斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

6 【Take my hand.take my whole life too.】

2016年10月28日 | 言葉
 魅力的な原詞の世界
 若い頃、神田の古本屋街に出掛けてはジャズやポップスの英語詞に関する本を探して歩いた。英語詞に興味を覚えた理由は、日本とアメリカとの歌詞の作り方の違いだった。アメリカの歌詞は具体的でシンプル。韻を踏むこともあるが、レトリック(修辞)といえばそれぐらいで、日本の歌詞のように言葉を飾ることがない。もともと英語はシンプルな言語で、1つの事象を幾通りにも言い分ける日本語のような繊細さには欠ける。それでいてジャズやポップスの英語詞は情感豊かに、かつ雄弁に語りかけて来るものが多い。なぜだろうかと考えた。

 テネシー・ワルツ
 日本人にもよく知られた曲に『テネシー・ワルツ』がある。<I was walzing(dancing) with my darling>から<My friend stole my sweet-heart from me>までの前半は、友人に恋人を奪われた経緯を物語ふうに簡潔に綴っている。後半の<I remember the night and the Tennessee Waltz>以下は、前半のダンスパーティーの夜を思い出しつつ悔いる場面。やはり飾り気のない素朴な言葉ばかりだが、恋人を友人に奪われた夜の出来事が映画のワンシーンのように生き生きと描かれ、聴く人の心に残るから不思議である。
 ちなみに江利チエミさんは後半から<去りにし夢 あのテネシー・ワルツ……>と、和訳した歌詞も歌っていた。アメリカなら幼児さえ理解できそうな<I remember the night and……>のフレーズと、文語調でいかにも日本語詞らしい<去りにし夢……>は対照的だ。著作権法の制限があるので長くは引用できないが、訳詞は原詞に比べると美文調で抽象的。どちらの良し悪し以前の問題として、日本語と英語は本質的に違う。大げさに言えば言語が文化や国民性に及ぼした好例であるようにも思える。
 ともかくもシンプルな表現に、かえって想像力は掻(か)き立てられるから楽しい。前半の出来事と後半の回顧場面との<I=わたし>の年齢に、想像をめぐらせてみた。前半は二十代、でなくとも若い頃だろう。問題はテネシー・ワルツの曲を懐かしむ後半である。恋人と別れて5年後のことか、10年後のことか。50年後、60年後を想像してみたら、どうだろう。70歳、80歳のご老人が「あの夜、恋人を友人に紹介しなければ、私の人生は違うものになっていたはず」と回顧する場面の方が、しみじみとした興趣がわく。

 Take my hand.take my whole life too.
 さて、この原詞を見て曲名を言い当てられる人は、結構多いかもしれない。それほど、よく知られたヒット曲だ。エルビス・プレスリーのほか多くの歌手が歌った『好きにならずにいられない(Can‘t Help Falling In Love)』。プレスリー主演の映画『ブルー・ハワイ』(1961年公開)の主題歌だった。そのうちの1フレーズが<Take my hand.take my whole life too.>である。
 プレスリーの歌らしく情熱的に、真摯に女性に迫る言葉が続くが、やはり英語詞らしく言葉はシンプルで具体的。ただ、積極的、能動的な全体のトーンに反して、このフレーズだけが消極的、受動的なので違和感を抱いた。直訳すれば<わたしの手を取って 私の人生も全部そっくり掴(つか)み取って>。激しく迫っていた男が、一転して受け身になる印象だ。「私の手を取って」では母親にすがる幼児のイメージに重なる。
 最初は<take>に「取る」や「獲得する」「受け容れる」以外の意味があるのかと考えて辞書を調べたが、他に意味はない。「take one‘s hand」も、特別の意味を持つ熟語ではないようだ。そんな時、パティ・ペイジが歌う『好きにならずにいられない』を聴いて、妙に納得した気持になった。

 女性の側からの<take my whole life too.>?
 今の時代、いや昔だって同じだろうが女性の側から男性に迫っても不自然ではない。ただ、それなりに頑張らないと、なかなか女性では強く迫れないかもしれない。いちばん大切な部分で語調が少しだけ弱まる瞬間があっても不思議ではあるまい。プロポーズの瞬間や言葉などは、そんなケースだろう。男性なら「ここぞ」とばかりに力を入れるべき部分でも、女性では少しだけ声が小さくなりそうだ。パティ・ペイジが<Take my hand.take my whole life too.>と歌うハスキーボイスを聴いて、妙に納得した気分になったのは、そのような理由からだった。
 それにしても、と思う。シンプルで飾りのない言葉だが、表現しているものは豊かで深い。最初の<Take my hand.>なら男性も気軽に応じてくれるだろう。しかし次の<take my whole life too.>となると「気軽に」というわけには行かない。ところが歌い手は<my hand>も<my whole life>も、まるで「同じ次元のこと」と言わんばかりに、するりと続けるのである。
 曲を知っているなら、このフレーズの部分を軽く口ずさんでみて欲しい。<Take>、<my>、<hand.>とゆっくり歯切れよく歌った直後に、間髪を入れず<take my whole life too.>と畳み掛ける。このスピード感について行けず、言われた側は考える暇もなく<Yes OK!>と返答してしまうことだろう。この点は男性歌手が歌っても女性歌手が歌っても同じだ。言葉で飾らず、平易な言葉だけでも、よく出来た英語詞は実に表現力豊かなのである。

