斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

20 【準高齢者 高齢者 超高齢者】

2017年01月31日 | 言葉
 鳥な人たち
 空を飛ぶことに熱中していた時期がある。少年の頃でなく大人になってから、それも還暦がカウントダウンに入った定年前の話だ。スカイスポーツの盛んな埼玉県内の荒川河川敷で、超軽量機(ウルトラライトプレーン)やスカイダイビング、モーター・パラグライダー(パワード・パラグライダー)などを目にしたのが、きっかけだった。
 キャノピーと呼ばれる化繊製の翼と、扇風機を連想させるガソリンエンジンを背負って飛ぶモーター・パラグライダーの教室に、さっそく入校する。入校2日目には独りで空を飛んだ。在職中は出張が多く、高度1万メートルのジャンボ機から見る光景に物珍しさは感じなかったが、たかだか200メートルから見た地上の光景は新鮮だった。堤防上を原付バイクで走る農夫の姿、麦畑の細い畝筋や民家の瓦模様、時には荒川を泳ぐ魚群(たぶん鯉)までもが、はっきりと見えた。操作も至って簡単。すっかり鳥になった気分で、鳥瞰(ちょうかん)という言葉がしきりに浮かぶ。紙飛行機にでも乗っている気分といった方がよいか。以後、退職直後まで5年間通ったが、この初フライトがいちばん感動的だった。
「赤とんぼの大群を見たよ! 高度は500メートルぐらいかな。あんな大群で、あんな高い場所を飛ぶものなんだね。どこへ移動して行くのかな?」
 ある秋の日、声優をしているという同年輩のAさんが、興奮冷(さ)めやらぬ顔で教えてくれた。“鳥な人たち”だから、こんなニュースに皆が夢中になる。以後飛ぶたびに赤とんぼの大群を探したが、ついに遭遇することは叶わなかった。

 気持も体も若い高齢者たち
 Aさんのほかにも、スパイラル降下の得意な塗装工のBさん。ローパス(低空飛行)が巧みでスクールの校長を冷や冷やさせていた会社役員のCさん。パラグライダーでは高度が保たれているほど安全である。皆が仕事を持ちながらスカイスポーツも楽しみ、そろって少年のような瞳の持ち主たちだった。長時間フライトの好きなDさんは60代半ば、いくら尋ねても定年前の仕事を教えてくれなかった。堅い仕事だったのかもしれない。いつもニコニコと楽しそうで、最初に親しくなったのがDさん。当時、スクールにやって来る人の大半は5、60歳代の人たちだった。
「子供も嫁に行ったり就職して独立したりで、親のテから離れた。それでウチの奴からお許しが出ましてネ。子供が在学中だと、まだ稼ぎ頭に死なれては困るから、決してお許しは出なかったでしょう。やっとお役御免、つまり『もう死んでもいいよ』ってことです!」
 Dさんの弁。他の人からも同じような話を聞いた。こういう趣味を持つから元気なのか、元気だから、こうした趣味が楽しめるのか。どちらも真実だろう。はっきりしているのは、まだまだ気持も体も若い高齢者は多い、ということ。だが同時に、病気その他の理由から、働きたくとも働けない高齢者が多いことも事実である。
 
 「高齢者」の定義はさまざま
 昭和46年施行の「高年齢者雇用安定法」は「55歳以上」を「高年齢者」と規定した。当時は、まだ55歳定年が一般的だった。目新しいところでは平成19年の「高齢者の医療の確保に関する法律」で、ここでは65歳から74歳までを「前期高齢者」、75歳以上を「後期高齢者」と分けた。このような定義で特徴的な点は、国の担当官庁が主導し、行政側の必要から言葉が決められていること。雇用や医療で国と個人の負担割合の基準にする目的などからである。お役所言葉なので硬い表現になりがち。とりわけ「後期高齢者」という言い方には批判が集中した。年齢に該当するお年寄りたちは「後期の高齢者とは、あとは死を待つだけの高齢者という意味か? なんと失礼な!」と感じたことだろう。元のように「高齢者」1本で良いではないか、と。エリート官僚たちは、頭脳が優秀でも他人(ひと)の気持を思いやることはニガテなのかもしれない。

