斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

80 【唱歌「冬の星座」】

2021年02月21日 | 言葉
 冬の夜。木枯らしが咆哮(ほうこう)をやめ、いっときの静寂が訪れた。大気はするどく冴(さ)え返り、星々が満天にひしめく。赤、オレンジ、黄、白、青‥‥。星により色が異なる理由は、星もまた生命体であり、残されたそれぞれの寿命に応じて光り方を変えるためだという。星たちの生命の永遠と、数億光年の無辺。それが永遠でも無辺でもないことを、自体は光さえ発しない地球という小さな星の、ちっぽけなヒトが知っている。
 星が一段と鮮明に見える季節が冬だ。多くの人が冬の夜空を見上げては星たちの「永遠」を思う。やや年配なら『冬の星座』を口ずさみながら。

 一、木枯らしとだえて 冴ゆる空より 地上にふり敷(し)く 奇(くす)しき光よ
ものみな憩える 静寂(しじま)の中に きらめき揺れつつ 星座はめぐる
(訳詞・堀内敬三、作曲・ヘイス)

 堀内敬三は1923年9月、6年半のアメリカ留学を終え帰国した。船は8月末にロサンゼルスを出港し、3日後に関東大震災の発生を無線傍受する。洋上のため詳細は不明。船は混乱の横浜港を避けて神戸港へ回ったが、たどり着いた東京・神田の自宅は焼失して寝る場所もなかった。
 「いずれ再渡米するつもりの帰国でした。あの大震災で再渡米はオジャンになってしまい、そうこうしているうちに放送局ができて洋楽放送に引っ張り出され‥‥」。1956年2月のNHK広報誌で堀内はそう語っている。アメリカではミシガン州立大学で自動車工学を、マサチューセッツ工科大学で力学を学んだ。マ大では担当教授に「大学に残らないか」と熱心に勧められた。再渡米は研究者として生きる道を意味する。再渡米すれば「音楽家堀内」は存在しなかった。
 1897年12月、堀内は神田に生まれた。実家は老舗(しにせ)の浅田飴本舗。旧東京師範学校付属中学校を卒業後、米国へ留学した。子供時代の事々は著書『ヂンタ以来』に詳しい。中に「機関車随想」と題し、機関車へのあこがれを切々とつづった件(くだり)がある。自宅前を走る鉄道馬車に幼い目を輝かせたことが、エンジニアを目指した動機だった。科学への関心は『冬の星座』誕生のキーワードでもある。

 「音楽家堀内」をはぐくむ素地も当然あった。兄にならい7歳からオルガンを弾いた。小中学校で『春の野』や『キンタロウ』『うらしまたろう』『青葉の笛』の作曲者、田村虎蔵から音楽の授業を受けた。留学中、ミシガン州立大学で音楽理論や音楽史、楽器史も受講し、週末や休暇はデトロイトやニューヨークの音楽会へ足を運ぶ。マサチューセッツ工科大学へ移ると、毎週のようにボストン交響楽団の演奏会を聴いた。「大学時代は非常に忙しかったが(中略)好きな学問と芸術とに埋まった六年半で、一生で最良の時であった」。のちに新聞のインタビュー記事で、こうも述懐している。

 二、ほのぼの明かりて 流るる銀河 オリオン舞い立ち スバルはさざめく
無窮(むきゅう)を指さす 北斗の針と きらめき揺れつつ 星座はめぐる

 
 ヘイスは、正確にはウィリアム・シェイクスピア・ヘイス(1837-1907)。米国ケンタッキー州ルイスビル出身のポピュラーソング作家で、南北戦争以前から活躍し、生涯に300もの歌を作詞・作曲した。日本では『故郷の廃家』の作曲者として知られる。犬童球渓が<幾年(いくとせ)ふるさと 来てみれば 咲く花鳴く鳥 そよぐ風‥‥>の詞をつけた『故郷の廃家』は、明治を代表する唱歌として歌い継がれてきた。『冬の星座』と共通するのはリリカルで表現力豊かな旋律である。