 良い詞は日本の歌にも
 こう書いてくると、筆者がいかにも洋モノかぶれという印象を抱かれるかもしれない。そんなことはない。英語詞に関して論じた文にあまりお目にかかった記憶がないので、コトノハ欄で取り上げてみただけだ。阿久悠氏や、さだまさし氏ら、飾らない言葉で情景や心象を生き生きと伝える作詞作品は国内にも多い。
<ソーダ水の中を 貨物船が通る……>
 なかでもこのフレーズを耳にした時には驚嘆した。ユーミンこと荒井由実(松任谷由実)氏の『海を見ていた午後』。海を見下ろす高台のレストラン。まるでソーダ水の中を横切るように貨物船が沖を行く――。情景を拾い上げる感覚の素晴らしさも、このような情景を失恋歌に織り込む感性も、従来の歌にはなかった。言葉は飾らず、やはりシンプルである。

5 【中華思想と覇権主義】

2016年10月23日 | 言葉
 昔は反覇権主義の国
 ひと昔前、いや、ふた昔前の話になるだろうか。かつての中国は「反覇権主義」を標榜する国だった。若い人にはなじみの薄い語かもしれないが、中国の唱えていた「反覇権」とは、アメリカなどの大国が軍事力を背景に世界秩序を決めてしまうことに反対する、というもの。米ソ2大勢力圏に属さないアジア・アフリカ諸国は第三世界と呼ばれ、そのリーダーシップを発揮しようと中国が「反覇権」を唱えたのである。
 そして現在、中国指導部が、この言葉を口にすることはない。「太平洋は広い。貴国と(太平洋の権益を)二分しようではないか」とアメリカに持ち掛ける一方、東・南沙諸島ではベトナムやフィリピンの領海を軍事力で侵している。覇権主義そのものへと豹変した中国を、当時、誰が予想し得ただろうか。

 中国の辞典にない「中華思想」の項目
 中華思想とは、東西南北の四囲に東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)、南蛮(なんばん)といった「化外(けがい)の民」がいて、世界の中心は漢民族が暮らす中原(ちゅうげん)の地とする捉え方だ。「化外の民」たる日本人の1人としては、この4文字に傲岸不遜な大国主義を感じざるを得ない。
 ところが意外なことに、元来中国ではなじみの薄い言葉だという。中国文学者の竹内実氏によれば、中国の簡便な百科事典である『辞海』(上海辞書出版社刊)には「中華思想」の項目がない(『新版中国の思想』、NHKブックス)。そのかわり「中華思想」に相当するものとして「華夏(かか)」の項目がある。竹内氏が論じているのは1989年版の『辞海』だが、資料としての古さや編集ミスが理由ではなく、もともと中国人は「中華思想」より「華夏」の語に親しみを覚えるためらしい。現に国名に使われている「中華」より身近に思うというのは理解しにくいが、孫文が当時聞き慣れない「中華」の語を使って「中華民国」としたのは1912年のことだから、4千年の歴史の方が中国国民にとって重みも親しみもある、ということかもしれない。

 もともとは故郷賛美
 「華夏」の「夏」は中国最初の漢民族王朝の名。紀元前2070年頃から約470年にわたり黄河中下流域の、中原と呼ばれる穀倉地帯に栄えた。長く伝説上の国家とされてきたが、近年、河南省二里頭村で二里頭遺跡が発掘調査され、王朝の実在が確認された。
 中華思想の語には「華夷思想」の同義語もある。字面(じずら)からも中華思想に近い言葉であることは分かる。一方、「華夏」は文字通り「華やかな夏王朝」を意味するが、「夏」自体にも「大きい、盛ん」「中国で自国を称する語、中華」の意味がある(『新漢語林』、大修館書店刊)。つまり「華」と「夏」は同義。注意すべきは、自分たち漢民族の国や都を称賛する語であって、「夷」を蔑(さげす)む意味がない、あるいは希薄である点だ。しかし蔑まずとも漢民族の称賛は「何か」と比較するからであり、結果的に「何か」を低く見ることになる。それでも「華夏」は、その範囲にとどまる中華思想であった。
 たとえば「日本は美しい」と言う。他国と比較するつもりはなくても、他の国は日本ほど美しくない、いう意味を言外に含んでしまう。日本武尊の「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる 倭しうるはし」という望郷の思いからは、東征の困難さと東国の地に懐(いだ)いた違和感が感じ取れる。苦しい経験のぶんだけ「倭しうるわし」という望郷の念は強くなったはずだ。夏王朝の兵士たちにしても、寒冷の荒野で精強な北方匈奴と戦い、疲れ果てて緑濃い中原の地へ戻れば、「華夏」は美しいと思うに違いない。「華夏」の言葉それ自体は誰もが心に懐(いだ)くはずの、自国や古里へ寄せる感情の発露であった。