 準高齢者、高齢者、超高齢者
 日本老年学会と日本老年医学会が、今年2017年になってから「高齢者の名称を使うのは75歳からにしては、どうか」と提言した。日本老年医学会は、文部科学省が設立を認可した団体。医師の側から「高齢者」の定義に迫った点が注目される。日本人の平均寿命が大きく伸びていることが背景となった。同時に65歳から74歳までを「準高齢者」、90歳以上を「超高齢者」と呼ぶことも提言している。
 同じ年齢層でも「前期高齢者」より「準高齢者」の方が、該当するお年寄りたちの受けは良いだろう。75歳から89歳の層の人にとっても「後期高齢者」から「後期」が取れただけで、いくらか気分が軽くなるかもしれない。「一億総活躍社会」の趣旨からも「これ以上頑張らずに完全リタイヤするか……」という気にさせる「後期高齢者」の語はふさわしくあるまい。
 といって「超高齢者」の語は、どうか。「超」は「後期」より刺激的な語だ。「高齢者を超えたのだから、そろそろ姨捨山の方へ」と促すニュアンスさえ感じさせる。90歳を超えてなお元気に働くお年寄りたちが多い事実を考えれば、あえて90歳以上に「超」を加える必要はあったのか。

 言葉のトリック
 お役所発のコトノハとはいえ、国民に与える影響は大きい。むしろ役所主導であればこそ心理的負担になり得るし、負担を除くマジックにもなり得る。コトノハのトリックである。
 日本老年医学会前理事長の大内尉義・東京虎の門病院長は、全国紙の特集記事の中で「65~74歳の元気な人たちから『高齢者』というくびきを取り除き、就労やボランティアなどで生き生きと社会参加できる世の中を作ってほしいと願った」と趣旨を述べる一方で「年金の支給年齢の引き上げなど、社会保障の切り捨てにつながると危惧する声もあった。これは我々の本意ではない。65~74歳の時期は、特に個人差が大きく、支援が必要な人もいる」とクギをさした。同感である。

 空を飛ぶお年寄りを見て「高齢者は皆元気だ」と断じるのは危険だ。オレオレ詐欺で大金を失った老婦人のニュースに「イマドキの高齢者は金持ちだ」と感心(?)するのも早合点である。個人差は大きい。行政が手を差し伸べるべきは、病気がちで低収入の高齢者たちだ。一律に年齢で区切ることに、期待するほどの意味はない。

19 【すっごく チョー 全然 &とても】

2017年01月25日 | 言葉
 午後の散歩道で
 天気の良い日の午後は出来るだけ歩くようにしている。冬真っ盛りの今なら風のない穏やかな日を選び、少しでも曇っていれば行かない。気まぐれ気ままなウオーキングだから、平均して週に2度、たまに3度がいいところ。よく行く場所は東京・多摩地区を東西に延びる玉川上水緑道だ。江戸時代初めの1653年、幕府の命を受けた玉川兄弟が急造都市江戸の飲料水用にと、現在の羽村(はむら)市・多摩川取水堰から四谷まで、43キロにわたる導水ルートを完成させた。三鷹市内では太宰治の入水自殺場所が有名だが、この辺りから西は羽村までグリーンベルト状に延びてウオーキングの名所になっている。初夏の芽吹きシーズンも美しいが、葉を落とし切った明るい裸木(はだかぎ)が透明感を演出する冬場は、なかなかのものだ。
 同好の士は多い。ウイークデイの午後だから、たいていは高齢者たち。すれ違って挨拶を交わし合う人はまれで、まるで修行僧のように黙々と歩いている。とはいえ筆者も他人の目から見れば、そんな一人に見えているかもしれない。皆それぞれに足腰の衰えを日々痛感し、血圧の改善を願い、認知症の予防にと、高齢者ならではの理由で歩く。真剣な目的や目標があるから一心不乱に見えてしまうのだろう。
 静かな小道でも、時おり賑やかな声が上がる。女子中学生や高校生たちだ。この道を通学路に使っている学校が何校かある。
「だって、ウチのお母さんはチョーうるさいよ。おまけにケチだもん!」
「うそッ! この間行った時、○○ちゃんちのお母さん、全然、やさしかったよ! おやつにケーキもご馳走してくれて。ケチじゃないよ!」
「そうよ、○○ちゃんのお母さんは、すっごく、やさしい!」
「違うよ! なんて言うのか、ソトヅラがいいのよ。ワタシには文句ばっかり! チョー厳しいンだから!」
 聞くつもりがなくても聞こえてしまう。3人は次の日曜日に遊園地へ遊びに行く計画のようで、親からもらう小遣いの相談らしい。

