斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

番外編Ⅲ 【洋画の日本語タイトル】

2017年06月20日 | 言葉
 

 洋画通にしてジャズ通、島中誠・元ニューヨーク特派員発の第3弾です。

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 洋画の日本語のタイトルには、かなりでたらめなものが多い。大別すると、原題を誤解しているものと、原題や内容を無視して勝手に作っているもの、原題をそのままカタカナに直した安直なものに分けられる。

 英語の発音を知らない
 英語を少々かじった人なら間違えようのない邦題がある。「Mad Bomber」(マッド・ボマー)を「マッド・ボンバー」にしてしまうなどその典型である。「スポンティニアス・コンバッション」は「スポンテイニアス・コンバスチョン(自然発火)」と正確に書かなければならない。「question」のように―tionの前に「s」がつくと、「ション」じゃなくて「チョン」になる。これは常識である。「自然発火」だけにしておけば、恥をさらさなくて済んだのに。

 原題の誤訳
 「戦略空軍命令」という米映画の原題は「Strategic Air Command」だった。commandだけで部隊を意味する。だから、「戦略空軍」だけでいい。命令は余計である。
 「友情ある説得」という邦題ほどバカげた例は、ほかにあるまい。原題の「The Friendly Persuasion」を、配給会社は何の考えもなしにこう翻訳したのだろう。しかし「Friendly」とは「フレンド会派」のこと、つまりクエーカー教徒のことであり、「persuasion」は信条。この映画の情報を事前に得ていたら、こんな邦題にはならなかった。主人公のゲーリー・クーパーは非戦・絶対的平和主義を信奉する男だが、その息子・アンソニー・パーキンスが武器を取り参戦するというので親子間に亀裂が生じるという内容だ。友情にも説得にも無関係の映画だから、これはひどい。

 原題を無視して失敗
 いい原題なのに、勝手な邦題をつけた例が「歌えロレッタ愛のために」。カントリー・ウエスタンの名歌手ロレッタ・リンの半生を描いた作品で、原題は「Coalminer‘s Daughter」(炭鉱夫の娘)。彼女の最大のヒット曲から題名をとっている。だから、こんな甘ったれた邦題にしないで、そのまま「炭鉱夫の娘」で良かったのである。主人公を演じたシシー・スペイシクがせっかく全曲を吹き替えなしで歌いきり、アカデミー賞主演女優賞を得たというのに、もったいない話である。作品の本質から離れた馬鹿馬鹿しい例として「忍者と悪女」(1963年、米)を挙げたい。原作はアラン・ポーの「The Raven」(大鴉)で怪奇的幻想詩。それがコメディータッチのホラー映画に化けてしまった。勿論、忍者なんて出てくるはずがない。奇抜なアイデアを出す人はどこにもいるだろう。しかし「これでよろしい」と許可を下した会社があった、ということが理解できない。

 カタカナへの置き換え
 日本の洋画配給会社が素敵な邦題をつけようと努力した形跡がないものが、いかに多いことか。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」。原題をカタカナで表しただけである。この種のものに、「リバー・ランズ・スルー・イット」がある。直訳すれば「川はその中を流れる」。原題も意味不明だが邦題も訳がわからない。「ドゥ・ザ・ライト・シング」「ネバーセイ・ネバーアゲイン」「ストレンジャー・ザン・パラダイス」「ア・フュー・グッド・マン」「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」「エンジェル・アト・マイ・テーブル」など、まともな邦題を考えろよと言いたくなるものばかりだ。「レザボア・ドッグス」。直訳すれば「貯水池の犬」。これをどう邦訳するか、大いに知恵を絞ってほしかった。
 「Paris, Texas」という原題を翻訳するのは、意外に難しい。これは「パリ、テキサス」となっているが、少々投げやりで身も蓋もない。これだとフランスの首都パリと米テキサス州を並べたもの、と思う人が多いと思う。しかし、そうではない。正確に訳せば「テキサス州パリス」なのである。しかし、パリスではわかりにくい。さんざん知恵を絞った挙句、僕は「テキサス州パリ」という案を考えた。なぜなら、「テキサス州にもパリという地名があったのか」という驚きが、この映画のテーマだからだ。映画を見れば、わかってもらえる。