 時代で変わる言葉の意味合い
 このような思いも平和の時代には穏やかな感情のうちに治まる。ところが軋轢(あつれき)の時代には、他国を比べ謗(そし)る要素が強くなる。言葉が変容するのである。匈奴防衛策として万里の長城を築いた秦王朝の時代、当然ながら北方民族への憎しみは強くなった。漢王朝を経て、いわゆる五胡十六国(4―5世紀前半)の時代には、侵入して国をうち立てた北方民族との間に混血が進み、漢民族と夷狄を平等とみる「夷華同一思想」が生まれた。唐の太宗は北方民族の突厥(とっけつ)を破ると、みずからハーンの地位に就いて北方の王を兼ねた。征服してしまえば、その地の民を侮蔑し続けることに意味はなくなる。
 ところが宋王朝(南北で10―13世紀)の時代、北方異民族の勢いが再び盛り返す。北方民族を統制できなくなるばかりか、毎年のように多額の贈与金を支払う立場に追い込まれた。過去は漢人王朝の側が四夷の民に朝貢させていたのだから、立場の逆転である。屈辱であり、腹立たしい事態。このため宋代には「華夷思想」が再燃した。司馬光が宋代に編纂した歴史書『資治通鑑(しじつがん)』の内容に、その影響を指摘する研究者もいる。
 ちなみに、これら「北狄」に対する変化と、日本など「東夷」へのまなざしとは異なる。
 <個人的利益だけに関心をもち、礼儀とか道義とかを知らない。若者たちがうまいものを食べ、老人たちはその残り物を食べた……>(『史記列伝』のうち「匈奴列伝」、筑摩書房)。敬老の念が薄い「北狄」には手厳しい。
 <『礼記』王制篇に「東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、君子の国や不死の国があるとさえ言われる。(中略)そこで孔子は居住しようと望んだ>(『東アジア民族史1正史東夷伝』から「後漢書東夷伝」、平凡社東洋文庫)。「東夷」は道理と君子の国、孔子さえも「住みたい」と願った国だと手放しの褒(ほ)め方だ。

 これからの「中華思想」
 どの国、どの時代でも民族意識は、危機に直面した民族がみずからを鼓舞しようとして高め、また高まるものだ。孫文が清朝を打倒して中華民国を建国する際に「中華」の2字を使った理由は、危機に際して民族意識を国民に覚醒させ、高揚させる意図からであった。そこには宋の漢人たちに通じる、孫文の思いが感じ取れる。
 このように歴史を振り返りつつ、現在の中国を歴史という鏡に映せば、どんな姿が見えてくるか。かつて排した「覇権主義」に乗り換え、宋王朝時代のような「中華思想」が加われば、とんでもない危険国家になるだろう。成長著しい現在の中国は、世界の列強の一員に加わらんと力んだ、かつての日本の姿に似ている。

4  【春水満四田】

2016年10月21日 | 言葉
 記者駆け出しの頃
 新聞記者になって4年目の春、新潟県南魚沼郡六日町(現・南魚沼市)の通信部へ赴任した。1人で一定エリアを受け持つのが通信部記者で、警察で言えば「駐在さん」のようなもの。昭和50年5月から56年5月まで通信部記者としては異例に長い6年間、この地に勤務した。
 管内だけで当時50か所のスキー場がある名だたる豪雪地にして、魚沼産コシヒカリの産地。他には特徴のない過疎地だが、赴任の翌年、がぜん世間の注目を浴びることになった。7月27日、この地を選挙区とする前首相、田中角栄氏がロッキード事件で逮捕され、12月に“ロッキード総選挙”が実施されたからだ。大票田の長岡市や出身地の刈羽郡以上に、魚沼地方は後援会「越山会」の金城湯池(きんじょうとうち)とされ、この地発のニュースが多かった。

