斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

32 【花の名前・秋】

2017年09月16日 | 言葉

 秋海棠
 家の元の持ち主は花好きだったようだ。買いうけた家の庭は猫のヒタイほどだが、当方には園芸の趣味がなく、花や木を植え替えるようなことはしなかった。それが幸いして毎年四季折々に花が楽しめる。花に不案内の者が無粋に手を入れるより、よく知る人の意に従った方が良いに決まっている。
 秋も入口に差し掛かった今は北向きの玄関先で秋海棠(しゅうかいどう)の小さな花が咲き始めた。球根性なので放っておいても毎年この時期に花を咲かせる。うつむき加減に咲く薄桃色の花は美人のカンバセを、花の下の赤い茎も長いウナジを思わせ、ドキリとするほど艶っぽい。秋に咲くから秋海棠で、春に咲くバラ科の花木の海棠とは別種。海棠の方は密集して咲き、いたって派手やかだから、楊貴妃の艶姿にたとえられる。秋海棠も大群落で盛大に咲くことがあるので一概には言えないが、ひっそり小群落で咲く秋海棠の方がオモムキはある。「棠」は梨の意味で、海棠の「海」は中国から渡来して来たからとも、海に近い湿地を好むからとも言われている。
 ちなみに玄関先では秋海棠のピンクの花々を、藪蘭(やぶらん)の青い花が取り囲んでいる。失礼にも名前に「やぶ」をかぶせられた球根性の多年草だが、よく見れば花は可憐だ。花言葉は「忍耐」「かくされた心」「片思い」だとか。失意の楊貴妃をそっと慰める従者の姿に、見えないこともない。家の元の持ち主がどんな気持ちで二つの花を植えたのかを、尋ねてみたい気もする。
 <秋海棠 西瓜の色に咲きにけり>(芭蕉)
 <女去って秋海棠の茎赤し>(沢木欣一)
 秋海棠を詠んだ句といえば芭蕉のそれが有名だが、沢木氏の句も捨てがたい。

 紫苑
 人口が3万にも満たない地方都市の、駅前からも繁華街からも離れた路地裏に、その店はあった。店の名が「紫苑」。スナックにしてはフロアーが広過ぎるし、といってキャバレーの派手さもない。もちろんクラブの高級イメージからは、ほど遠い。
 昼は化粧を落としたフィリッピン人ホステスたちが椅子を店の外へ持ち出し、お喋りに夢中だった。話の輪から外れて日本人娘が1人2人、眠そうにあくびばかりしている。娘もホステスのようだが、未成年にしか見えない。どういう酒場なのか。経営者は五十年配のパンチパーマ男で、若い時は隣県でヤクザをしていたとの噂があった。男には同じ街で温泉旅館をやっている兄がいて、泊まり客を「紫苑」へ送り込んで来るのだと、土地の事情通が教えてくれた。事情通は、この酒場を<朝日のあたる家>だと信じていたようだ。紫苑(しおん)の文字を見ると、キク科アスター属(シオン属)の可憐な淡紫色の花より、若い頃の勤務地だった田舎町の飲食店を思い出してしまう。おさな顔の日本人ホステスは、あれからどんな人生を送ったのか。
 この花も秋海棠と同じく春秋がセットになっていて、春に咲く春紫苑(ハルジオン)はキク科ムカシヨモギ属。黄色い花芯は同じだが、花びらが春紫苑は白い。紫苑は文字通りの薄紫色で野菊によく似ている。どこの道端にでも咲いて「貧乏草」の別名がある春紫苑に対し、紫苑は絶滅危惧種に指定され、わずかに九州山地に自生するのみ。紫苑にも「鬼の醜草(オニノシコグサ)」の異名があるが、一方で「十五夜草」や「思い草」というロマンチックな名もあり、花言葉は「遠方の人を思う」だという。どんな経営者にしろ自分の店の名にするぐらいだから、花の名前も姿かたちも、もちろん花言葉も美しいことは間違いない。
 <紫をん咲き静かなる日の過ぎやすし>(水原秋櫻子)
 穏やかな秋の好日は、惜しむ間もなく過ぎてしまうものだ。

