今日の報道ステーション(テレビ朝日)でもメインキャスターの古館伊知郎氏は「国際平和支援法」に関する自公の合意成立を受け、安保法制の問題点などを熱く語った。しかし、おそらく多くの人たちはしらけた気分で見ていたに違いない。
このところのテレビ朝日と報道ステーションの安部・自民党政権への屈服ぶりを目の当たりにすると、古館氏が何を言おうが、それは結局最終的には権力側の思い通りに執着するシナリオの上にあるパフォーマンスでしかない。
もちろんそれは古館氏の責任ではないかもしれない。マスコミがマス・コミュニケーションである以上、それは国家権力から存在を許されなければ存続し得ない。それは別の言い方をするならば、マスコミは瞬間的にはともかく、本質的に体制を維持する役割を果たすときだけ(それは狭い意味ではなく、広い意味で「ガス抜き」の役割も含めて)存在しうるのである。それをもうひとつ別の言い方で言うならば、マスコミが反体制的でも存立しうるのは、ただ政治革命=体制の転覆・交代の時期だけだということである。
このことを更に別の言い方で言えば、「マスコミ側の人」はマスコミからクビにならないことしか言えないと言うことである。古館氏は自分が「マスコミの側の人」であろうとする限り、絶対にクビになるような態度はとれない。逆に今回騒動になった古賀氏などは、官庁においても、マスコミにおいても、クビになることを恐れず自分の主張を貫いた「マスコミの外の人」なのである。
本来なら、マスコミは自分自身は中立でありつつ、こうした「マスコミの外の人」をコメンテーターなどとして起用し、総体としてバランスのとれた放送をするべきものだ。しかし現在のマスコミはそうした矜持を完全に失っている。
その背後にはもちろん「体制」の大きな変化がある。マスコミは体制崩壊につながるような主張はしない。やれるのは体制の内部にいる個人や潮流に対する批判までである。しかし少なくともそれがマスコミの「権力のチェック」と呼ばれる役割であり、社会的な存在意義であった。だから第二次安倍政権の発足以前、民主党政権時代やその直前の自民党政権時代には、古賀氏のようなスピーカーは排除されることはなかったし、むしろ歓迎されていた。
だが現在の安部氏のような絶対的権力者が現れてしまうと、もはや一政治家、一潮流がイコール「体制」になってしまう。そうなったときマスコミは体制側にあるものを一切批判できなくなってしまうのである。すなわちこれが独裁政権である。
だがもうひとつ指摘しておくことがある。この文章の前半で「マスコミが反体制的でも存立しうるのは、ただ政治革命=体制の転覆・交代の時期だけ」と書いた。逆に言えば、人々がマスコミを信じることが出来なくなり、マスコミが見限られてその存在意義を問われるようになったとき、それは実は体制が根底から揺るぎ始める時でもあるのだ。正直に言って、ぼくはただ体制が崩壊するということが必ずしも我々にとって良いことだとは思わない。その次に来るべき体制が社会の内部に醸成されないうちに体制が崩壊したら、大きな悲劇だろう。しかし現状はどのような結果に向かうにせよ、大きな分岐点に至ったと考えざるを得ない。
マスコミがこのまま大政翼賛化し政府のプロパガンダになっていくとしたら、良くも悪くも「戦後」は終焉する。
このところのテレビ朝日と報道ステーションの安部・自民党政権への屈服ぶりを目の当たりにすると、古館氏が何を言おうが、それは結局最終的には権力側の思い通りに執着するシナリオの上にあるパフォーマンスでしかない。
もちろんそれは古館氏の責任ではないかもしれない。マスコミがマス・コミュニケーションである以上、それは国家権力から存在を許されなければ存続し得ない。それは別の言い方をするならば、マスコミは瞬間的にはともかく、本質的に体制を維持する役割を果たすときだけ(それは狭い意味ではなく、広い意味で「ガス抜き」の役割も含めて)存在しうるのである。それをもうひとつ別の言い方で言うならば、マスコミが反体制的でも存立しうるのは、ただ政治革命=体制の転覆・交代の時期だけだということである。
このことを更に別の言い方で言えば、「マスコミ側の人」はマスコミからクビにならないことしか言えないと言うことである。古館氏は自分が「マスコミの側の人」であろうとする限り、絶対にクビになるような態度はとれない。逆に今回騒動になった古賀氏などは、官庁においても、マスコミにおいても、クビになることを恐れず自分の主張を貫いた「マスコミの外の人」なのである。
本来なら、マスコミは自分自身は中立でありつつ、こうした「マスコミの外の人」をコメンテーターなどとして起用し、総体としてバランスのとれた放送をするべきものだ。しかし現在のマスコミはそうした矜持を完全に失っている。
その背後にはもちろん「体制」の大きな変化がある。マスコミは体制崩壊につながるような主張はしない。やれるのは体制の内部にいる個人や潮流に対する批判までである。しかし少なくともそれがマスコミの「権力のチェック」と呼ばれる役割であり、社会的な存在意義であった。だから第二次安倍政権の発足以前、民主党政権時代やその直前の自民党政権時代には、古賀氏のようなスピーカーは排除されることはなかったし、むしろ歓迎されていた。
だが現在の安部氏のような絶対的権力者が現れてしまうと、もはや一政治家、一潮流がイコール「体制」になってしまう。そうなったときマスコミは体制側にあるものを一切批判できなくなってしまうのである。すなわちこれが独裁政権である。
だがもうひとつ指摘しておくことがある。この文章の前半で「マスコミが反体制的でも存立しうるのは、ただ政治革命=体制の転覆・交代の時期だけ」と書いた。逆に言えば、人々がマスコミを信じることが出来なくなり、マスコミが見限られてその存在意義を問われるようになったとき、それは実は体制が根底から揺るぎ始める時でもあるのだ。正直に言って、ぼくはただ体制が崩壊するということが必ずしも我々にとって良いことだとは思わない。その次に来るべき体制が社会の内部に醸成されないうちに体制が崩壊したら、大きな悲劇だろう。しかし現状はどのような結果に向かうにせよ、大きな分岐点に至ったと考えざるを得ない。
マスコミがこのまま大政翼賛化し政府のプロパガンダになっていくとしたら、良くも悪くも「戦後」は終焉する。