 驚きの「越山会選挙」
 選挙で田中氏は16万8千余票を取って圧勝した。逆風のなかフタを開けてみれば2位に11万票以上の差をつけていた。世間は驚いたが、魚沼の支持者たちは「ワシらのセンセイなら当然だ」と眉も動かさなかった。
 越山会の強さの秘密は、老人たちの話に耳を傾ければ、すぐに分かる。会員と支部役員、地元担当秘書間の連絡がふだんから密で、どの家の長男が嫁とりに苦労しているとか、二男が就職先を探しているといった情報が、すぐ秘書の耳に入る。会員たちがバス旅行を兼ねて目白の御大邸を訪れると、御大みずから寄って来て「アニ(息子のこと)の嫁とり、○○(秘書の名)に言っておいたから、安心していていいゾ」と声を掛ける。世評通りのコンピュータ付き何とかで、会員たちの心配ごとを事細かに覚えていた。ここまで気配りされて心酔しない会員はいない。
 選挙とは無関係の時期にこまめに面倒を見ているから、選挙前後にあわてて実弾(現金)をカマす、ブザマな選挙運動はやらない。「あそこの人は本当に選挙違反をやらンなあ」。当時、六日町署の刑事課長サンが、そう言って嘆いて(?)いた。

  「春水満四田」の扁額
 田中氏は書も好きだったようで、「越山 田中角栄」の署名と落款付きの扁額を、結構あちこちの会員宅で見かけた。書の良し悪しは分からなかったが、書かれた5文字は印象に残った。
「はるみず、まんよつだ、ですか?」
「違うよ、記者さん。しゅんすい、しでんにみつ、と読むンだ」
「へえー、どういう意味ですか?」
「ああいう意味さ!」
 老人が指差した先に、水を引き終えたばかりの水田が、さっぱりと、せいせいとした感じで広がっていた。5つの文字が印象深かった理由は、あとは田植えを待つばかりに水をたたえた水田が放つ美しさに、ハッとさせられたからだ。
 「春水満四田」が陶淵明の「春水満四沢」から採られたと知るのは六日町を離れた後のこと。しゅんすいしたくにみつ。「沢」の1字を「田」に変えただけ。陶淵明の元の詩からは中国山水画の幽遠な山里の美を連想するが、田中氏の「満四田」は土の匂いのする美意識や生活感、農民たちの喜びや哀感までも伝えているような気がした。
<春水満四沢(春水 四沢に満ち) 夏雲多奇峰(夏雲 奇峰多し) 秋月揚明暉(秋月 明暉を揚げ) 冬嶺秀孤松(冬嶺 孤松秀ず)>
  ちなみに、この五言絶句は陶淵明でなく東晋時代の画家、顧愷之の作とする説もあるようだ。「四沢」の「四」は「四方一帯」という意味で、春の雪解け水が山深い渓谷の隅々にまで満ちみちる情景である。「沢」を「田」とでも変えなければ、人間の臭いが一切しない自然情景のみの写生詩であり、筆者も陶淵明の作ではないように思う。

  雪国の春と秋
 魚沼では11月から雪が舞い始め、翌年3月末まで山野が雪に覆われる。年明けから3月半ばまでは積雪が3メートルに達して家々を埋め、人々は昼なお暗い家にこもって春の兆しを待つ。そして光の4月、農民たちは白一面の田に黒い消雪剤をあまねく撒(ま)き、太陽の熱の恵みを少しでも早く、少しでも多く田へ招き入れようと精を出す。黒い土が見えた時の例えようのない嬉しさ。田を起こし、ふたたび太陽にお願いして光にさらし、十分にさらし終えた後、谷川山系から流れ下る雪解け水を田へ引き入れた。<春水 四田に満ち>た頃は農民が満を持して待ち望んだ時節、一面に水の張られた水田は農民たちの心境そのものであるように思えた。
 雪のない地方の農民たちも、満を持して田に水を張る気持に変わりはあるまい。ただ、雪に半年埋もれながらこの季節を待っていた人々の胸の熱さの方が、少しだけ熱いのではないかという気がする。その熱さのほどが「春水満四田」の扁額になって表れたのだろう。
 春に触れたら秋の美しさにも触れたい。魚沼には見るものすべてが黄金一色に染まる秋がある。田に刈り落ちた稲ワラと、規則正しく延びた刈り跡の列。農道に沿って立つハザキ(ハサキ)には、刈り取られた稲が幾重にも波打つ。よく晴れた日の夕暮れ、太陽が山の端に沈む前の一瞬だけ、光は世界を黄金色に染め上げた。群れなして飛ぶ赤とんぼ、かすかなその羽音、ゆく秋を惜しんで吹く風さえもが、その一瞬だけは黄金色に見えた。

  農民の心に近かった
 「美しい」と思った理由は「春水満四田」のそれと同じだ。農民の喜びが景色の中にとけ込み、見る人にも同じ喜びを伝えていた。マルコポーロは日本について「黄金の国ジパング」とヨーロッパに紹介したが、それは文字通りのゴールドというより、収穫シーズンの日本の秋景色を指してのことのことではないか、とも思えた。
 ハザキによる天然乾燥は当時すでに少なく、大半のコメは農協へ送られ、一夜の機械乾燥で仕上げられていた。消えゆく風景だから余計に美しく思えたのかもしれない。
「でも、ずっと美味いンだよ、日数掛けてハザキで乾燥させた方がね。だから自分のウチで食べる分は、みな天日(てんぴ)干しにしているよ」
 家が農家でもある地域紙の記者が、そう教えてくれたこともある。
 田中氏は「春水満四沢」の扁額も、したためている。「沢」を「田」に換えたのは田中氏の着想だったのか、支持者の要望を容れてのことか。農民の心に近い政治家だったことは確かだ。