 強調表現の変化
 若い人は強調した表現が好きだ。「すっごく」の登場は1980年代からだろう。女子の間に男子のような荒い言葉遣いが流行り始めると「すっげえ」を使う女子も多くなった。一方で女の子らしく「すっごく」と言い換える例も目立った。「すごい、すごい!」の形で現在も継承され、賛意賛同を示す好意的な表現として受けとめられている。相手を励ます言葉だから、聞いていて心地よい「すごい!」だ。
 「チョー(超)」が出てきたのは「すっごく」の後。競泳平泳ぎの北島康介選手が2004年のアテネ五輪・男子100メートル平泳ぎで金メダルを獲得し、インタビューで「チョー気持ちいい」と叫んだ。すでに当時「チョー」は若い人の口癖だったが、金メダリストの口をついて出た率直な感想には実感がこもり、チョー新鮮に聞こえた。感動の余韻が残るなか「チョー気持ちいい」は同年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれている。
 また、この頃は短期間ながら「すっげえ」と「チョー」がドッキングして「チョーすげえ」や「チョすご」の語も流行ったように記憶する。ただし「超」には「超現実主義(シュルレアリスム)=反現実主義、非現実主義」のように、後に続く語の強調でなく、打ち消して反対の意味にしてしまうべく働くこともあるから、やっかいだ。

 ノーテンキな「全然」?
 それでも「チョー」には「限度を超えた」や「比較を絶している」といった本来の意味があるから、たとえ女子高校生が「お母さんはチョーうるさい」と言っても「お母さんは、うるさくない」というように反対の意味に取る人はいない。それに比べると「お母さんは、全然うるさい」に眉根を寄せる筆者のようなオールド世代は多い。「ぜんぜん(全然)」が否定に先立つ副詞だと説明されなくとも、聞いた途端に違和感を覚えてしまうはずだ。
 もとより女子高校生たち限られた集団で通じる言葉は隠語に近い。世間一般のルールや価値観と異なるからこそ、隠語として存在意義がある。そう考えれば「全然」は肯定型で使うからこそ新鮮味があり、仲間うちの連帯意識を強めるのに役立つのだろう。三省堂の『新明解国語辞典』は<俗に、否定的表現を伴わず「非常に」の意味にも用いられる>と、良し悪しの評価は抜きで用例を説明している。

 芥川龍之介は「とても」に違和感
 コトノハは時代とともに変わる生き物だ。今はまだ不自然な印象しかない「全然」付きの肯定文も、いずれ普通に使われる日が来るかもしれない。現代は違和感なく使われている「とても」という言葉でさえ、大正時代の頃には「全然」と同じように否定をともなう用法が正しいとされていた。
 この「とても大きい」や「とても美しい」の「とても」について、筆者の新聞社時代の同僚だった石山茂利夫さんが自著『裏読み深読み国語辞書』(草思社刊)で興味深いエピソードを紹介している。芥川龍之介は大正13年3月発行の雑誌『随筆』に「雑筆」の題で、大正になってから東京では「とても」が肯定文に使われ始めたと指摘した。違和感を覚えたらしい。「全然」と同じく「とても」は元もと否定文で使われる副詞だった。だが、そう説明されても現代人にはピンとこない。それほど「とても」と肯定文の組み合わせに慣れてしまっている。『岩波国語辞典』(第四版)は「とても」について、まず①で「どんなにしても。とうてい。『――出来ない』『――だめだ』」と否定文を例示し、次に②で「程度が大きいこと。とっても。『――いい』『――きれいだ』」と肯定文を示している。また「本来は、下に必ず直接的・間接的に打ち消しを伴った」と付け加えている。「とても」の語も大正時代には現在の「全然」と同じように、流行り出した用法が芥川の顔をしかめさせていたわけだ。

 言葉は変わる
「○○ちゃんちのお母さん、(とても)やさしかったよ!」
「ワタシには文句ばっかり! (とても)厳しいンだから!」
 平凡な言葉は、女子高校生らしい元気の良い印象を弱める。大げさに言えばコトノハの違和感こそが、ある意味、彼女たちの存在証明かもしれない。