 小学生の頃には紅葉や露伴ばかり読んでいたというから早熟だったのだろう。堀内が初めて訳詞した歌『君よ知るや南の国』は、実に16歳の時の作と伝えられる。堀内には訳詞歌が多く、『サンタ・ルチア』や<ねむれよい子よ‥‥>の『フリースの子守歌、ビゼー「カルメン」の『ハバネラ』などがある。訳詞歌の多くは音楽仲間のセノオ音楽出版社から発売された。
 さらに米国留学の1年前には友人の大田黒元雄らと日本最初の音楽評論誌『音楽と文学』を創刊している。堀内の訳詞は好評で、ここで多くの訳詞歌を発表した。堀内に訳詞家のイメージが定着し、『冬の星座』も「訳詞・堀内敬三」として世に出ることになった。だが、本当に訳詞だったのか。

 訳詞でなく創作詞
 ヘイス作の元歌は『モリー・ダーリン』。内容はラブソングで、星座がテーマではない。二番で月や星が登場するが、直訳すると<星たちも笑っているよ、モリー・ダーリン>となり、星や月は恋人に呼び掛ける材料にとどまる。『冬の星座』が描く世界とは似ても似つかない。
 --ほのぼの光る銀河。ギリシャ神話の狩人オリオン。さざめく(にぎやかに騒がしく)光る散開星団スバル。北斗七星が指さす無窮、つまり天空に不動の北極星。『冬の星座』の世界は科学者堀内の関心のありようを物語り、甘いラブソングとは趣を異にする。直訳でなく、意訳ですらなく、詞は創作である。初出は戦後間もない1947年の音楽教科書『中等音楽(一)』であった。
 1982年11月、堀内は自ら社長を務める音楽之友社から『堀内敬三訳詞曲集・夢に見る君』を出版した。竹久夢二の挿絵も好評で、たちまち販を重ねた。28の歌を取り上げたこの本で『冬の星座』にだけ「堀内敬三作詞」と記した。「訳詞」ではない。堀内らしい、さりげない決着の付け方だったのかもしれない。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した「冬の星座」の項を、書き改めたものです)

79 【楽しみは体に毒なことばかり】

2021年02月06日 | 言葉
 究極のヒートショック浴
 記者だった頃、夕刊旅行欄の取材で、長野県最北東部の栄(さかえ)村を訪れた。新潟県に接する日本有数の豪雪地帯で、新潟県津南(つなん)町とともに秋山郷(あきやまごう)と呼ばれる。山好きなら新潟県最高峰、苗場(なえば)山の西麓と言えば、およその見当はつくかもしれない。読書好きであれば『北越雪譜』で知られる江戸期の文人、鈴木牧之(ぼくし)の、もう一つの名著『秋山紀行』の舞台として、ご存じの方も多いだろう。目当ては切明(きりあけ)温泉だった。
 記憶の糸をたどりながら古いスクラップブックから掲載記事を探す。あった。日付けは「1996年11月28日」。メーン写真は、雪景色の中津川の河原に寝そべる男性2人(筆者にあらず)。主見出しに「野天風呂 四方に広がる銀世界」、脇見出しに「対岸で猿が枝揺らし」。記事の一部を抜粋する--。

<天を仰いだ顔に冷たい雪が降り掛かる。何匹かの猿が対岸で雪の枝を揺らしている。「ツツーィ」と、小鳥が澄んだ声で啼いて飛び去る。
 余(われ)に問う何の意(こころ)にてか碧山(へきざん)に住むと 笑いて答えず心は自(おの)ずと閑(しず)かなり
 李白の七言絶句を思い出した。湯は熱い。ゴクラク、だった>