3 【銃は人を殺さない。人が人を殺す】

2016年10月18日 | 言葉
 危険な国アメリカ
 かつてのアメリカは、世界の多くの人があこがれる国だった。中産階級の豊かな生活、詩情あふれる映画や音楽、明るく開放的な国民性。しかし現代のアメリカに、あの時代の面影を見ることは難しい。低所得者層の増大と治安の悪化、銃乱射シーンばかりの映画、ますます内向きに「ガラパゴス化」して行く国家と国民性。特にテロと銃器使用事件の頻発は、世界指折りの危険な国であることを印象付けている。

 日本人留学生の悲劇
 1992年10月17日夜、ルイジアナ州バトンルージュにAFS交換留学生として滞在していた愛知県の高校3年生、服部剛丈君16歳は、ハロウィンパーティーの会場と間違えて訪ねた家の主に、44マグナム弾の拳銃で胸を撃たれ即死した。2001年9月に起きた同時多発テロは十分に衝撃的だが、それにもまして筆者には服部君事件とその後の裁判の経緯の衝撃が大きかった。アメリカ社会の危険と愚劣を思い知らされたからだ。
「フリーズ(動くな)」の警告を服部君が「プリーズ(どうぞ)」と聞き間違えたこと、また、このような場合の対処方法に服部君が無知であったことも、家主に引き金を引かせた原因になったようだ。裁判の判決は無罪。判決理由は明らかにされず、正当防衛が認められたのか、殺人や過失致死の犯罪構成要件が欠けた結果なのかは不明のまま。12人の陪審員の1人(女性)はテレビのインタビューに「外国人が(銃規制などに関して)アメリカの制度をとやかく言うのが不快だった」と答え、法律論より感情論が優先した様子さえ察せられた。
 一方、服部君の両親が起こした民事裁判では地裁、高裁とも殺意が認定され、家主が銃を5丁も持つマニアで、発砲時に酒を飲んでいた事実が明らかにされた。支払われた賠償金は10万ドル分のみ。これを原資に両親は銃規制強化の署名活動を続け、170万人分の署名をビル・クリントン大統領の元へ届けた。銃規制のブレイデイ法案が米議会で可決したのは、両親がワシントンDCに滞在中のこと。アメリカの良心を感じさせる偶然でもあった。
 「外国人がとやかく言うのが不快」というプライドの高さ、いや傲岸不遜。判決理由を示さなくとも可の、被害者への配慮を欠いた裁判制度。救いは、両親に同情した米国民の署名の数と、クリントン大統領ら銃規制支持派政治家の存在だった。

 オバマ大統領の涙
 人口3億2千の国に3億丁の銃器が出回り、銃により年間3万人超の人が命を落とす。4割が殺人。アメリカ社会の実像だ。フロリダ州オーランドのナイトクラブで殺傷能力の高いアソールトウェポン(戦場用の半自動ライフル)が使用され、49人もの死者を出した事件(2016年6月)は記憶に生々しい。アメリカでは、このような最新鋭の戦場銃器でさえ手に入る。
  オバマ大統領は2016年1月のテレビ演説で、議会の承認を必要としない、大統領令による新たな銃規制強化策を発表した。12年にコネチカット州の小学校で児童ら26人が殺害された事件に触れると、両の目に涙があふれた。児童殺害に使われたのもアソールトウェポンで、オバマ大統領の主張は「せめてアソールトウェポンの規制を」というものだった。
「規制は逆効果だ。先生が学校でライフルを持っていれば、防げたはずだ」
 コネチカットの事件後、アメリカの国会で全米ライフル協会支持派の議員が主張した。オバマ大統領が銃規制の演説をすると、翌日には「今のうちに買っておこう」という駆け込み客が銃砲店へ殺到し、演説は逆に宣伝材料になるともいう。銃社会アメリカの病根は深い。

 全米ライフル協会
 全米ライフル協会は会員数400万人。市民団体というより圧力団体である。有力メンバーのスミス&ウェッソン社が南北戦争特需によって会社の基礎を築いたように、銃器メーカーは軍需産業として米国政界、特に共和党と深く結び付いてきた。共和党の力が強い現在の米議会では、銃規制強化は実現しにくい。
全米ライフル協会のスローガンも、米国民によく知られている。
<銃は人を殺さない。人が人を殺すのだ>
 「銃が人を殺すのではないから、銃に罪はなく、わが団体も殺人の手助けをしているわけではない」と弁解しているように聞こえる。第一に主張すべきスローガンが弁解というのでは情けない。それにしても「銃は人を殺さない。人が人を殺すのだ」は言葉のトリックだ。
 銃器団体の主張である以上、後半は正確に「人が(銃を使って)人を殺すのだ」と言うべきだろう。「銃を使って」を省略したところがミソだ。前半の「銃は人を殺さない」が「モノ自体は人を殺さない」という意味なら、やはりモノである原爆やミサイルも、それ自体は人を殺さないから、こちらも所持自由でよい、という理屈になる。とんでもない暴論である。