18 【願わくは】

2017年01月20日 | 言葉
 願わくば?
 新年早々、叔母の告別式のため北関東の地方都市を訪れた。式場に隣接するS市はすでに旅立っている筆者の母の出身地で、近在には今も親戚縁者が多い。亡くなった叔母は、母の兄弟姉妹の、末弟の妻に当たる。叔母の死により母の兄弟姉妹とその連れ合いの代は、皆が天国へ旅立ったことになる。
 残された筆者たち“次の世代”の者には、叔母の死により一つの時代が過ぎた、という感慨が強かったのだろう。叔母の思い出話の端はしに、その事実が察せられた。
「私にとっては、ここがイナカでしたから……」
 いくらか感傷的になっていた筆者は小学校に入る前、母に手を引かれてS市へやって来た時の思い出を、隣に座わる同年輩の女性に話した。正午前の控え室にはサンドイッチと稲荷寿司が用意され、式の開始を待つ参列者たちが故人の思い出に話の花を咲かせていた。
「イナカ? 今日は、どちらからですか?」
「東京からです」
「ここはイナカでしょうネ。東京からみれば……」
 女性の言い方が、どこかヘンだった。S市は女性の出身地でもあるのだろう。自分の出身地を東京から来た人間に「イナカ」呼ばわりされて、プライドが傷ついたのかもしれない。窓の外には、よく晴れた冬空と東京近郊の住宅地と寸分変わらぬ光景が広がっていた。
「私にとって、というより私の死んだ母にとってのイナカ、故郷という意味です。幼い頃は夏のお盆の頃、毎年のように連れられて母の実家に来ていました。畑でスイカを採ったことや、小さな川で水遊びをしたことも覚えていますよ!」
 あわてて言い添えた。「母のイナカ」ではなく「私にとってのイナカ」と言ったのが、誤解の原因だったようだ。
「そう、昔は畑ばかりでした」
 誤解は解けた。かつてのスイカ畑は大規模な工業団地に変わり、最近のS市はアウトレットでにぎわう。都心から高速利用の客も増えているらしい。「イナカ」と言われては女性が違和感を覚えるのも当然だったに違いない。
 イナカ=田舎には「都会から離れた所」「人家が少なく田畑の多い所」のほかに「郷里、生まれ故郷」の意味がある(『岩波国語辞典』)。ちょっとした言い方の違い、文脈の違いで思わぬ誤解が生じるから、やっかいだ。そんなことが頭の隅にあったからか、式で住職さんが上げるお経の言葉が、妙に引っかかった。「願わくば」と言う言葉が頻繁に出てきたことだ。
 
 正しくは「願わくは」
 叔母の家は浄土宗で、寺の住職さんは50年配の女性だった。
「お寺さんも今は後継者難らしいですね。あとを継ぐ男性がいないので、寺の娘さんが実家の住職を継いだようです」
 筆者にとっても女性の住職というのは初めてだが、さきの待合室で従兄弟からそんな話を聞かされていたので違和感はなかった。細くとも高い声だから、お経の文句はよく聞き取れた。
 読経がテンポよく進む。仏の教えを唱えて故人の冥福を祈ることがお経の目的だから、神仏にお願いする件(くだり)が多い。そこで、お経の中に「願わくば」の語が頻繁に登場する。「願うことは」の意味だ。だが「ば」と濁るのは正しい日本語ではなく、正しくは「願わくは」で「は」は濁らない。手元の『岩波国語辞典』(第四版)は<「願わくば」は誤り>と断じている。とはいえ言葉は生き物であり、時代とともに変化する。厳密には誤りでも使う人が多くなれば、その用法が正しいことになる。『大辞林』(三省堂)は<「願ふ」のク語法に助詞「は」のついたもの。「願わくば」とも>と説明している。「願わくば」の方も現在は広く許容されていることが分かる。

 お経の「ば」と聖書の「は」
 ちなみに「ク語法」とは、動詞や形容詞の語尾に「く」を付けて「○○すること」という意味に名詞化する用法。同類には「惜しむらくは」(おしまれることは)や「すべからくは」(すべきことは)、「望むらくは」(望むことは)などがある。有名なのは平安時代末の歌人・西行法師の<願わくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月(もちづき)のころ>の歌だ。奈良・平安の昔にさかのぼる語法のうえ分かりにくさもあり、誤用の例は多数にのぼる。要するに「願わくば」は、眉を顰(しか)めて排すべき言葉だとは言い切れない。
 信頼性にも正確性にも欠ける筆者の印象によると、仏教のお経では「願わくば」と濁る場合が多く、キリスト教の聖書では「願わくは」と濁らないように思えるが、どうだろうか。漢文学者は国文学者の親戚(?)でもあるし、漢文調のお経が「ば」で翻訳文の聖書が「は」では逆転しているようで、納得しにくい。ちなみに浄土教の主要経典である「観無量寿経」の漢語文を『浄土三部経(下)』(ワイド版岩波文庫)で調べてみると、この語はすべて「願わくは」と濁らずに正しく記載されていた。