 宿で浴衣1枚に着替え、腰まで雪にもぐる小道を20分ほど歩いて、この野天風呂へたどり着いた。脱衣場など人工物は一切なく、河原にシャベル数本が置いてあるだけ。「各自で河原に湯船のスペースを掘ってください」ということだろう。当然ながら入湯料も無し。さっそく冷え切った体を熱い湯に横たえ、手足を思い切り伸ばした。野趣満点。冷えた体が芯から温まり、熱湯(あつゆ)好きには堪(たま)らない。頭のてっぺんから足先までしびれ、そのまま昇天してしまいそう(?)なほどのカイカンだった。
 しかし、である。記事にしなかった部分もあった。ご賢察の通り、問題は、野天風呂からの帰り20分の雪道だ。濡れた体に浴衣1枚だから、来た時以上に体は冷えて、心臓までが凍えて止まりそう。やっとの思いで宿へ駆け込み、今度は内湯でゴクラクを味わう。テンゴクとヂゴクは真に紙一重だった。
 体に毒と分かってはいるが、今もって熱湯(あつゆ)好きの性癖は直らない。喉が渇いた時の、最初のビール一口にも似たカイカンながら、度合いで言えば熱湯の方が格段に勝る。まッ、ビール好きの方も直らない。というか直すつもりもない。

 昼寝とフレイル
 「うつらうつら」の漢字表記は「虚(うつ)ら虚ら」だろうかと、昼寝しながら考えた。それとも空虚の「空」の方を採って「空(うつ)ら空ら」か。「うつけ」は「空け」とも「虚け」とも書き、「気がぬけてぼんやりしていること」(『広辞苑』7版)だから、当たらずと言えど遠からず、だろう。マテマテ、夢現(ゆめうつつ)というコトバもある。ならば「現(うつ)ら現ら」が適切だろうか。「ら」は「等」で「おおよその状態を指し示す接尾語」(『広辞苑』7版)。これはこれで良いかもしれない。
 では「うとうと」には、どんな漢字を当てるべきか。筆者の乏しい知識では「疎(うと)疎」くらいしか思い浮かばない。「疎い」については「頭の働きが鈍い‥‥ぼうっとする」「目・耳などの機能が十分に働かない」(『広辞苑』7版)と説明されている。まあ、こちらも、当たらずとも正解に近いコトバではあるだろう。

 この1年は昼寝ばかりしていた。春はコロナ禍のため「不要不急の外出」を避けた。ウオ―キングをやめ、仕方なく(?)昼寝。春が過ぎると、うっとおしい梅雨空を恨めしく仰いで外出は中止。夏は夏で天気予報に「脱水症状の危険を避けてください」の一言が加わり、迷ったものの、やはり昼寝を決め込んだ。外出がダメなら家で昼寝でもするしかない。秋になり天候が安定するとウオーキングを再開したが、買い物に出ることにさえ、心のどこかでブレーキを掛けていた。

 一方で昼寝の楽しさも味わった。トロトロ目蕩(まどろ)む心地よさに勝るカイカンはあるまい。武士道の書『葉隠』で山本常朝は切腹の大義を熱弁しつつ、「人間一生まことにわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり(中略)我は寝ることが好きなり。寝てくらすべしと思うなり」と書いた。昼寝のたびに、この一節が頭をかすめた。
 フレイル。1年間の運動不足は筋肉を弱らせる。かくて気づけば歩くことさえフラフラと覚束ない。いかん、いかん、こんなことでは!

 花林糖と胡麻塩
 あれほど熱中していたゴルフ(といっても所属クラブの公式ハンデは16どまり)や山歩き、バイクツーリング、モーターパラグライダー等々から遠ざかり、現在の趣味といえば上述のウオーキングと孫の世話ぐらい。いやいや、美味しいものの食べ歩きにも目がない。地方色の濃い伝統的な食べ物が好きで、遠近を問わず食べに出掛ける。反面この頃は身近で安価な食べ物にも惹かれるようになった。
 たとえばコロッケ。たまらず食べたくなる時がある。総菜コーナーで買い求めるのでなく、冷凍食品でも良いから自分で揚げて、ホクホクを食べる。菓子なら、しゃれたカタカナ名の洋風菓子でなく、カリントウ。白いごはんなら、ゴマ塩を振り掛ければ他におかずは要らないくらいだ。
 実はどれも幼い頃に馴染んだ味。食に恵まれなかった団塊世代の小学生時代には、カロリー・ファースト主義(?)なものばかり食べていた。要は体に悪い糖と塩そのもの。粗食のうちに育った世代は、どんな食べ物でも空腹でさえあれば美味に感じられる。齢(よわい)を重ねてからこんな粗食に回帰していては、もちろん体に良いはずもない。