斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

24 【続・辛酸入佳境】

2017年05月29日 | 言葉
 右翼からも支持された田中正造
 足尾銅山に対する渡良瀬川流域住民の闘争は、日本における反公害運動の嚆矢(こうし、かぶらや)とされる。つまり田中正造は日本の反公害闘争史上、最初のリーダーだった。現代の感覚からすれば左翼的な人物という印象だが、むしろ典型的な明治人であり、熱烈な天皇主義者である。明治22年の日本帝国憲法(明治憲法)発布式には栃木県議会議長として参列し、後年回顧して「畏くも両陛下出御の御英姿を拝したる時、斯くてこそ我が日の本は無窮安泰なるべしと、えに言われぬ神秘の感に打たれたり」と、感激の様子を書き残している。
 議会演説では常に鉱毒被害農民を「天皇陛下の赤子」にたとえ、鉱毒被害の無策は「帝国憲法に反する」と訴えた。なにより明治34年の天皇直訴は、天皇崇拝ゆえの行動だった。正造の分骨を祀った神社、栃木市藤岡町の田中霊祠(れいし)境内には、右翼の大物・頭山満が寄せた「義気堂々貫白虹」の石碑も建てられている。「白虹」とは日暈(ひかさ、にちうん)のこと。古代中国では「白虹、太陽を貫く」は反乱やクーデターの兆しを意味し、テロリスト荊軻(けいか)が秦の始皇帝を暗殺しようとした時、白虹が太陽を貫いたとの故事がある。

 キリスト教への傾斜
 左翼陣営も翁を支持した。『谷中村滅亡史』を書いた荒畑寒村、東京・神田での鉱毒反対演説会にたびたび参加していた堺利彦や河上肇、キリスト教社会運動家だった木下尚江や安部磯雄、天皇直訴文を草稿した幸徳秋水らである。キリスト教関係では安部、木下両氏のほか、晩年の翁が深く私淑したとされる新井奥𨗉(おうすい)、救世軍のブース大将、潮田千勢子ら日本キリスト教婦人矯風会のメンバーたちがいる。なかでも翁の臨終にも立ち会った木下尚江の存在は大きかった。
 正造が初めて聖書を手にしたのは議員辞職後の明治35年春、いわゆる「大あくび事件」で41日間の禁固刑に処せられた時で、差し入れの聖書を熟読した(木下尚江『田中正造翁』)。62歳だったから意外に遅い。キリスト教へ改宗はしなかったが、2年後の谷中村入り以後の正造には、キリスト教の影響が色濃く見て取れる。大正2年9月、死の床に就いた翁の所持品は、菅笠と信玄袋で、袋の中身は帝国憲法と新約聖書、日記3冊、採取した川海苔と小石3個だった。
 聖書を読むようになってからの正造翁は「政治のため20年、損をした」と周囲に語るようになった。同じ頃、基督教青年会に招かれて神田で講演した時は「真の平和というものは、聖人が出なければ、来るものではない。東洋久しく聖人が出ない。今度は日本から出る番である」とも述べている。栃木県議初当選から衆議院議員を辞すまでの20年間の政治活動を否定し、聖書を道標に鉱毒被害民救済への途を探ろうとした。

 正造翁が目指したものと、谷中村村民たちが望んだもの
 ここで谷中村農民たちの側から考えてみたい。正造みずから谷中村で自分たちと起居を共にし始めたことを農民たちは心強く思い、正造の誠実さを痛感しただろう。しかし一方で正造が国会議員を辞めたこと、すなわち政治力を失うこと、ないしは弱まることを歓迎したのだろうか。谷中村を廃村の危機から救い、谷中村復活の夢をかなえさせる方法があるとすれば、現実には政治の力以外にない。増額した議員歳費をもらっても構わないから、国会で農民の声を代弁し続けてくれることを願ったのではないか。
<谷中と銅山の戦いなり。官権之に加わりて銅山を助く。人民死を以って守る。何を守る。憲法を守り、自治の権を守り、祖先を守り、ここに死を以って守る>
 よく知られている翁のコトバ。平田東助・内相に面会する前日、明治43年4月1日の日記にあるから、この通りのコトバで内相へ訴えたのだろう。旧谷中村で16戸の農民が残留し続ける理由は「憲法を守り、自治の権を守り」というのだから、まことに立派である。立派ではあるが、それでなくても疲労困憊した農民に「憲法と自治の権を守る」役割まで背負わせるようで、心苦しい気持ちになってくる。現実より理念優先、あえて言えばイデオロギー過剰である。