 先人に学べ
 昔はしゃれた邦題が多かった。「ペペ・ル・モコ」が「望郷」。「ウォータ―ルー・ブリッジ」が「哀愁」。「サマータイム」が「旅情」。実に締まった邦題である。「慕情」の原題は「Love is a Many Splendored Thing」。これをそのままカタカナにしたら、締まりがなくなったはず。2字に短く縮めたのは結構だった。
 「Spirit of St.Louis」はリンドバーグが初の大西洋単独無着陸横断飛行に成功した時(1927年)の単葉機の愛称(セントルイス号の魂)をそのまま映画のタイトルにしたものだが、これに「翼よ!あれが巴里の灯だ」とつけたのは見事だと、多くの映画ファンや評論家が絶賛している。
 「アパートの鍵貸します」は上司の情事のために部屋を貸し、出世を図るサラリーマンの話。その原題は無味乾燥な「The Apartment」。邦題を単なる「アパート」にしていたら、映画ファンから無視ないし敬遠されたことだろう。
 グレイス・ケリーがアカデミー賞を取った「喝采」は「The Country Girl」(田舎娘)が原題だが、売れない歌手のしょぼくれた地味な女房が、一転してまばゆいばかりの女性に変身する、その過程が素晴らしかった。この邦題もかなりの飛躍があるが、許せる範囲かと思う。
 無実の罪を訴えながらガス室に送られる女死刑囚を描いたのが「I want to Live!」。「私は生きたい!」の意だが、邦題は「私は死にたくない」だった。これには感心した。合格点を与えたい。
 「ボニー・アンド・クライド」「ブッチ・キャシディ&ザ・サンダンス・キッド」という著名な悪党たち(?)の名前をあえて避けて「俺たちに明日はない」とか「明日に向って撃て!」と思い切った邦題をつけたのも買える。さらに昔にさかのぼると、仏映画「7月14日」には、「巴里祭」というしゃれた邦題を考えついた。こうした先達たちの後を追う人がいなくなったのは残念である。
   < 島中 誠(Makoto Shimanaka)>

27 【忖度(そんたく)】

2017年06月19日 | 言葉

 今や流行語
 ここ数か月で俄然クローズアップされたコトバに「忖度(そんたく)」がある。大阪・森友学園の国有地取得問題は近畿財務局絡みで、続く今治・加計学園の獣医学部新設問題は文科省絡みで、どちらも安倍首相との関連が取り沙汰され、そのたびに、このコトバが使われてきた。権限を持つ官庁の役人が、首相や首相周辺の意向を「忖度」して許認可する、といった意味で使われる。あまり好ましい使われ方ではない。
 もともと「忖度」には「他人の気持ちをおしはかる意の漢語的表現」(三省堂『新明解国語辞典』)や単に「他人の気持ちをおしはかること」(『岩波国語辞典』)という以上の意味はない。要は「気遣う」ことだから美徳の一つであり、好ましい文脈中で使われることが多かった。気遣う側と気遣われる側との上下・強弱の関係で言えば、双方が同等か、気遣う側が優位の場合の方が自然な感じはある。逆に「下の者が上の者を気遣う、思いやる」であれば、意味は「阿(おもね)る」や「へつらう」「追従(ついしょう)する」に近くなる。
 この点、最近のニュースに込められた「忖度」には「(お役人が)先回りして政治家や権力者の意向を汲(く)む」というニュアンスが強く、「阿る」に近い。ある日の新聞には「意向忖度政治」の文字もあった。「行動の主体は役人の側にあり、政治家の側から積極的に働きかけたわけではない」とでも言いたげな様子が感じられる。

 急登場した「忖度」の語
 まだ「忖度」の語が有名になる前のこと、筆者も当ブログでこの語を使ったことがあった。今年1月に載せた「20【準高齢者 高齢者 超高齢者】」の終わり近くで「エリート官僚たちは、頭脳が優秀でも他人(ひと)の気持を忖度(そんたく)することはニガテなのかもしれない」と書いた。他人の気持ちを「思いやる」ことが不得意なエリート役人だからこそ「後期高齢者」や「超高齢者」といった、高齢者なら歓迎したくないコトバを使うのだろう、という意味だ。もちろん、この時の「忖度」は、ごく普通に「他人の気持ちをおしはかる」の意味である。
 ところが間をおかず森友学園問題が世間を賑わすようになり、「忖度」なる語がしばしばメディアに登場し始めた。安倍首相ら政権側から発せられる場合が多く、意味も「役人が先回りして政治家や権力者の意向を汲む」というニュアンスに変わっていた。そこで筆者は「このままでは誤解されるかもしれない」と思い、原文を「他人(ひと)の気持を思いやることはニガテなのかもしれない」に変えてしまった。