 曼珠沙崋
 曼珠沙崋(まんじゅしゃげ)は梵語(ぼんご)「manjusaka」の音訳で、意味は「天上に咲く白い花」(大修館書店刊『漢語林』)。「曼」は「長い、広い、限りがない、美しい」の意味、「珠」は「玉、真珠、美しい物のたとえや形容」、「沙」は「砂、砂のある水辺、水で洗って悪い物を除く」、「華」は「花」。4字それぞれに意味があるが、音訳だから当て字である。彼岸花(ひがんばな)という名に負けぬくらい、曼珠沙崋の方も人に親しまれている。元々は赤でなく「白い花」というのも面白い。花が咲いている時は葉が出ず、花が散ってから葉が成長することから「葉見ず花見ず」と呼ばれることもある。
 さて、この花ほど不当な扱いを受けてきた花はない。「血だらけの握りこぶしを地上へ突き出したように咲く花」「花の咲く場所には死体が埋まっている」「毒々しいほど赤い花」などなど。球根に毒があること、ちょうど秋の彼岸頃に咲く花であることが、凶事に結び付けられてしまう理由だろうか。
 <弁柄(べんがら)の毒々しさよ曼珠沙崋>(許六)
 <曼珠沙崋あれば必ず鞭(むち)うたれ>(高浜虚子)
 弁柄はインド・ベンガル地方に産した赤色の顔料。紅殻(べにがら)。

 イメージへの凭(もた)れかかり
 心をまっさらにして、もう一度この花を見てみよう。どの角度から眺めても「血だらけの握りこぶし」には見えない。花弁は反るように開いているので「ぐー」でなく「ぱー」だろう。花かんざしに喩(たと)えた方が、ぴったりだ。花の色が「毒々しい」なら、深紅のバラや幼児の好きな赤いチューリップは、どうなのか。それに土手や田の畔道など陽光の下で見るとオレンジ色に近く、暗赤色の血の色とは異なる。花を支える緑色の茎とのコントラストも好ましい。美しい花は数々あるが、曼珠沙崋ほどユニークで美しい花は少ない。自然の造形の素晴らしさに、ただただ感じ入るばかりだ。
 <曼珠沙崋不思議は茎のみどりかな>(長谷川双魚)
 <曼珠沙崋赤衣の僧のすくと立つ>(角川源義)
 使い古されたイメージへの凭れかかりから脱すると、新しい光景が見えてくる。その発見こそが芸術だろう。「血の握りこぶし」ではなく高僧の赤衣。真っ直ぐな茎に「すくと立つ」姿を思う。仏典の「天上に咲く白い花」は、もともと吉兆を意味した。「葉見ず花見ず」は「花はいまだ見ぬ葉を思い、葉はすでに散ってしまった花を思う」の意味で、曼珠沙崋が「相思花」と呼ばれるユエンである。モノもコトバも片面だけ見ていては、何日何年見続けたところで何も見ていないのと同じかもしれない。

31 【「武蔵国一宮」考】

2017年09月06日 | 言葉
 小野神社と氷川神社、2つの一宮
 NHKの人気番組「ブラタモリ」が、埼玉県さいたま市大宮区にある氷川神社を拠点に特集を組んでいた。今年7月1日のこと。毎回、全国の特徴ある都市や地域を地形や地質の面からユニークに伝えていて興味深いが、この日のテーマは「明治の鉄道敷設時、なぜ大宮に駅が作られなかったのか」。まず氷川神社の説明から入って「武蔵国一宮(いちのみや)の神社です」と紹介した。首をかしげた視聴者も多かったようだ。
 東京都と埼玉県、それに神奈川県の一部を加えた武蔵国。この国の一宮がどこかについては、昔から東京都多摩市一ノ宮にある小野神社説と、さいたま市大宮町区高鼻町の氷川神社説との2説がある。埼玉県民としては氷川神社説を主張したいところだろうか。

 一宮とは?
 奈良や平安から始まる律令制国家時代、それぞれの国で最も社格の高い神社が一宮(いちのみや)とされた。「一の宮」や「一之宮」と書かれることもある。トップの守(かみ)や次官の介(すけ)、ナンバー3の掾(じょう)、ナンバー4の目(さかん)らの高級官僚が国司(こくし)と呼ばれ、拝命後の初仕事が一宮から二宮(にのみや)、三宮(さんのみや)へと巡拝しながらの各地視察だった。特に一宮については現在も地名として全国に残っているため親近感を覚える人が多い。一宮の名称それ自体は7世紀頃すでにあったらしいが、文献に現れるのは平安末期に成立した説話集『今昔物語』の「今は昔、周防の国の一宮に、玉祖の大明神と申す神おわす」が最初とされ、意外に遅い。あるいは文献に明記されていなかったことが曖昧さを生み、7世紀すでに起きていた“一宮争い”の背景になったのかもしれない。

