斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

34 【続・内モンゴル】

2017年10月29日 | 言葉

 母が受けた侮辱
 漢人が内モンゴル自治区の実権を握るようになると、牧草地を持つモンゴル人は「搾取階級の地主」、すなわちブルジョワジーと見なされた。しかし牧畜の民モンゴル人にとって草原は「天からさずかった」いわば共有地であるうえ、もともと草原に耕作地はなく、小作農といった「搾取」対象も存在しない。「搾取階級の地主」は言い掛かりなのだ。
 さらに漢人は水利のよい農耕地を欲しがった。草原と砂漠の地に水場は少なく、牧畜にとっても貴重である。渇水が深刻だった1970年6月、楊海英氏(『墓標なき草原』の著者、現・静岡大教授)の生家へ大勢の漢人農民たちがやって来て、井戸のあたりで爆竹を鳴らした。羊たちは怖がって近付かず、水を飲もうとしない。
「家畜に罪はない。水を飲ましてもよいのではないか……」
 楊氏の祖母は抗議したが、漢人たちは受け付けない。やがて若い漢人が井戸に小便をし、水汲みに使う桶を砂に埋めた。それを見て祖母が激怒した。ユーラシアの乾燥地帯には昔から「水を汚す者は死刑」という慣習法があったほどだ。
「モンゴル人にとって水は神聖だ! 他人の家畜でも見知らぬ旅人でも、喉が渇いていれば喜んで水を飲ますものだ。井戸を汚すモンゴル人はいない。昔、匪賊(ひぞく)の連中も我が家を何度か襲ったが、彼らでさえ井戸は汚さなかった!」
 体力に自信のある祖母は言って漢人の頭を叩き、逮捕された。「革命群衆」を匪賊に例えたことが罪とされた。漢人たちは、祖母の身代わりに楊氏の母を前へ引きずり出すと、服を脱がし始めた。祖母も楊氏ら子供たちも押さえ付けられ、母親の侮辱される様子を見せられた。

 内モンゴルの近代史
 清朝時代のモンゴル人は満州人と同盟し、恵まれた統治をうけていた。1911年に清朝が倒れると、ロシア帝国の支援を得たモンゴル民族が外モンゴル(現在のモンゴル国)に独立国(ボグド・ハーン政権)を樹立する。ところが翌1912年に孫文がモンゴルやチベット、ウイグル地域を含めた「中華民国」の建国を宣言、以後もモンゴルの支配者は革命後のソ連、満州国を建国した日本と目まぐるしく変わった。1925年、モンゴル国の実権を掌握するモンゴル人民革命党との連携を目指して内モンゴル人民革命党が結成され(1946年活動停止するが、文革時はモンゴル人虐殺の口実となる)、独自の軍隊を持つに至る。しかし1945年2月、ソ連とアメリカ、イギリスの3国首脳が会したヤルタ会談で、外モンゴルを独立国とし、内モンゴルを中華民国の統治下に置くことが、モンゴル人民の意向を無視して決められた。さらに同年8月の中ソ友好同盟条約でも同様のモンゴル分割が確認された。
 ポイントは、当初のソ連はモンゴル民族の独立に支援のポーズを示してきたことだ。1929年からの中ソ紛争や1969年以降の中ソ国境紛争など、中ソが対立するたびに中国側は、モンゴル民族がソ連軍と連合して南下・侵攻してくるのではないかと警戒した。文化大革命下の混乱は、そうしたモンゴル人の脅威を除く戦略上の好機だった。虐殺の罪状とした「モンゴル民族主義者」や「ソ連と結託する修正主義者」の文言には、中国側の恐怖感も色濃くにじみ出ていた。
 ちなみにソ連の“裏切り”の理由は、内外モンゴルの統一が、ソ連領内ブリヤート・モンゴル人の統合機運に及びかねなかったため。ソ連にとっても往古を連想させる「統一大モンゴル国」の出現は、極東地域の不安定要素となる可能性があった。