 もとの意味をたどれば
 ここで小辞典でなく少し大きな辞書を本棚から出してみよう。『広辞苑』では「忖度」の語を「他人の心中をおしはかること。推察」と説明している。『大辞泉』では「他人の心をおしはかること」、使い方として<相手の真意を――する>を挙げている。『大辞林』は少し詳しくて「忖も度もはかる意。他人の気持ちをおしはかること。推察。<相手の心中を――する>」である。『漢語林』によると、中国最古の詩篇である『詩経』には<他人に心あり、われ之を忖度す>との一節があり、性善説の孟子もこのフレーズを引用して説いたことがあるという。
 耳慣れないコトバが登場し、新しい意味あいも加わって、メディアを通じて広く流布する。耳慣れないコトバの方が、新しいニュアンスを加えやすい。たとえば「気持ちをおしはかって」といった平易な言い回しでは「先回りして政治家の意向を汲む」という意味には変化しにくい。耳慣れないコトバであること、微妙に意味が変わること。2つの条件が揃うとコトバのトリックは成立しやすい。

 加計学園と「総理のご意向」文書
 政府は6月15日、加計学園・獣医学部新設をめぐる「総理のご意向」文書問題で、再調査結果を公表した。5月半ばまで安倍首相や菅官房長官が「怪文書のように出所も明らかでない。相手にするのもバカらしい」と一蹴していた文書である。前川・前文科省事務次官が5月25日の記者会見で「その文書は確かに存在していた」と証言するに及んで、にわかに雲行きが怪しくなり、民進党など野党が再調査を要求した。再調査の結果、文科省が「14件の文書を確認した」と発表した。14の文書中には野党側が主張してきた通り「総理のご意向」や「官邸の最高レベルが言っている」といった表現もあった。
 こうなると「怪文書」扱いしてきた政府側には、大きなダメージとなる。前川氏が会見した5月25に菅官房長官は「前川氏は(文科省の天下り問題で)責任者としてみずから辞める意向を示さず、地位に恋々としがみついていた」と、ふだん冷静な長官らしくもなく、問題をあらぬ方向へすり替えた。テレビのニュースに失笑した人は多かったかもしれない。また義家・文科省副大臣は「文書を外部に漏らせば、公務員の守秘義務違反に当たる」とも言っていた。外交・防衛機密や個人のプライバシーに関わる事項ならともかく、政権の政治姿勢を問う問題にまで「公務員の守秘義務」を云々するのは笑止である。こんな拡大解釈を通そうとするから、国民は「テロ防止法案」の適用範囲に疑義や不安を抱くのだ。
 公務員と利害関係者のゴルフ禁止(国家公務員倫理審査会の規定)や、内部告発者を保護する公益通報者保護法の制定(2004年)。にもかかわらず安倍首相は加計学園の当事者と頻繁にゴルフを楽しみ、義家副大臣は「公務員守秘義務」の御旗をチラつかせる。高い内閣支持率に支えられた安倍氏とその周辺に、気の緩みが生じているとしか思えない。

 「意向忖度」の語が生きる?
 「意向」は政権サイド、「忖度」は役人サイドの問題である。今後、前川・前事務次官の証人喚問が実現するか否かは不透明だが、実現したとしても政権サイドの「意向」の中身が、つまり政権内の誰が、どんな言葉で指示したかが明らかにならなければ、野党側は安倍政権を追い詰めることは出来ないだろう。漠とした「意向」が以心伝心のレベルで役人へ伝えられた、ということであれば、世間の目はむしろ「役人が先回りして政治家や権力者の意向を汲んだのだから、悪いのは役人の阿諛追従(あゆついしょう)の方だ」と見る。
 「忖度」というコトバへの注目度が高くなるほど、「役人サイドの問題」という印象も強くなる。最近の「忖度」は政権サイドに便利な言葉だ。

26 【唱歌「夏は来ぬ」】

2017年06月10日 | 言葉
 一、卯(う)の花の匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)はやも来鳴きて 忍び音(ね)もらす 夏は来ぬ 
 二、五月雨(さみだれ)の注ぐ山田に 早乙女(さおとめ)が裳裾(もすそ)ぬらして 玉苗植うる 夏は来ぬ
(作詞・佐佐木信綱、作曲・小山作之助)

