これらに付随してしなければならないこととして、「遺言書作成」や「諸々の引き継ぎ書」も対象になってくるのではないかと思う。
人は、幸せを求めて一生懸命に努力を重ねています。努力しても努力しても、こんなに努力してもどうして幸せになれないの。 また、はたから見ていて、あんなに幸せそうに見えても、なぜ、あんなことをするの? 「幸せ」とは、どんな感じ? どんな状態? どんなこと? いつ感じるの? 貴方は幸せと思ったことはありますか?
幸せとはーー人によって、その時の心理状態や環境によって幸せと感じたり、そうでなかったり。 幸せとは、人類の共通の願いではないでしょうか。 お金がなくっても愛さえあれば幸せになれる。 と、いう人もいる。 家族が狭いながらも慎ましく生活しておれば、幸せという人もいる。 しかし、お金があっても、また、慎ましく生活をしていても、健康でなかったり。健康であっても、またお金があっても家の中がごたごたしたり、いがみ合ったりしていたら、決して幸せとは感じないのではないだろうと思う。 それでは、どんな状態の時に幸せといえるのだろうか? 幸せな要件とは、「健康」「平和(穏やかな日々)」「富(脱貧)」。この3つが今の自分にあれば「幸せ」と感じるのではないのかと思う。 「人間」は、今ある自分は、過去の自分や先祖の罪穢と徳との相殺で成り立っている。過去世において、一杯罪穢を積んでおれば、いわずと知れたことで決して今の自分は「幸せに」身を置けていないのではないと思う。逆に、「陰徳」をたくさん積んでおれば、「幸せに」身を置くことが出来るのではないか。今の自分を静かに内省してみるのもいいのではないか。 「人間」は、多かれ少なかれ、認めたくはないかもしれないが、過去世にたくさんの罪穢を積んできている。 即ち、生まれ変わりしているが、「魂」はその生まれ変わりしている間にどんどん穢れていっている。その穢れた「魂」をきれいにしない限り決して「幸せ」が訪れてこないのではないか。 きれいにできないならば、肉体がなくなっても、「魂」は次の世に生まれ変われるので、今、そう今の自分が「積善」をすることによって、未来の自分を「幸せ」に導くことが出来るのである。 小さな、小さな事で良い「善」を積んでいこうではないか!!!
幸せとはーー人によって、その時の心理状態や環境によって幸せと感じたり、そうでなかったり。 幸せとは、人類の共通の願いではないでしょうか。 お金がなくっても愛さえあれば幸せになれる。 と、いう人もいる。 家族が狭いながらも慎ましく生活しておれば、幸せという人もいる。 しかし、お金があっても、また、慎ましく生活をしていても、健康でなかったり。健康であっても、またお金があっても家の中がごたごたしたり、いがみ合ったりしていたら、決して幸せとは感じないのではないだろうと思う。 それでは、どんな状態の時に幸せといえるのだろうか? 幸せな要件とは、「健康」「平和(穏やかな日々)」「富(脱貧)」。この3つが今の自分にあれば「幸せ」と感じるのではないのかと思う。 「人間」は、今ある自分は、過去の自分や先祖の罪穢と徳との相殺で成り立っている。過去世において、一杯罪穢を積んでおれば、いわずと知れたことで決して今の自分は「幸せに」身を置けていないのではないと思う。逆に、「陰徳」をたくさん積んでおれば、「幸せに」身を置くことが出来るのではないか。今の自分を静かに内省してみるのもいいのではないか。 「人間」は、多かれ少なかれ、認めたくはないかもしれないが、過去世にたくさんの罪穢を積んできている。 即ち、生まれ変わりしているが、「魂」はその生まれ変わりしている間にどんどん穢れていっている。その穢れた「魂」をきれいにしない限り決して「幸せ」が訪れてこないのではないか。 きれいにできないならば、肉体がなくなっても、「魂」は次の世に生まれ変われるので、今、そう今の自分が「積善」をすることによって、未来の自分を「幸せ」に導くことが出来るのである。 小さな、小さな事で良い「善」を積んでいこうではないか!!!
韓国の朴裕河世宗大教授が著した学術書の名誉棄損かどうかの判決が出ましたね。韓国の裁判は世論に大きく左右される「情治」であり「法治」ではないとよく言われています。とくに、それ事柄が日本となるとまた、著しく歪んだ思情になるようですね。 ただ今回の裁判所の判決文に正直、変にホッとしたということです。「表現の自由」が認められたということです。しかし難しい国ですね。 無罪判決を受けた彼女は「裁判所が合理的な判断を示してくれた。今日の判決は個人の問題ではなく、韓国社会が抱えた様々な問題を克服し、新たな社会を築き上げる転換点になると思う。」と話したようである。ムーー 韓国にも、こんな立派な人がいる。改めて隣国として、同盟国として付き合っていかねばならないと思うのが本当であろう。 法廷では、元慰安婦の女性から激しく罵られる場面もあったようである。韓国メデアも否定的に伝えてきたのが実情である。 ただ、過去の日本の政治家にも問題があったと解している。今回、このような判決が出たことだし、日韓合意している問題でまもあるので、韓国の人たちにも、もっと冷静になってもらいたいものである。 彼女が述べているように、転換点になることを願っている。
うれしいですね。日本人の横綱の誕生をどれだけ日本国民として首を長くして待っていたか。とにかくうれしいの一言。今後の活躍を心から願っている。 彼は、中学校しか出ていないそうですね。お父さんが脱サラして事業を起こしたが、苦しかったそうで、父を助けるために15歳で角界に入ったそうである。そして、ご両親に立派な家も建てて贈ったそうですね。立派な家をテレビで見ました。 今、若い関取も出てきています。ますます、稀勢の里関頑張ってください。おめでとうございました。
とうとうトランプ氏が大統領に就任しました。TTPも永久離脱ということですね。日本の進んできた道が急に幹線道路から路地裏の狭い道に迷い込んでしまった様です。 でも、以前にも書き込みましたが、アメリカを外して進めて行けばいいのではないのでしょうか。 道筋を作っていけば、他国も賛同してくれるでしょう。 私個人としては、二国間交渉で貿易の取り決めをしていく方がお互いに良いと思えるのだが。 ところで大統領就任演説の全文を読みましたが、やはり、内向きの内容でしたね。大統領のの就任演説としては、格調高いとは言えないような内容だったと思います。超大国のしかも世界の国々を引っ張って行かなければならない地位にある人ですものね。その中でも次の演説分に?が付きました。 『我々は世界の国々との友好、親善関係を求めていく。ただし、国益を最優先する権利がすべての国にあるという考えに基き、実行していく。我々の流儀を(他国に)押し付けたりはしない。むしろ模範として追従されるように、我々を輝かせよう。』と語っている。 是非そうあってほしいと願っている。