 時代で変わる語、変えては早計な語
 言葉の使い方に厳格なNHKは、放送用語として「願わくは」で統一しているようだ。言葉は時代により変わるから、どちらの語で統一するかを決めるのは微妙で難しい作業だ。よく例えにされるのが「ら抜き言葉」である。NHKは、画面の話し手が「ら抜き言葉」で喋っても同時に字幕で「ら」を入れ直して流している。丁寧な姿勢に感心させられる。
 ただ、そろそろ「ら抜き言葉」は許容されても良いのではないか、とも思える。「ら」抜きで使うときは必ず「可能」の意味になる、というのが理由だ。例えば「見られる」には「(誰かに)見られる」=受け身、「(誰にでも)見られる」=可能、「(王様も)見られる」=尊敬語、「(自然に)見られる」=自発の意味があり、それらのどれに当たるかは文脈いかんで判断しなければならない。ところが「見れる」は可能の場合に限られ、字数も「見られる」よりシンプルだ。より正確に、より簡単に表現出来るなら、使用は可とされるべきだろう。
 では「願わくば」はどうか。最近は「願いが叶(かな)うならば」の意味で、つまり仮定形の「○○ならば」や「××すれば」の「ば」と同じように使われている。「願いは」よりトーンが強い。お経の場合、意味が少し違ってしまうようにも思える。

17 【ラーメン】

2017年01月16日 | 言葉
 「日式拉麺」
 日本を代表する国民食になったラーメン。来日する中国人観光客からでさえ「代表的な日本食」の評価を得るようになった。彼らは日本で食べるラーメンを日本式ラーメン、縮めて「日式拉麺」と呼ぶ。だが、待てよ。ラーメンには「中華そば」という呼び方があり、中華料理店の代表的メニューである。ならば「日本食」でなくて「中華食」ではないのか。ラーメンの起源は中国なのか、日本にあるのか。罪のない論議ながらケンケンゴウゴウ、カンカンガクガクと、カマビスしい。
 
 そもそも「麺」の意味は?
 コトノハに関する小文だから、言葉から入りたい。悩ましいのは「麺」の字だ。麺好きの筆者も若い頃から、つまり麺という漢字を知った頃から、なぜ「麺」という字なのかと疑問を抱き続けてきた。小麦粉が材料だから左半分の偏(へん)は「麦」で良いとして、右半分の旁(つくり)が「面」であるのはなぜか。これだと平面の形状、つまり餃子の皮のようなモノを連想してしまう。ずっと後になってから「拉麺」という表記があり、ラーメンの場合は「拉致(らち)」の「拉」の字を加え、引っ張って細長く延ばしたものだと知った。
 ところが、である。「拉」の漢字には「引っ張る」のほかに「砕く」や「押しつぶす」の意味もある(大修館書店『漢語林』)。小麦粉に水を加えて練った塊を平面状に押しつぶしたものも「拉麺」だとすれば、中国では「麺」が日本で言うところの麺ではなく、餃子やワンタンの皮のような、具材を包む平べったいものを指すとも考えられる。ここに至って「漢字の国であり食の国でもある中国で、日本語の麺のように1字だけで表記する漢字がないのは、不自然ではないか。中国にラーメンのような麺料理は存在したのか?」と思うようになった。同じような疑問を持ち続けてきた人も多いのではないか。
 疑問が解けたのは、ずっと後になってからのこと。中国・後漢時代の西暦100年頃に成立したと伝えられる漢字辞典『説文解字(せつもんかいじ)』によると、「麺」の正字である「麪」は小麦粉を指したという。そこで日本の漢和辞典である『漢語林』を調べると、「麪」の旁の「丏(めん)」は「連綿としてつながる」という場合の「綿」に通じ、ゆえに「麪」には「練って糸状に連なる小麦粉」という意味もあるという。「連綿」は木綿糸のように長く続くこと、つまり細長い麺の意味に重なる。疑問氷解。正字の「麪」が簡易体の「麺」にならなければ、紛らわしさや誤解は生じなかったかもしれない。中国・宋の時代には広く「麪(ミエン)」の字が使われ、街には麺料理店が多かったようだ。
 現代の中国でも「麺」は小麦粉を指し、小麦粉料理全般の意味もある。ラーメンの表記は「拉麺」より「麺条(ミンティアオ)」とされることが多く、餃子の皮のような平面的な形のものは「麺包(ミェンパオ)」と呼ばれ区別されている。「条」は「細い筋になって見えるもの」の意味。やはり「拉麺」の字には中国でも違和感を覚える人が多いのだろうか。