 夏の鳥といえば、現代人はどんな鳥を思い起こすのだろうか。春にはウグイス、野にあればヒバリ。秋は雁やカモ。晩秋のカラスや冬のモズ。これらの鳥も自然に縁遠い都会や近郊では、あまりお目にかからなくなった。まして夏のホトトギスとなると、山好きな人でもなければ、まず無縁の鳥かもしれない。古歌に多く詠まれ、トウキョウ、トッキョ、キョカキョクの鳴き声で有名だが、名前の割には姿を見たことがなく、また鳴き声も聞いたこともないという人が大半ではないかと思う。
 都内ながらまだ緑濃い筆者の自宅周辺では、毎年5月の連休から梅雨入り前後にかけて、同じ夏告鳥であるカッコウの鳴き声を聞くことができた。閑古鳥の別名もあって「もの寂しい鳴き声の小鳥」とされるカッコウだが、日に日に緑が濃くなる樹林のてっぺん辺りから、高く、よく通る声を聞くのは爽やかなものだ。ところが今年も含めここ2年ほどは、さっぱり聞かない。南北に走る大きな道路の工事が始まり、農家の屋敷林が伐採された影響だろうと想像しているが、本当のところは分からない。
 
 唱歌『夏は来ぬ』の夏告鳥はカッコウ目、カッコウ科、カッコウ属、ホトトギス種のホトトギス。卯(う)の花は卯月(うづき=4月)のウツギの花だが、旧暦4月のことだから、やはり初夏の花ということになる。茎の中心が空洞になっているので空木(うつき、うづき)と名付けられ、白い花を咲かせる。筆者の自宅には紅白に咲くハコネウツギが植えてある。茎はやはり中空だが、スイカズラ科、タニウツギ属になる。身近なところではアジサイの茎も中空構造だが、こちらもウツギとは異なりアジサイ科のアジサイ属である。

 三、橘の薫る軒端(のきば)の 窓近く蛍飛びかい 怠り諫(いさ)むる 夏は来ぬ
 四、楝(おうち)散る川辺の宿の 門(かど)遠く水鶏(くいな)声して 夕月涼しき 夏は来ぬ
 五、さつきやみ蛍飛びかい 水鶏鳴き卯の花咲きて 早苗植えわたす 夏は来ぬ


 ウツギの垣根は昔なら珍しくなかったようだが、今では農家が畑の境い目などに植えている程度だろうか。問題は「匂う」である。いつかネットの書き込みに「いくら鼻を近づけても、うの花は臭いがしなかった」とあるのを見かけた。国語辞書には<「匂う」は良い香り、「臭う」は悪臭の場合に使う>と載っているが、古語の「匂う」は「美しく映えて見える」の意味、つまり嗅覚ではなく視覚を表現するコトバ。歌詞は「うの花が美しく咲く垣根に、ホトトギスが早々と来て鳴いている」という意味だ。
 よく知られている「匂う」の用例には江戸期の国学者、本居宣長の「しきしまの大和心(やまとごころ)を人問(ひとと)わば 朝日に匂う山桜花」という短歌がある。「朝日に照り映える山桜の花こそ、やまと心の象徴である」の意味。南北朝の対立で奈良・吉野山に拠った後醍醐天皇を「朝日」にたとえ、後醍醐天皇を支えようと忠誠を尽くす楠木正成らを「山桜」にたとえて、「やまと心は、かくありたいものだ」言っている。朝日新聞の題字デザインは「朝日」の字と山桜の花とで構成され、宣長の歌に由来する。
 ちなみに筆者が卒業した埼玉県南の小学校の校歌は、「ムラサキ匂う、武蔵野の……」という歌い出し。校歌に結構多いフレーズのようだ。万葉の昔から染料に用いられ、やはり初夏から夏にかけて白い小さな花を咲かせるムラサキ。歌詞など覚えようと努力したわけでもないのに、幼い頃の記憶はしっかり残っている。