 現実的な救済策の途はなかったか
 地域住民が大規模な国家的プロジェクトにより移転を余儀なくされる例は昔も今もある。ダムの湖底に沈んだ例があり、空港滑走路予定地として先祖伝来の農地を手放さなければならなかったケースもある。だが、どの場合も、それなりに補償などの救済策が講じられた。この点、いかに日露戦争で財政逼迫の時代だったとは言え、栃木県と国とが谷中村民に提示した移転案は、あまりにも納得し難い。
 まず鉱毒汚染を理由に買収予定農地の土地評価額を低く抑えた栃木県のやり方である。農地の鉱毒汚染に農民は何ら責任がないのに、汚染後の低い土地評価額で買収価格を決められてはスジが通らない。代替の移転地として県があっせんした那須高原も農地に不向きなうえ、昔からの地元農民が「よそ者は去れ」と、入植した旧谷中農民宅へ押し掛けて来る始末。事前の調査・調整不足は、ずさんな行政のゆえのこと。約束だった移転経費も県は支払わなかった。それでいて県の某高官は、代替地への移転経費を低く抑えた報奨として、国から当時の金額で数百円を与えられた。とんでもない話だ。
 翁が政治家として国政の場で正論を吐き続けていた方が、農民たちの力になれたはずである。正造翁が国政の場から去り、旧谷中村内へ引っ込んでくれたおかげで、為政者たちが胸を撫で下ろしたことは間違いない。

 政治と宗教、あるいは政治家と宗教家
 政治家として生きることと宗教家として、あるいは宗教的倫理観を高く掲げた社会運動家として生きることとは、おのずと異なる。政治家として手を汚してでも、弱い立場の谷中農民を守り抜くことが、真に求められた姿だったように思う。鉱毒に生命を脅かされた渡良瀬川沿岸の農民たちが、帝国憲法や自治の崇高な理念に無関心で、素朴に「元の農地に戻せ」と主張するだけであっても、国民の共感を得られたことだろう。しかし翁の言説は、ますます理念で飾られるようになった。
 田中正造翁に最後まで従った16戸の残留農民の「辛酸」も、翁が味わった「辛酸」に決して劣らなかったはずだ。翁の生き方に限りない敬意と称賛、共感を覚える一方で、リーダーとしての足跡には一抹の疑義を抱かざるを得ない。


23 【辛酸入佳境】

2017年05月23日 | 言葉
 田中正造の境地
 ここ3か月ほどの間、明治から大正初めに栃木県・足尾銅山の鉱毒問題で奮闘した田中正造翁の関連本を集中的に読んでいた。城山三郎の『辛酸』や大鹿卓『渡良瀬川』『谷中村事件』、立松和平『毒』『恩寵の谷』といった小説群、木下尚江『田中正造翁』や荒畑寒村『谷中村滅亡史』などのノンフィクションを読み直し、新たに島田宗三著『田中正造翁余録』上下巻、布川了『田中正造と天皇直訴事件』、佐江衆一『洪水を歩む』、東海林吉郎・菅井益郎の共著『通史 足尾鉱毒事件』ほかを読んだ。改めて翁の気骨あふれる生きざまに感動させられた。
 「辛酸入佳境 楽亦在其中」は正造翁が晩年好んで揮毫(きごう)したコトバである。しんさん、かきょうにいる、たのしみまた、そのなかにあり。辛酸は辛(から)く酸っぱいこと。「辛酸をなめる」と言えば、あらゆる苦労を経験し尽くす、という意味だ。「佳境」は「何とも言えず素晴らしい所」(『岩波国語辞典』)、「物事が進行して興趣をそそられるようになった所」(『新明解国語辞典」)の意味だから、「辛酸入佳境」は逆説的な言い方である。後半の「楽亦在其中」は「楽しみは辛酸の中にこそある」の意。自分の死が視野に入ってなお、あえて「辛酸入佳境」と吐露するのは、どんな気持ちだろうか。強靭な精神と覚悟を要するコトバであるのは間違いない。
 生老病死の旅路をたどるのは、生きる者すべての宿命だ。老から病、死への途で万人を待ち受けるのは「辛酸」の境地かもしれない。しかし正造翁の場合、そのような意味合いの「辛酸」とは大いに違った。

 正造翁のたどった道
 明治10年、渡良瀬川の上流で江戸時代から掘削されていた足尾銅山の経営権を政商・古河市兵衛が引き継いだ。以来明治政府の殖産興業政策のもと、陸奥宗光(元外務大臣)や原敬(元内務大臣、首相)らの有力政治家と結び付いた古河市兵衛は、足尾銅山の拡張と増産への道を突き進む。その結果、銅精練の過程で生じた亜硫酸ガスや処理廃液が、渡良瀬川流域一帯の森や農地を汚染し、広い範囲に渡って深刻な健康被害と農作物被害をもたらした。
 田中正造は天保12年(1841年)、栃木県安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)に生まれた。明治13年、40歳で栃木県議会議員初当選。46歳、栃木県議会議長へ。県議時代から反足尾鉱毒闘争の先頭に立ち、50歳で衆議院議員初当選するや、足場を国会に移した。舌鋒鋭い国会質問の数々は、憲政史上に残るものだ。折悪しく日露戦争遂行と国力増強とを急務とした国は、一地方で起きた公害被害になど一顧だにしない。6期務めた正造は国会議員の限界を感じ、明治34年、61歳で衆議院議員を辞した。2か月後、問題の改善を求めて天皇に直訴。議員辞職は、身を軽くしておこうという直訴の伏線だった。世論は沸騰するも一過性に終わり、翁を売名行為と謗(そし)る声も出た。