 ラーメンの条件
 ラーメンのルーツに諸説が生じる背景に、ラーメンの定義が明確でないことが挙げられるかもしれない。①スープ麺であること②かん水(鹹水、梘水)麺であること――が最低限の条件だろう。スープ麺とは、麺がスープの器に浸った状態の麺類。中国では「湯麺(タンミエン)」と呼ばれる。かん水は、小麦粉に混ぜて練り、麺に独特のコシと歯ごたえを出すアルカリ性塩水溶液のことで、中華麺が薄黄色なのは、かん水を加えているため。うどんにも「かけうどん」のようにスープ麺の伝統があるが、かん水処理がされていないからラーメンのカテゴリーには入らない。
 文化人類学者の石毛直道さんはネット上で公開している『石毛直道食文化アーカイブス』で、世界の製麺技術を5系列に分け、現在のラーメンに連なるのは新疆ウイグル自治区やモンゴルに残る「手延べラーメン系列」だと紹介している。中国辺境の地が麺の発祥地である理由は、自然条件の厳しさゆえに米作が不可能で、そのぶん麦作が盛んだったから。かん水も天然のソーダ水として中国北部で豊富に産出する。この製法の麺が山東省や山西省、陜西省に伝わった。現在、中国東北部のラーメンは麺が太くてスープは濃い醤油ベース、主食代わりなのでボリュームがあり、逆に南部では麺が細くて塩味スープ、おかず代わりなので少量であるという。

 日本のラーメン文化の発祥は横浜中華街と浅草
 ラーメンの発祥地がウイグル民族やモンゴル民族の住む中国辺境であることは分かった。一方、日本のラーメン発祥地は横浜中華街と浅草である。これより先に水戸黄門が食べたという説があるが、その後の水戸や江戸ではラーメンが根づかなかったから発祥の地とは言い難い。
 小菅桂子さんの著『にっぽんラーメン物語』(駸々堂出版)によれば、横浜中華街でラーメンが人気を博し始めたのは明治30年代後半から40年代初めにかけてのこと。明治43年開業の浅草「来々軒」も「支那そば」とワンタンを目玉メニューに、当時東京一の繁華街だった浅草六区の客たちに広まった。ちなみに天津丼は来々軒が発祥の創作料理というから、天津ラーメンも日本で考案された可能性が高い。
 ラーメンが「支那そば」と愛称された理由は、具材が中華料理の焼豚やシナチク(メンマ)だったため。日本仕込みの醤油やナルトの使用など“日本流”にアレンジされてはいたが、「支那ふう」「中華ふう」は客を引き付けるキャッチフレーズとして効果的だった。ある意味でコトノハのトリックだろう。名称は「南京そば」から「支那そば」、「中華そば」、「ラーメン」の順に変遷した。岡田哲さんは『ラーメンの誕生』(ちくま新書)の中で、昭和25年刊の『西洋料理と中華料理』(主婦と生活社)で使われたのが「ラーメン」という語の初見であると説明している。
 
 我がラーメン
 終戦の余燼(よじん)が消え残る昭和20年代の終わり、1杯30円のラーメンは醤油味オンリーながら、子供たちにとって年に1、2度しか食べられない外食のご馳走だった。高度経済成長期を経て子供の外食人気ナンバーワンは「お子さまランチ」などのハンバーグ系に変わったが、当時を知る団塊世代にはラーメンに特別の思い入れのようなものがある。昭和33年に即席麺が登場し、40年代になると東京で味噌ラーメンがブームになった。現在はかくの如くラーメンの種類と特徴は多様さを極める。現在ほど、この料理が歓迎されている時代はなかっただろう。発祥の地がどこであれ、ラーメン文化が花開いた国は日本である。
 蛇足ながら皆さんは、どのラーメンが好きだろうか。辛味好みの筆者は坦々麺のような濃い味系も注文するが、いちばん好きなのは、あっさり系の醤油ラーメンである。麺のゆで方からスープの仕上がり具合まで、濃い味系では隠れて見えにくい店の実力が、あっさり系だとよく分かる。