 『夏は来ぬ』の歌詞の特徴
 記者時代に唱歌『夏は来ぬ』について取材したことがある。カラーの別刷り紙面「日曜版」の連載企画で、企画の発案者も担当デスクも筆者だった。初夏スタートの連載だったので、初回に『夏は来ぬ』を予定し、とりあえず見本をと筆者が原稿を書くことにした。ところが筆者は「うの花」について誤解しているところがあり、急きょ島崎藤村作詞の『椰子の実』を書いて差し替え、『夏は来ぬ』は後回しにすることにした。そんなドタバタがあったせいで『夏は来ぬ』の取材のことも、よく憶えている。(この時の連載は現在、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』として本になっています。よろしければ、ご参照ください)
 近代歌壇の巨星にして万葉集研究の第一人者だった佐佐木信綱は、明治5年、三重県鈴鹿市の生まれ。代々が歌詠みの家系だったので4、5歳の頃から万葉、古今、山家集などの秀歌を暗唱させられた。暗唱は古くから歌道の指導法で、この唱歌の作詞にも大きな意味を持った。信綱の秘書だった村田邦夫氏によると、万葉集には「うの花」を歌ったものが22例あり、うち17例が「ほととぎす」との組み合わせだという。つまり「うの花」の垣根で「ほととぎす」が鳴く構図は、万葉の昔からの伝統的なものであった。他にも二番の歌詞「五月雨(さみだれ)のそそぐ山田に 早乙女(さおとめ)が裳裾(もすそ)濡らして」は、「五月雨に裳裾濡らして植うる田を 君が千歳(ちとせ)のみまくさにせむ」という『栄花集』の古歌に似ているし、三番歌詞にある「橘の薫(かお)る軒端(のきば)の」と五番歌詞「五月闇(さつきやみ)ほたる飛びかい」は『詞花集』の古歌「五月闇花橘に吹く風は たが里までかにほいゆくらん」の「橘」と「五月闇」の組み合わせに似ている。また『源氏物語』の「花散里(はなちるさと)の巻」には「橘」と「ほととぎす」の、「澪標(みおつくし)の巻」には「五月闇」と「水鶏(くいな=四番歌詞)」の組み合わせがあり、『夏は来ぬ』との共通点が顕著だ。
 つまり『夏は来ぬ』の歌詞は、見聞した情景を佐佐木氏がゼロから描写したのではなく、すでにある伝統的な美意識を組み合わせて作ったのである。古歌を知り尽した佐佐木信綱氏であればこそ、書けた歌詞だったと言える。『夏は来ぬ』に伝わる京都や奈良の古都の空気や、古歌の雅(みやび)なトーンの背景には、そのような事情があった。

 現代語と古語
 「匂う」の語に限らず、明治や大正期の唱歌には古語が使われたものが多い。たとえば「真白き富士の根 緑の江の島……」という歌い出しの唱歌『真白き富士の根』。連載当時、読者から「どうして『根』なのですか?」と電話で質問されたことがあった。高低で言うと反対の印象だが、古語の「根」には「嶺」「峰」の意味がある。日光白根山や草津白根山のほか南アルプスの白根三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)など。「白い嶺」つまり山頂に雪をかぶる高山の意味だ。幼い頃に丸暗記で覚えた唱歌も、改めてその歌詞を調べ直してみると、思わぬ発見があって楽しい。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した「夏は来ぬ」の項を、書き改めたものです)

番外編Ⅱ 【ん? このカタカナ語の表記!】

2017年06月07日 | 言葉
 島中誠・元ニューヨーク特派員発の第2弾です。ハッと驚き、クスッと笑ってしまう内容です。
 
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 外国語、とりわけ英語を日本語に取り込む際に、もとの発音を忠実に守らず、勝手な表記にしているケースが実に多い。嘆かわしいが、いったん定着した誤表記は直りそうにない。僕1人が何を言っても、衆寡敵せずである。

 英語には日本語にない発音が多い。そのうえ、英単語にはサイレントといって、特定のアルファベットが「無音」になるものが無数にある。これを「黙字」というが、ごく簡単な例で言えば「light」「night」の「gh」で、これを読まないことは常識である。「know」や「knife」の「k」、「hour」や「honest」の「h」も、「sign」「campaign」の「g」も「write」「wrong」の「w」もそうである。
 「b」が最後についた場合も、無音となり、発音されない。「bomb」や「climb」などである。「bomb」(爆弾)はボム。爆弾を投下する爆撃機、落とす兵士は「bomber」で、当然ボマーとなるが、わが国ではボンバーという。「ボンバーなんとか」という芸人がいるが、恥ずかしいことだ。ある英和辞書が「bomb」の発音記号を書き、すぐ下に「発音に注意」と付記しているのは親切だが、「bomber jacket」の訳に「ボンバージャケット」と書いたのは信じられない所業である。
 「w」「y」「v」「f」「r」なども日本語とは違う。「yell」(泣きわめく)は「エール」ではない。口に力をこめて「イエ」と言わなくてはいけない。「fair way」のことを、ゴルフの青木プロは「ヘア・ウエー」という。ことほど左様に、日本人は「フェ」が苦手である。