 中国寄りのモンゴル人指導者から殺し始めた
 文化大革命の最初期に失脚したウラーンフーは1906年生まれ、内モンゴル西部出身。コミンテルンの指示でソ連に留学、その後、中国共産党の聖地・延安に入った。中華人民共和国成立後は内モンゴル自治区人民政府主席を始め、自治区の党と軍のトップを失脚まで務めていた。当然、自治区内の高官はウラーンフーの息のかかった者ばかりだったが、漢人の高官は断罪されず、モンゴル人高官ばかりが「ウラーンフーに追随するモンゴル民族主義者」として粛清の対象となった。内モンゴル自治区政府副主席だったハーフンガは「内モンゴル人民革命党のボス」とされ、長時間のリンチを受けたすえに死んだ。自治区公安庁長のビリクバートル、副庁長の雲世英、同庁政治部のテンヘ、自治区民政庁長のウリト、自治政府副秘書長のガンプセンゲらも、逮捕のうえ拷問のリンチの後で粛清(殺害)された。
 楊海英・静岡大教授の著『墓標なき草原(上)』によれば、実際に殺害に手を下したのは人民解放軍の漢人兵士の場合が多かったという。当時、内モンゴル東区の騎兵第5師団には約200名のモンゴル人将校(士官)がいたが、1972年までに、ほぼ全員が粛清されていた。この時点では「モンゴル民族主義者」か否かではなく、モンゴル人全員が粛清の対象とされた。たとえばフフホト市鉄道局には446人のモンゴル人職員がいたが、うち444が「内モンゴル人民革命党員」としてリンチを受け、13人が殺されて347人が重傷を負った。女子職員のうち5人がリンチされて流産している。夫婦で逮捕された後、夫人の体内から4か月の胎児を鉄線で掻き出して殺害した例もあった。
「どうせ、内モンゴル人民革命党員が生まれてくる。早いうちに始末しよう!」
 漢人たちは口々に、そう言い合っていた。女性に対しては輪姦や性器破壊、男性の場合は睾丸破壊など、漢人たちの攻撃対象はなぜか性行為と性器に集中していた。以下は文化大革命に造反派として身を投じていたモンゴル人、フレルバートル氏の証言。
「中国人農民たちは様々な刑を考え出して、モンゴル人たちを苦しめていた。ナチスよりもひどい。真っ赤に燃えたストーブの上で焼くとか、生きた人間をカマドの中に入れるとか、それらはすべて革命行動だと評価されていました」
 次は内モンゴル自治区の著名な詩人で民俗学者、ハスビリクト氏の証言だ。
「1949年以前のモンゴル人たちは草原で静かに、とても幸せに暮らしていました。中国共産党はモンゴル人を解放したと、よく言いますが、誰から、どんな圧制から解放したと言うのですか。解放以前に比べて、どんな良いところをもたらしたと言えますか。虐殺以外に何をくれたと言うのですか。モンゴル民族がこうむった被害は歴史的にも空前絶後です」
「中国共産党は犯した罪や間違いについて人民に謝罪していないし、きちんと説明もしていません。その点、恐怖政治はまだ続いている、ということです」
 
 「歴史認識」とは何か
 学生の頃に読んだエドガー・スノウ著の『中国の赤い星』(筑摩叢書)が、今も筆者の本棚の奥にある。「人民から針1本、糸1筋盗んではならない。婦女には暴行しない」は、人民解放軍の規律を語った有名なコトバだ。この書により現代中国に対して好感を抱くようになった日本人は少なくないだろう。しかし楊海英氏の著作が伝えるのは、内モンゴルのモンゴル民族から残虐かつ貪欲に収奪し続けた中国共産党の姿である。弱い立場の少数民族から先祖伝来の地を奪うことが彼らの「核心的利益」だった。「歴史」とは何か。不都合な歴史を封印する国が、声高に叫ぶ「歴史認識」とは何だろうか。
 

33 【内モンゴル】

2017年10月17日 | 言葉

 はるかなる内モンゴル
 多くの日本人はモンゴル(モンゴル国、旧称・モンゴル人民共和国)という大草原の国に親近感を抱いているかもしれない。人類学では日本人のルーツを蒙古方面とする学説が有力であるし、日本人とモンゴル人とは顔つきが似ている。大相撲で白鵬や日馬富士を筆頭にモンゴル出身の人気力士たちが活躍していることも親近感の理由だろうか。
 これに対して「内モンゴル」と聞いて、すぐイメージがわく日本人は少ないに違いない。映画好きならサイフーとマイリースの内モンゴル出身夫妻が共同監督した作品『天上草原』(Heavenly Grassland、2002年)を思い浮かべるかもしれない。正確には中華人民共和国・内モンゴル自治区(南モンゴル自治区)、つまり中国の一地域である。名の通りモンゴル国のすぐ南に隣接し、中華人民共和国(中国)でも最北に位置する。中国側の統計が正確なら人口2千4百万人弱、ほぼ8割が漢人(漢民族)で、モンゴル人(モンゴル民族)は4百万人強と2割に満たない。漢民族の比率が多い理由は、中国共産党の一貫した移民政策の結果で、ここに内モンゴルの悲劇があるのだが、詳しくはのちに述べる。ちなみに内モンゴルのすぐ北の独立国・モンゴル国の人口は3百万人強だから、実は中国・内モンゴルに住むモンゴル人の方が多いことになる。

