斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

52 【古代人が見ていた風景】

2018年11月05日 | 言葉

 歴史小説を書く楽しさ
 小説『残照はるかに 阿弖流為(あてるい)別伝』を書いていた時の楽しみの一つは「登場人物たちは、一体どんな風景を見ていたのだろうか?」と、あれこれ想像を巡らせてみることだった。想像するうち登場人物たちに同化して、同じ目線で眼前の風景を見ているような錯覚に陥る。すると、それまで思いもしなかったストーリーが頭に浮かび、驚かされることが幾度となくあった。
 阿弖流為の小説を書こうと思いついたのも、岩手県奥州市にある古代の城「胆沢柵(いさわのき)」(国指定遺跡)を仕事で訪れ、そこで眺めた夕景にインスピレーションを感じたのが始まり。この城などを舞台に阿弖流為率いる蝦夷(えみし)軍と、坂上田村麻呂を押し立てた朝廷軍とが、すでに稲作の始まっていた豊穣の地・東北の支配をめぐって争った。というより触手を伸ばさんと北上する大和朝廷数万の大軍を、阿弖流為青年を総大将に戴いた千、2千の蝦夷軍で抵抗し迎撃した、という方が正確だ。どんな戦闘だったのか、蝦夷社会の実像はどんなだったか。なにより阿弖流為という青年はどんな人物だったのか。日没の残照のもと想像は際限なく膨(ふく)らんだ。

 古代北上川の風景は? 
 小説に風景描写は欠かせない。その後、仕事とは別に度々この地を訪れては、阿弖流為たちが足跡を残したと思われる各地をカメラに収めて回った。なかでも重点を置いたのが宮城県石巻市に残る桃生城(ものうのき)跡と、岩手県奥州市の巣伏(すふせ)古戦場跡だった。北上川(日高見川)に近い巣伏古戦場跡は、延暦8年に蝦夷軍が大勝利した場所で、物語展開の1つのピークとなる地でもあった。
 現在「巣伏古戦場跡」には説明版と物見やぐらが設置され、近くを北上川が流れている。公共事業に強いとされた政治家の選挙区であるためか、川は多くの部分がほぼ直線に近い形で整備され、堤防も立派だった。だがそこで当然ながら「阿弖流為たちが見ていた北上川(日高見川)とは、似ても似つかぬ現在の川の姿ではあるまいか?」とも思った。

 特に明治以降は幾たびかの河川改修事業が行われて、上流域には巨大ダムも建設されている。豊かな水量ゆえに飲料水のみならず農・工業用水の確保目的でも取水され、流域の近代化を支えてきた。水量という面では現在の何倍もあったのに違いない。もちろん阿弖流為の生きた古代には散々に蛇行して河川敷は広く、葦(あし)原などの湿地部分もはるかに広大だったはずだ。蛇行していたから沼も各所に点在し、そのぶん水量もため込んでいただろう。『続日本紀(しょくにほんぎ)』には延暦8年(789年)の北上川畔での戦闘の記述が詳細に残るが、豊富な水量や広い河川敷をイメージして初めて記述にリアリティーが生まれる。眼前の風景から古代のそれを導き出す想像力は、小説を書くうえで欠かせない。

 意外だった書評の指摘
 『残照はるかに 阿弖流為別伝』の本が出てしばらくすると、地元奥州市に事務局を置く歴史研究団体が書評を出してくれた。どんな内容であれ書評の形で取り上げてくれるのは有り難いものだが、中にこんな一節があったのは意外だった。
<小説とはいえ、日高見川(北上川)の水量等からしてこの作戦はあまりに現実離れしているのではと首をひねった>
 巣伏の戦いで朝廷軍側の溺死者が1000人以上にのぼったことが『続日本紀』(延暦8年6月3日条)の記述にある。対する蝦夷軍側の溺死者はゼロ。そこで筆者は「なぜか?」と考え、梅雨の終わりの豪雨で川が増水している機をとらえた蝦夷側が、上流から大量の丸太を激流へ流して渡河中の朝廷側兵士を溺死させた、というフィクションに仕立てた。「日高見川の水量等からして」は、この戦闘場面に対する書評執筆者の疑問である。ふと思ったのは「書評の筆者は、現在の北上川が古代から同じ姿だと思っているのだろうか?」だった。
 というのも「日高見川の水量等からして」は、現在の水量を現認し、根拠とした言い方であるからだ。繰り返すが蛇行部分の直線化や堤防造成といった形の変化は一目瞭然であり、人口増や水田開発による水需要の増加、つまり北上川からの取水量増加も容易に想像がつく。古代以後の北上川の変化変容に思いを至すことなく書評を書いたのなら、もはやナンセンスとしか言いようがない。

 灯台もと暗し?
 地元の歴史愛好家団体には、郷土への絶対の確信と愛情があるのだろう。県外者が作者だと、とかく「作者は土地のことを知らない」という見方になるのかもしれない。現在の北上川を毎日のように見ているからこそ「情景描写に--」の指摘が出るわけだ。しかし<灯台もと暗し>の、たとえの如く、見慣れた風景ゆえに、かえって落とし穴に落ちることもある。当然で通っていることに対するの再チェックの作業が必要かと思えるが、どうだろうか。

 追記 この稿を書いているうち、ある大家の平将門を主人公にした長編小説の描写を思い出した。坂東太郎(利根川)流域で若き日々を送る将門が「堤防の草の上」に寝転ぶ場面だが、何度か出てくるので気になる。現在の利根川中流域では真っ先に目に入る長大かつ立派な堤防は、一体いつごろから築堤が始まったのだろう。平将門が生きた平安時代中期、すでに大規模な治水工事が利根川で行われていて、小説に登場したような堤防も築かれていたのか。筆者には知識がなく不明を恥じるばかりだが、胸に痞(つか)えものでもあるように謎が謎のままに残る。日高見川の描写とは逆に、作家が現在の風景だけを下敷きにして小説を書いたとは、とても思えないが……。