 「award」(賞)を「アワード」と言ったり書いたりする。これにはホトホトいやになる。今や修正できないほど広まってしまった。「war」は誰が読んでもウォーであり、ワーではない。どうして「アウォード」にしないのだろうか。
 銀行筋では詐欺のことを「フラウド」と言うのが通例になっている。「fraud」はあくまでもフロードである。今のうちに直してもらいたいが、もう遅いかもしれない。もう1つ許せないのが「リラクゼーション」。カタカナ語辞典の見出し語に「リラクゼーション」があり、その説明に「英語ではリラクセーションである」と書いている。これは本末転倒で、最初から「リラクセーション」を見出し語に出し、「『リラクゼーション』は誤り」と書けばいいではないか。「relaxation」の「~xation」と「civilization」「globalization」の「~zation」をごっちゃにしては困るのである。

 英語の「th」の発音ほど厄介なものはない。その表記に日本人はさんざん苦しめられできた。「the」は「ザ」と書くのが通例だが、「this」は「ディス」と書く。「think tank」はシンクタンクとなる。一体、どう書きゃいいんだ、と関係者はみな頭を抱えてきた。「Mathis」という歌手名はずっと「マティス」だった。すると「Spieth」というゴルファーは「スピート」かというと、「スピース」にしてしまった。仕方がないことかもしれない。
 読売新聞社が発行していた「THIS IS」という雑誌、これを編集者や販売担当が発音するのにひと苦労していた。「ジス・イズ」です、「ディス・イズ」という月刊誌です、と電話で大声を出しても、相手にわかってもらえず、何度も「ハァ?」と聞き返されていた。こんな愚かな誌名を考えた人の気が知れない。

 「VIP」(very important person=要人)を「ビップ」という人が圧倒的に多い。これは「ヴィーアイピー」とアルファベットそのままに発音しなければいけない。「USA」を「ユーサ」とは言わない。「CIA」や「FBI」も、そのまま読む。ルールがあればいいのだが、そうはいかない。逆に、ペットボトルのPETやAIDSやレーザー光線のlaser、radarは、専門語で「acronym」(頭字語)と言い、頭の部分だけをつなぎ合わせたら、まるで1つの言葉のようになった略語で、VIPはこれと違う。ややこしいが、ビップと言わないと覚えるしかないのである。「entertainment」が「エンターテイメント」になり、「alignment」が「アライメント」になるように、日本人は「n」を無視する。「n」と日本語の「ん」はまるで違うのに、である。

 オックスフォード辞典が選んだ2016年の流行語は「post truth」だった。これを「ポスト・トゥルース」と我が国の新聞雑誌は書いている。「truth」も日本語で書きにくい。
 作家のMark Twainをわが国では「トウェイン」と書く。どう発音するのか。僕にはできない。
 Truman大統領は「トルーマン」だった。「トウルーマン」なんて書く人はいない。twoはツーであり、誰もトゥーなんて言わない、ワンツースリーと言うではないか。どうせ、元の発音を日本語で表記なんかできないのだから、ツウェインでいいし、ツルーマンでもよかったんじゃないか、と思う。
 最後に一言。我が国の製靴業界では、靴の幅(width)のことを「ワイズ」と書く。たしかに「ウィドゥス」とは書きにくい。だからと言って「ワイズ」はないだろう。日本語の「幅」を使えばいいのであって、何も、カタカナで書く必要がないのである。
   < 島中 誠 (Makoto Shimanaka)>

25 【トランプのトランプ】

2017年06月05日 | 言葉
 パックンの提案
 知性派の米国人お笑い芸人、パックン(パトリック・ハーラン氏)が、ずいぶん前のテレビ番組で、ドナルド・トランプ(ドナルド・ジョン・トランプ)米大統領の言動について「これからは『トランプのトランプ』と言うことにしたら、どうですかネ」と提案していた。グッドアイデアだと思ったが、その後このコトバをマスメディアで見聞きしたことはない。どうやらスルーされたようだ。
 Donald John Trumpの「Trump」は、トランプゲームのトランプと綴りが同じ。楽器のトランペット(trumpet)にも通じ、古くはtrumpに「ラッパ、ラッパの音」という意味もあった。日本でも大げさな言い方を指して「ラッパを吹く」と言うが、類語の「trumpery」には「見かけ倒しのもの、いかさまもの、たわごと」を意味する名詞と形容詞とがある(三省堂『コンサイス英和辞典』)。米国民主党の支持者と公言するパックンであるから、共和党のトランプ大統領に対する手厳しさは当然かもしれないが、日本人の耳にもスンナリ入って来やすい。「トランプのトランプ」ならシャレになっていて、しかも語呂が良い。彼の言動はまさに「ラッパ吹き」そのものだ。ドイツ系移民の子孫とのことだが、ご先祖様はよくぞ「トランプ」なるファミリィネームを名乗ったものだと感心させられる。