 細る資金、離反する反対派農民
 天皇直訴をもって田中正造の、人生のピークとする見方もある。衆院の議場を圧した演説が消え、旧谷中村の農民の一人として運動を続けた正造翁だったから、新聞の活字となる機会は激減した。しかし正造翁が真に正造翁らしく変貌するのは、実はこれ以後である。まさに「辛酸入佳境」の境地になってからのことだ。
 その前に2つの出来事に触れておくべきだろう。まず議員歳費辞退がある。明治32年3月、田中正造は第2次山県有朋内閣が提案した議員歳費増加案に対し、憲政本党を代表して反対演説に立った。増税案を通すため見返りに議員歳費を上げて反対意見を抑え込もうとする、姑息な提案だったから、正義漢・正造の反対演説は激越を極めた。しかし憲政本党の反対むなしく歳費増加案は可決。すると正造は衆院議長に「歳費辞退届書」を提出した。増加分ばかりか歳費の一切を返上しようというのだ。このような挙に出た国会議員は正造1人だけ。もとより歳費以外に収入源のない貧乏代議士だったから、たちまち生活に窮した。反対派事務所の維持管理費、東京への汽車賃、裁判のための諸経費、果ては日々の生活費用まで、金がなくては回転しないのが浮世の現実だ。翌34年10月には議員の職までも辞した。
 次の出来事は反対派農民の離反である。明治33年に100人超の逮捕者を出した川俣事件(第4回鉱毒民東京大押し出し)以後、官憲の弾圧は厳しく、ために運動を離れる農民が相次いだ。下流の谷中村廃村や河川改修方法に運動の焦点が移ったという事情もあった。明治38年、国と栃木県は遊水池(貯水池、のちに遊水地)造成に着手。渡良瀬川の洪水により周辺農地が鉱毒に汚染されること防ぎ、下流の首都東京を鉱毒水から守るため、である。貯水池の予定地となる約450戸、人口約2700人(38年の時点で)の谷中村は廃村と決まった。鉱毒被害のツケは、足尾銅山の所有者である古河鉱業でも国でもなく、多大な被害を受けた旧谷中村の農民たちへ押し付けられた。
 旧谷中村1村を犠牲にして遊水池を造れば、周囲町村へ洪水は及ばず、洪水がもたらす鉱毒被害から免れられる。国や県による反対派への分断策でもあり、狙い通り旧谷中村民と、それ以外の住民との間には、微妙な亀裂が生じた。やがて運動を共に戦った隣村の民も、谷中村民に犠牲を強いる考えに傾いた。正造の右腕として奔走していた元学生でさえ、知らぬ間に栃木県の土木吏に採用され、谷中村から農民を追い出す側に回ってしまった。

 正造の「辛酸」と残留農民の「辛酸」
 これより1年前の37年夏、64歳の正造翁は身一つで谷中村に入り、農民の家に寝泊まりしながら、ホームレス同然の身なりで廃村阻止運動の先頭に立っていた。明治40年6月、最後まで移転を拒否して谷中に残った16戸の農家に対し、国と県は家屋を強制撤去する。なおも農民たちは廃材を組んだ仮小屋で谷中村残留を続け、翁も雨漏りする寝床で眠れぬ夜に耐えた。まさに「辛酸」の日々。正造の味わった真の「辛酸」は、国や県の悪政にも増して、かつて翁に従っていた仲間の裏切りに因(よ)るものでもあったのかもしれない。
 仮小屋生活10年目の大正2年9月、正造死去。胃がんだった。享年71。正造に従い「谷中村復活」を信じて残留を続けていた16戸の残留農民たちも、大正6年2月をもって旧谷中村外へ去った。「谷中村復活」は夢で終わった。
 正造の「辛酸」は語られても、夢ついえた16戸残留農民は黙して無念を語らず、舐(な)め尽くしたであろう農民の「辛酸」の数々は見落とされがちだ。たぶん翁のように「佳境」とは受けとめなかったのではないか。ここで1つの疑問がわく。田中正造はリーダーとして、ふさわしかったのだろうか。【続・辛酸入佳境】で考えてみたい。