 迷言が通じる社会
 協会の副会長であるウェイン・ラピエール氏は次のような発言もしている。
「銃を持った悪人を止められるのは、銃を持った善人だけだ」
「中国で斧(おの)や刃物が学校の大量殺人に使われたからといって、それらが禁止されることはない。銃の誤用は、禁止の論拠とはならない」
 世の大半の人は自分を「善人」だと思っている。逆に「自分は悪人か」と反省しきりなら、むしろ「善人」かもしれない。イスラム過激派のテロリストたちは、正義は自分の側にあると確信しているだろう。善悪ほど主観的なものはなく、善人悪人の二元論ほど幼稚な人間観はない。
 中国の例えにしても、化石燃料を入手しにくい貧しい山村では、斧は薪を得るための生活必需品。銃は人を殺傷する、ただそれだけの目的で造られた道具だ。同じ次元では論じられない。

 
 銃器のはんらんが過剰防衛の元凶
 「みずから銃を持ち、みずから守るしかない」とアメリカ人はよく言う。かくして銃器は行き渡り、誰もが「相手も銃を持っているはずだ」と疑心暗鬼にかられる。服部君のカメラを銃と見間違え、おびえて発砲した家主のケースも然り。昨今頻発する米警察官の黒人射殺事件では、警官側の言い分は決まって「黒人側が銃を持っていたので、危険を感じた」だ。正当防衛ならぬ過剰防衛。「みずから守る」行為は、アメリカ社会を破壊する結果にしか、なっていない。

2 【リーマンショック】

2016年10月18日 | 言葉
 薄れる記憶と残る言葉
 リーマンショックは現在でもしばしば耳にする語だが、意味と当時の状況を正確に答えられる人は、それほど多くはないかもしれない。
「リーマン・ブラザーズ証券という名の米国の大手投資銀行が、米国内住宅バブル破裂の影響で倒産してね。これが引き金になって、ヨーロッパや日本など世界中へ大不況が広がった。それでリーマンショックと呼ぶようになったのさ」
 リーマンショックという語に惑わされると、こういう答えになりそうだ。しかし、これでは世界的な大不況の元凶が一投資銀行だったことになる。「死人に口無し」のたとえではないが、現在は存在しない会社に責任を押し付ける、言葉のトリックだとも受け取れる。マスメディアも当初は「サブプライムローン問題」という語を使っていた。

 アメリカの不況と起死回生の住宅バブル
 当時を振り返ってみよう。アメリカでは2000年にITバブルがはじけ、翌年に世界同時テロ、翌々年に企業会計疑惑と続き、景気後退の坂を転げ落ちた。FRB(連邦準備制度理事会)は超低金利政策に舵(かじ)を取り、空前の金余り現象が起きる。不況下の金余り。脱出策として住宅需要の掘り起こしに目が向けられ、低所得者層でも借りやすいサブプライムローンが注目された。以後、住宅バブルに突入する。米政府は景気回復を優先し、当時すでに欠陥の指摘されていたサブプライムローンの規制強化を先送りした。
 このローンでは、初めの2、3年は金利を低く抑えた優遇金利が適用され、後になるほど返済額がかさむ仕組み。不動産価格の高騰中は返済に窮しても家を売ればオツリが来た。借金してでも家を買った方がトクだから、ローン利用者は増え、米国の住宅価格はさらに高騰。しかし住宅販売も2006年にピークを迎え、ここから下落が始まる。もはやオツリは来ず、家を売ってローン返済に充てることが出来なくなった。たちまちローンは不良債権化した。