 計算ずくか?
 2012年5月30日付ニューズウィーク誌で「バラク・オバマ前大統領はケニア生まれ。違うなら出生証明書を見せるべきだ」と言って物議をかもした。誤りと分かって後で発言を撤回したが、この際「オバマに出生情報を提出させたのだから成功だ」と負け惜しみを言った。自画自賛の負け惜しみとは裏腹に、トランプ氏の軽薄さと人種差別意識を印象付ける結果となった。ただし、これらも考えようによっては「どうせ相手にされないなら、目立つ言動をしておいた方がトクだ」という、計算ずくの作戦だと受け取れなくもない。
 特に米大統領選挙前には「この人は計算ずくで言っているのではないか」と思わせるものが多かった。たとえばメキシコからの不法移民問題や、日本の防衛費負担問題など。不法移民は頭の痛い問題には違いないが、安い労働力がアメリカの国内経済を支えている側面もある。日本の企業が安い労働力を求めて中国やベトナムに工場を造るのと同じだ。日本の防衛力にしても「思いやり予算」を知る日本側には、ひと言聞いてトランプの「ラッパ吹き」ぶりを見抜く識者が多かった。米軍の日本駐留経費は7割以上が日本側の負担であり、太平洋、北東アジアから中東までカバーする米国第七艦隊も、日本側の支援には少なからざるものがある。さすがにトランプ大統領も就任後は日本側の負担増を口にしなくなった。
 ところが今になって振り返れば、トランプ氏の「ラッパ吹き」は大統領選挙では効果的だったとの解釈も成り立つ。米国民のほぼ全員が「思いやり予算」や第七艦隊支援の事実を知らないから、トランプ候補が「日本はアメリカの軍事力に『タダ乗り』している。今後は応分の負担をさせるべきだ」と主張すれば、米国内の有権者は「今までの民主党政権は、そんな国費の無駄遣いを許していたのか?」と考える。トランプ陣営にとれば、たとえ日本国内で事実誤認を指摘されても、米国民が信じて自票に結びつくなら、カエルのツラに何とやら、である。「メキシコ移民に雇用を奪われる」も同様。計算ずくとは、そういうことだ。

 当選後もフェイク・ニュースの意図
 2016年11月に相次いで流れた「ローマ法王はトランプ氏を支持している」や「ヒラリー氏が重病を隠している」は、フェイスブックなどのSNSによりたちまち拡散した。トランプ陣営の意図的なフェイク・ニュース作戦である。クリントン陣営も同じ作戦で応じれば泥仕合になるところだが、良識派の多いクリントン側はさすがに応じなかった。
 日本でも首長選のような対立2候補の選挙戦がデマ合戦の泥仕合になることは、しばしばあった。ときに公共工事の利権がらみだったり、ときに下ネタがらみだったりで、怪文書が出回ることも多い。しかし選挙が終われば、泥仕合も手打ちとなるのが通例だ。ところが今回の米大統領選では新大統領誕生後も延々と続き、かつフェイク情報の発信源が新大統領自身だというのだから理解に苦しむ。するとフェイク情報は、大統領選に向けた計算ずくの作戦ではなかったのか。それとも選挙後のフェイクには別の意図が隠されているのか。
 大統領選挙後に注目を集めたフェイク情報といえば、トランプ大統領が3月4日のツイッターで「昨年10月に私の電話がオバマ大統領に盗聴された」と書き込んだ一件がある。重大視した米共和党の重鎮ジョン・マケイン上院軍事委員長が3月12日になって「放置すれば政府活動への国民の信頼を損なう。主張の証拠を提出できないなら、発言の撤回を」と提案した。16日の上院情報特別委員会では委員長(共和党)と副委員長(民主党)が連名で「盗聴の証拠なし」と結論している。ここに至ると、ますますトランプ氏は自分で自分を八方ふさがりの状態へと追い込んでしまった印象が強い。
 6月1日、トランプ大統領は「地球温暖化はデッチ上げ」として、地球温暖化対策の「パリ協定」から脱退を表明した。「デッチ上げ」という認識は、どこから来るのか。計算ずくでなく認識の未熟さ、勉強不足ということなら、より事は重大だ。本人が否定しても米国は依然として世界の警察官である。そのトップが、かくも未熟で勉強不足では世界中が迷惑する。
 あまりに突飛な言動に接すると、人はそのまま受け容れることができず「言動の裏に何か隠されたものがあるのでは?」と勘繰ってしまう。アメリカ大統領のような立場の人から発せられたものであれば、なおさらだ。しかしトランプ大統領の「トランペット」については、そろそろ考え直した方が良いかもしれない。「ラッパ吹き」と受けとめることは希望的観測に過ぎず、残念ながら本音、本心と受けとめるのが正解だろう。