 民族分断の悲劇
 分断国家という言葉から日本人が想像するのは南北ベトナムや東西ドイツ、南北朝鮮の3つのケースだろう。しかしモンゴルの事情は大いに異なる。3つのケースでは分断された双方が国家として存続したため、民族の独自性を保つことが出来た。だがモンゴルの場合は一方がモンゴル国という独立国家で、他方は中国の一部なのである。問題は後者の内モンゴルだ。漢民族が圧倒的な中国にあっては、それでなくとも少数派モンゴル人の影は薄れがち。内モンゴル自治区内では、さらに国の同化政策により漢人を大量に移民させ、両民族の人口比を逆転させたうえで、漢人を「自治区」の共産党幹部や高官に就けた。少数民族を多数民族から保護することが「自治区」本来のあるべき姿なのに、中国と中国共産党のとって来た政策は真逆だ。いかにして内モンゴルの地をモンゴル民族から奪い取るか――が、共産党政権の一貫した対異民族戦略だった。ひそかな狙いは豊富に眠る地下資源の可能性である。

 漢民族の大量移民による異民族同化政策は、中国・チベット自治区におけるチベット民族に対する手法と、まったく同じ。現在も独立への動きが激しいチベットについては改めて触れるが、事態を抑え込もうとする中国当局の、チベット問題に関する言い分は「中国がチベット民族を仏教の呪縛から解放した。宗教はアヘンと同じ」だ。国家とは何か、なぜ国家という形の枠組みが必要か――は、政治学の教科書を持ち出さずとも皆が知るところだが、中国にはそうした常識が通じない。19世紀のマルクス主義的宗教観が大手を振るい、多様な価値観を認めようとしない。特に諸民族の自主性を矮小化し、あるいは否定する。それならそれでチベットを他国として手放せばよいものを、なおも自国領土として留めおこうとする貪欲さは、悪しき社会帝国主義の見本と言える。チベット人を「呪縛」しているのは、宗教でなく漢民族という存在であり、チベット人が心から願うのは漢民族からの「解放」の方である。

 もう一つの文化大革命・内モンゴル人大量虐殺
 現在では記憶も薄れがちな中国の文化大革命。当時の日本の知識層の中には「造反有理」のスローガンとともに、腐敗した「実権派」一掃のキャンペーンとして好意的に受け止める人が多かった。終わってみれば紅衛兵という少年少女を巻き込んでの権力闘争以外の何ものでもなかったわけだが、文化大革命下の内モンゴル自治区でモンゴル人が大量虐殺されていた事実を、一般の日本人はほとんど知らない。日本のメディアは報道しなかったし、日本に数多いはずの中国研究者たちも実態をリポートしなかった。
 筆者のような門外漢にまで広く知られるようになるのは、内モンゴル自治区オルドス生まれの静岡大学教授、楊海英(よう・かいえい、モンゴル名はオーノス・チョクト)氏が、2009年に岩波書店から『墓標なき草原(上)(下)――内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』を出してからだ。翌2010年に同書が司馬遼太郎賞を受賞して話題になり、追って刊行された『続・墓標なき草原』(岩波書店、2011年)や『チベットに舞う日本刀――モンゴル騎兵の現代史』(文芸春秋、2014年)でも、モンゴル民族受難の歴史が明らかにされた。
 ご存知のように文化大革命は1966年5月16日付の「中国共産党中央委員会通知」いわゆる「五・一六通知」が、中国共産党中央政治局拡大会議で採択されたことにより始まる。この時、同じ北京市内で中国共産党華北局会議も開催され、内モンゴル自治区成立以来、自治区の党と人民政府、軍のトップにあったモンゴル人指導者ウラーンフー(雲澤)が、劉少奇と鄧小平らに吊るし上げられて失脚した。楊氏によれば、この時に15ページの公文書で明らかにされたウラーンフーの罪状は①1955年の四川省チベット民族の反乱鎮圧に際して「少数民族と戦うのは下策だ」と主張した②内モンゴルの牧畜地域で搾取階級の家畜を再分配しなかった③モンゴル人民共和国の修正主義者たちと呼応するため、モンゴル人指導者が交通事故で入院すると単独で見舞いに行き、へつらった――などだったという。
 ちなみに①のチベット反乱鎮圧では、中国伝統の「夷を以って夷を征す」方針が実行され、もっぱら内モンゴル兵に出兵命令が下された。ところが兵を送り出す立場のウラーンフーは、むしろ同じ少数民族のチベット族に同情を寄せていた。②についてもモンゴル人の生業である牧畜では一定頭数以上の家畜が欠かせず、所有は「搾取階級」の裏付けとはならない。農耕民族の漢人たちは、その点を理解しようとしなかった。

 ウラーンフー失脚に端を発したジェノサイド(大量虐殺)は、内モンゴル自治区のモンゴル人幹部から一般モンゴル人に及び、犠牲者は10万人とも30万人とも言われる。モンゴル人たちの間の民族主義的傾向が標的だったが、民族主義とは何の関係もない7歳の男子までもが殺された。次々に拷問を受け、男は焼けた鉄棒を肛門に入れられ、頭に釘を打ち込まれた。女も輪姦されたうえで陰部に赤く焼けた鉄棒を指し込まれた。ナチスドイツを含め、かくも残虐な大量虐殺の例は歴史上にない。次回【続・内モンゴル】では、虐殺の詳細と背景について触れたい。