 2説の根拠
 公開されている氷川神社のホームページには「今から凡そ千二百万年前の聖武天皇の御代には武蔵一宮と定められ」とある。いかなる文献資料に「武蔵一宮と定められ」とあるかが分かりにくい。「由緒」と題された冒頭に「氷川神社は社記によると」と断り書きがあるので、「武蔵一宮と定められた」も含めて「社記」の記述とも受け取れる。しかし社記はあくまで社記、第三者的な客観資料でないため説得力としては弱い。Wikipediaで「氷川神社」の項を検索すると、氷川神社を一宮とする文献資料は室町時代に成立した『大日本一宮記』で、これより前の南北朝時代に成立した『神道集』では氷川神社を三宮とし、武蔵国府の置かれた東京・府中市に近い小野神社を一宮としている。さらに前の鎌倉時代には官史『吾妻鏡』に「多摩郡吉富に一宮(小野神社のこと)」の記述も見える。
 地名から考察してみよう。小野神社は武蔵国内で唯一「一ノ宮」の地名が残る多摩市一ノ宮に、氷川神社はさいたま市大宮区に鎮座する。全国の一宮所在地には「一宮」「一の宮」「一之宮」が多い。これに対して「大宮」は①皇居または神宮の敬称②太皇太后または皇太后の敬称③母宮の別称(『広辞苑』)であり、一宮神社の所在地に直接関連した地名ではない。

 総社の役割
 国司たちにとっても一宮から順に二宮、三宮、四宮と参拝して回るのは手間だった。そこで国府近くに、一宮以下の有力神社を合わせて祀る総社(そうじゃ)を設置するようになった。総社1か所に参拝すれば各宮を回ったのと同じとされ、期間と労力、経費の負担は大幅に軽減する。総社も日本中にあるが、とりわけ武蔵国では大化元年(645年)に早々と設けられた。大国魂(おおくにたま)神社(東京・府中市)隣接の社有地に国衙(こくが、国府の役所建物)が建てられると、同社が「武蔵総社」となり、のちに社号も「武蔵総社六所宮」に変わった。
 多摩市一ノ宮にある小野神社が小社にとどまった理由は、総社である大国魂神社の存在が大き過ぎたためかもしれない。同じく国府と近距離にあるとはいえ、国府隣接の大国魂神社が一宮から六宮までの社務を代行したのでは、小野神社の影が薄くなるのも当然だ。大国魂神社へは前九年役(1062年)に際し源頼義・義家父子がケヤキの苗木千本を寄進して必勝祈願したり、頼朝が妻政子の安産祈願にと葛西清重に参拝させたりと、一宮に劣らぬ扱いを受けた。一方の小野神社も後北条氏や太田道灌らから厚く崇敬された。江戸時代初期の慶安元年(1648年)、公的文書の朱印状に「一宮村一宮大明神」と明記され、15石分の朱印地が寄進されている。しかし同じ頃、大国魂神社は幕府から500石分の社領を寄進されているので、小野神社が“名”を取り大国魂神社が“実”を取った格好かもしれない。ちなみに同時期に大宮・氷川神社も幕府から社領300石分の寄進を受けている。

 大国魂神社本殿の配置
 各種文献資料以上に総社・大国魂神社の存在自体が、生きた歴史資料として史実を物語っているだろう。着目すべきは創建時から変わらない本殿配置である。まず「中殿」に主祭神の大国魂大神こと大国主命。「東殿」に一之宮として小野大神(小野神社)、二之宮として小河大神(東京・あきる野市二宮、二宮神社)、三之宮として氷川大神(氷川神社)を祀る。さらに「西殿」には四之宮として秩父大神(埼玉・秩父市、秩父神社)、五之宮として金佐奈大神(埼玉・神川町、金鑚神社)、六之宮として杉山大神(神奈川・横浜市緑区、杉山神社)を祀っている。
 一之宮から六之宮までのルートを地図でたどると、往来が重複せずに、つまり一筆書きのように巡回出来ることに気づく。ポイントは一之宮と三之宮の位置関係。小野神社からスタートするルートは、たどりやすい。しかし氷川神社からだと行ったり来たりを強いられ、たどりにくい。なお一宮以外の番号は社格とは無関係との説もある。

 “一宮争い”の無意味
 鎌倉時代に入ると国司の権限は地頭に奪われ、さらに室町時代に至ると国司は名目だけの職になった。当然国司の各宮巡拝も行われないが、それ以前から総社の存在により巡拝が無意味化していたことは既述の通り。であれば実質的な役割を失った室町時代以後に、一宮を主張することは無意味に等しい。意味があるとすれば、ハクが付いて参拝者や挙式カップルの数が増え、お賽銭も増えることぐらいか。それも大事なことだろうが、そんなことに目がくらんで歴史上の事実を歪めてしまっては、神々も顔をしかめるに違いあるまい。