 アメリカ第一主義はアナクロニズム
 確かに過去のアメリカ政治は国際協調主義と一国主義との間で揺れ動いてきた。しかし現代は輸送やIT技術、情報が世界を一つに結ぶグローバリズムの時代である。巨大経済大国であればこそ、経済・貿易面で世界と協調することが生き残る道だ。200年前のモンロー主義に後戻りするようなことはアナクロニズムである。それでなくとも昨日まで反グローバリズムの一番手だった国までが、スキをついて世界のリーダーになり替わろうと虎視眈眈なのである。

番外編 【「アンドリュー」考】

2017年06月03日 | 言葉

 筆者(斉東)の新聞社時代の先輩である島中誠氏(元ニューヨーク特派員)より、以下のようなメールが寄せられました。興味深い内容なので、氏の了解を得て転載いたします。

  *   *   *   *   *

 6月2日付け読売新聞朝刊のコラム編集手帳に「7代目アンドルー・ジャクソン大統領」という記述がありました。「アンドリュー」ではなく、「アンドルー」と書いていたことには驚きましたね。編集手帳をめったに誉めない僕も大いに感心し、本社に電話しました。いったい、何に感心したのか。
 「Andrew」、あるいは「Andrews」をわが国ではずっと「アンドリュー(ス)」と書いてきました。ゴルフ場の聖地(St.Andrews)、イギリスの王子(Prince Andrew)、女優・歌手(Julie Andrews)みなしかりです。どんな英和辞書を引いても、インターネットの発音辞典で聞いても「アンドルー(ス)」になっているのに、どうして「アンドリュー」と書くのか、いまだに不思議に思っているのです。

 僕は何年もかけて、この「rew(s)」の発音について調べましたが、「brew」も「crew」も「drew」も「grew」も、全て「ルー(ru:)」です。当然スクリューもスクルーと書かなければいけないのです。「グリュー」だの「ドリュー」だのでは、何か気持ちが悪い。米メジャー・リーグのMilwaukee Brewersはブルワーズと書かれています。これは例外的に珍しく正しい表記と言えます。
 結局、僕が出した結論は<英語の発音には日本語の「竜」「流」などの「りゅう」に当たる「ryu:」がない>というものでした。石川遼君が米ツアーに参戦したころ、記者会見で現地ゴルフ記者から「君のRyoという名前は発音しにくいね」と言われました。遼君は「じゃあ、Rioでいいです」と当意即妙に答えた。すると「そうか、それなら発音しやすい」と歓迎されたことがあった。Rio de Janeiro、Rio GrandeなどのRioならだれでも知っていて、発音できます。「Ryo」の発音が英米人には難しい!これは僕にとって一大発見でした。Ryoが難しければ、ryuはもっと難しいことになります。

 ここ数か月、「アンドリュー・」ジャクソン大統領が頻繁に登場するのは、米英戦争で英雄になり、初の“平民大統領”として登場したこの人物をトランプ大統領が尊敬し、その肖像画を執務室に飾ったから。いい機会なので、この辺で「アンドルー」に統一してもらいたいと思っています。

 中公文庫に「カーネギー自伝」がありますが、訳者の坂西志保さん、解説の亀井俊介さんがそろって「アンドリュー」と書いていることに、いたく落胆したものです。英米文化を紹介する専門家がこれですからね。
 ついでに――昨年レイア姫ことCarrie Fisherが亡くなりましたが、訃報記事に「彼女の両親はDebbie ReynoldsとEddie Fisherである」と書いたところがほとんどなかった。一部に「母はデビー・レイノルズ」と書かれていましたが、Reynoldsはレノルズないしレナルズであってレイノルズとは発音しない。なんとひどい表記でしょうか。
 などと今更僕が騒いでも手遅れだということは重々承知しているのですが。
    < 島中 誠 (Makoto Shimanaka)>