 元凶はローンの証券化
 問題が世界の金融市場へ、とりわけ欧州の金融関係機関へ及ぼした影響の核心は、サブプライム関連商品の証券化。ローン債権自体が証券化され、証券商品として第三者へ売られた。高リスク高リターン。ヨーロッパの金融機関が競って証券を買い求め、リスクは世界中へ広がった。打撃が国内金融機関にとどまった日本のバブル崩壊との、大きな違いがこの点だ。
 2007年8月、フランスのメガバンク、BNPパリバ銀行傘下の3つのファンドが資産凍結され、これをきっかけに世界同時株安が始まる。「パリバショック」と呼ばれた。翌2008年にはイギリス金融大手HBOS、ドイツ不動産金融大手HRE、ベルギー金融最大手フォルティスで、公的資金導入などの事態となった。
 2008年9月、米国内の5大投資銀行がすべて破綻する。ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、メルリ・リンチ、ベア・スターンズが商業銀行へ転換、あるいは買収された。唯一リーマン・ブラザーズだけが倒産して姿を消す。負債総額は6130億ドル。リーマン破綻の翌日、保険大手AIG社が公的管理下に置かれた。企業の倒産保険を大量に扱っていたAIGの経営危機は、倒産保険金が支払われなくなる可能性を意味するから、リーマンのように倒産させるわけにはいかない。しかし直後に米国の株価は暴落。さらに9月29日、米下院がウオール街救済の金融安定化法案を否決する(10月初めに再提案され可決成立)と、この日だけでニューヨーク証券取引所のダウ平均株価は史上最大の777ドルも下落した。
 当時の日本の金融機関はサブプライムローン関連の証券商品に手を出さず、ために直接の影響は小さかったが、直後の世界同時不況が日本の輸出産業を直撃した。2008年10-12月期の実質国内総生産(GDP)は前期比マイナス3・3%(年率換算マイナス12・7%)で、第1次オイルショック以来35年ぶりの下落幅。翌2009年1-3月期は前期比マイナス4・0%(同マイナス15・2%)へ拡大した。米欧を上回る落ち込み幅だった。

  和製英語だった「リーマンショック」 
  少々長くなったが、ここまで振り返ると、当時の世界金融危機を表す言葉として「リーマンショック」の不適切さ、不正確さが、お分かりいただけたと思う。負債総額は巨額だが、危機の原因ではなかったし、きっかけでもなかった。
 そもそも事情を知る欧米でも「リーマンショック」の語が使われていたのか。2016年5月に開かれた主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の席上、安倍首相は現下の経済情勢を「リーマンショックの前に似ている」と分析し、財政出動の必要を各国に呼び掛けた。この時、ある民進党議員がツイッターで「日本政府発行の資料にある『リーマンショック』の表現が、各国首脳に配布された英語版にはない。これでは情報操作だ」と疑問を呈し、議論が起きた。結局「もともと『リーマンショック』は和製英語だから、英語版では他の語への言い換えが当然」という説明で落着した。英語版資料の表記は「the financial crisis」で、あっけないほどシンプル。リーマンショックが和製英語であることを、この時初めて知る人が多かった。

 配慮の有無
 「the financial crisis」の表記では、あまりに漠然として掴(つか)みどころがない。訳せば単に「財政危機」だから、「リーマンショック」以上に事態の特徴を伝えていない。「リーマンショック」の言葉を最初に使い始めたのが行政か金融関係か、マスメディアだったかはともかく、新たな呼称を考える必要があったことは確かだろう。
 ネット上の書き込みには「AIGショック」や「アメリカ下院ショック」を推奨する意見もある。なるほど、そちらの方が真実に近い。現在も存続するAIGやアメリカ政府に配慮した結果、使わなかったとすれば残念なことだ。筆者などは単に「米バブル崩壊」や「アメリカ版バブル崩壊」で良いと思った。バブル経験国の日本であるから、不動産と金融を核とする経済破綻である点も理解されやすい。
「これは言葉のトリック、真犯人から目を逸(そ)らす陰謀だよ。責任の一端は、金融安定化法案を否決して株価の暴落を招いた米下院にある。サブプライムローンで大儲けしていた大手保険会社など、庇(かば)う必要もない。意図的に言い換えたのなら、問題あり、だよ」
 そう憤慨する声もある。「意図的」は深読みとしても、疑念を招きかねない言葉は、言い換えの言葉として不適切である。


1  【ガラケー】

2016年10月17日 | 言葉
  がらけえ
 日曜日の午後、小学生になったばかりのカズキクンが、筆者の机の上に置いてあるケータイを見て、ため息まじりに言った。
「ジイジのは、がらけえだねえ……」
「何のこと、がらけえって?」
「ガラパゴス島のゾウウミガメや、大きなウミイグアナが使うケータイのことだよ!」
「へえー、イグアナもケータイを使うのか」
「ウーン、そうらしいよ……」
 カズキクンは、ハイハイしていた頃から怪獣やウルトラマンが大好きだった。恐竜も好きで、ガラパゴス諸島の大イグアナにも詳しい。保育園でウルトラマン遊びが流行っていた頃、女の子に股間を蹴られて帰って来たことがあった。
「痛かったろ! でも蹴られて、よかったンだぞ。もし女の子のそんなところを蹴っていたら、いまごろ大変だったぞ!」
「でもボク、痛くなかったよ、気持よかった!」
 うっとりした顔で言うので、ジイジは慌ててしまった。一瞬、孫の行く末を思ったからだ。しかしすぐに「痛くなかった」を強調しただけ、と考え直した。言葉足らずなのだ。ともかくも以来ジイジは大イグアナと電話し合っている化石のような老人――という評価が、カズキクンの中で定まったらしい。当たらずとも遠からず、ではあるけれど。

 ガラケーとスマホ
 ガラパゴスケータイとスマートフォンあるいはスマホ。対照的な印象に苦笑させられる。ガラケーの「ガラ」は生ける化石生物の島ガラパゴス島のことで、語感は「ガラクタ」にも通じる。流行に敏感な若い人にスマホへの移行を促すにはイメージが勝負で、商戦に言葉のトリックが生きた好例だろう。国内でのスマートフォン発売開始は2004年。11年に販売台数は半々、15年にはスマートフォンが8割を占め、最近はガラケー製造中止の声さえ出ている。

 総務省の懇談会から広まる
 ガラケーには、もともと別の意味があった。先行した言葉は「ガラパゴス化」ないしは「ガラパゴス現象」というビジネス用語。日本の技術が世界に先行し過ぎると、遅れた外国製品と機能や規格、操作法などで共通性をなくし、結果的に世界市場から取り残される。この場合、対する語は「グローバル化」で、携帯電話であれば、あえて技術を世界レベルに抑えて互換性を保ち、世界市場での競争力を重視する。つまり「ガラパゴス島」は最新技術の国・日本に準(なぞら)えた語であり、「時代遅れ」とは逆に「進歩し過ぎた」の意味だ。
 2006年に総務省が主催した国際競争力懇談会や、翌7年の野村総研の研究で「ガラパゴス化」が取り上げられ、とりわけ「携帯電話のガラパゴス化」に焦点が当てられた。海部美知さんの著『パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本』でも、同様の意味で「パラダイス鎖国」の語が使われている。技術開発を生命線とした戦後日本の方向性と、待ち受けていた落とし穴。示唆に富むビジネス用語である。
 一方のスマートフォンは、日本での造語ではない。高機能の日本製ケータイに対する後発商品だから、まあまあの無難なネーミングだった。当初は携帯電話とPCの中間的存在でカメラも内蔵せず、機能はガラケーに見劣りした。

  英語ではフィーチャーフォン
 ガラケーは、もちろん日本語である。欧米ではフィーチャーフォン(feature phone)と呼ばれた。「feature」は「特色、特徴」の意味で、通話以外に多くの機能を併せ持つ携帯電話器を指した。当初はガラケー=高機能、スマートフォン=低機能かつ低料金だったから、ガラケーは多機能かつ高機能ゆえに価格も高く、欧米ではこれらがネックとなって最初から売れなかった。一方のスマートフォンは売れ始めると次第に多機能化し、高機能化する。気がつけば国内市場でも両器の位置関係は入れ替わり、スマートフォンはますます「スマート」に、ガラケーはますます「ガラ」になった。
 ただし現在でも国内のガラケー人気は根強く、特に大口の法人契約が多い。2014年にはガラケーの出荷台数が微増した。ガラケーとスマートフォンの中間的な位置付けで「ガラスマ」や「ガラホ」と呼ばれる新機種も出て、人気らしい。メーカーや販売店の中には「ガラケー」の呼称をやめて「フィーチャーフォン」で統一する動きもあるようだ。

 気になる「ガラパゴス化」の変質
 なぜ「フィーチャーフォン」や「ケータイ」でなく「ガラパゴス携帯」の呼称が定着したのか。スマホと区別するためなら「ケータイ」でも十分で、わざわざ「ガラ」を加える必要もない。広告宣伝サイドが発火点だとしても、言葉を流行らせた、いちばんの“功労者”は若い人たちだろう。「ガラパゴス携帯」を「ガラケー」と縮めたところなど、若者らしい言葉の使い方だ。
 気になるのは「ガラパゴス化」から「高度な発達」の意味合いが薄れたまま、単に日本の独自性や反グローバル化、ときに後進性を指して使われ始めていること。日本だけの慣行としての自転車の歩道走行や「止まれ」の交通標識。また軽自動車、スポーツでは駅伝競走など。最近は、コーヒーカップに見える温泉マークが話題になった。
 市街地道路の狭い日本では、小さめの軽自動車は便利で、生まれるべくして生まれた工業製品だといえる。燃費の良さもあって近年はインドでも人気だから、むしろグローバル化の一例だろう。温泉マークを見間違えるとしても、日本人ならコーヒー茶碗でなく湯呑み茶碗を連想しそうだ。だいたいコーヒー茶碗を標識にする国などあるはずもない。温泉がない国の外国人には、丸い湯船から立ち上る湯気の心地よさと、それを愛する日本の伝統文化を理解してもらいたい。異文化間の相互理解とは、そういうことだ。「ガラパゴス化」から「高度な発達」の意味あいが抜けると、個性的な文化文明はみなガラパゴス島の遺物ということになってしまう。

「そうか、ジイジは高度で個性的な人だったンだ!」
  いつかカズキクンがそう言うかどうかは、わからない。