斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

47 【野の仏たち】

2018年06月28日 | 言葉

 <祈る>という行為を不思議に思うことがある。神仏を信じない自分のような人間が、時に論理を超えて両手を合わせてしまうことを、どう説明すれば良いのか。手を合わせるのは決まって野中の石仏。春の砂塵に吹かれ、夏の炎天に耐え、秋は台風による増水に身を浸し、冬は寒風と氷雨に凍える。飢饉で苦しむ江戸の昔から野に立ち、幾度かの戦争を経て平和な世に至った現代まで、幾千幾万の人々の祈りに耳傾けてきたに違いない。なかば摩滅した顔で微笑む姿に、石に過ぎないと承知しつつも感情移入している自分に驚く。
 野仏の前で膝まずき祈った往時の人たちに思いを馳せれば、さらに感慨は深くなる。名もなき幾万の人の生の軌跡を、石仏の肩越しに想像してみるからだ。どの祈りにも、それぞれの希望と苦しみ、悲しみが凝縮されていたのだろう。

 地蔵菩薩
 石仏の代表といえば地蔵菩薩。如来、菩薩、明王、天と区別される仏たちのうち、如来と菩薩は仏教本来のもので、明王と天はインドのヒンドゥー教が出自(しゅつじ)とされる。悟りの境地に達した如来は粗衣姿だが、菩薩は俗世の欲から脱し切っていないので宝冠をかぶり、宝石を散りばめたネックレスで身を飾る。唯一、菩薩であっても宝飾品と無縁なのが地蔵菩薩だ。無欲なところも庶民に慕われる理由の1つかもしれない。
 石仏の顔は、彫り進むうちに彫手の身近な人に似てくる、とも。穏やかな表情の地蔵や女性顔の如意輪観音を見ていると、確かに「どこかで見た顔だな」と思う時がある。憤怒相の仏像が多いなか、これも地蔵が愛される理由の1つだろうか。

 六道の辻に立って死後の衆生を救済する仏様であり、昔から善男善女の信仰は篤(あつ)い。名の通り地下の恵みをつかさどり、人の糧である農作物を送り出すのも地蔵菩薩の仕事といわれる。ちなみに天空の恵みは虚空蔵(こくうぞう)菩薩がつかさどる。空海こと弘法大師と縁の深い菩薩だが、地蔵菩薩ほどポピュラーではない。ずっと昔、埼玉県荒川中流の河川敷に虚空蔵菩薩があると聞いて訪ねたことがあった。田中の小道を行くと、木に「虚空蔵菩薩」と文字を彫り込んだ質素な1体が建っていた。地蔵様と違ってポピュラーでないから、顔かたちは彫りにくかったのかもしれない。やや落胆する一方で「誰が何を供養しようとして、なじみの薄い虚空蔵菩薩を建てたのだろう?」と想像を掻き立てられた。建物のたぐいが一切なく、だだっ広いだけの河川敷には、田植えを終えた一面の水田と青空が見えるばかり。「虚空」の名にふさわしいロケーションであることは間違いなかった。
<地蔵会(え)や線香燃ゆる草の中>(高浜虚子)
<さまよへるちさき蛍や地蔵盆>(五十崎古郷)
 地蔵盆(地蔵会)は8月24日に催される地蔵菩薩の縁日。子供たちが花や団子を供え、地方によっては石地蔵の顔に白粉を塗ってあげる風習も。

 庚申塔
 いくら来世の素晴らしさを説かれても、少しでも長く現世にとどまりたいと願うのが人情。おのれ1人が極楽浄土へ往生出来たところで、残された幼な子は悲しみ、一家の生活は困窮する。そこで、現世での延命を願う庚申(こうしん)信仰が盛んになった。中国・道教の影響が濃いとされるが、日本でも平安時代すでにあり、江戸から明治にかけて特に農山村で盛んだった。イワレが面白い。『太上三戸申経』というお経によると、身体には三戸(さんし)と呼ばれる虫の一種が宿っており、60日に1度の「庚申(かのえさる)の日」の夜、眠っている人の体から抜け出しては、天帝に罪過を告げ口しようと昇天する。罪過が500条に及ぶと人は必ず死ぬので、人の方でも三戸の昇天を妨害しようと「庚申の日」の夜は眠らず、皆が一ところに集まって夜通し飲酒、歓談し、音曲などに興じる―-。娯楽でもあり、共同社会を維持する方便でもあったのだろう。
 「庚申塔」と書かれた文字塔も多いが、像塔で最も多いのが青面金剛(しょうめんこんごう)像だ。猿田彦大神や帝釈天、阿弥陀如来を彫り込んだ庚申塔もある。いつも興味深く眺めるのは、三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)を土台に、二羽の鶏や赤子を縄ひもで縛って下げた、憤怒相の青面金剛像。残酷なデザイン。死は時に残酷だが、死をつかさどる神も残酷だということか。ちなみに女性の庚申信仰の主尊とされるのが如意輪観音で、こちらは女性顔の優しい顔つき。神々も男女で違うらしい。
<三猿の二猿は見ている初庚申>(但馬美作)
 見ざる以外の二猿は、お参りの人をしっかり見ている。ユーモア味たっぷり。初庚申は正月初の「庚申の日」に帝釈天で催される縁日のこと。

 馬頭観音
 関東各地では庚申塔と並んで多く建つのが馬頭(ばとう)観音像である。近年のペットブームでは愛犬や愛猫を亡くした飼い主の喪失感なと精神的ダメージが議論されるが、農作業に運搬にと働き者だった愛馬の死に対する悲しみは、ペット以上のものがあったかもしれない。濡れた瞳も飼い主の心を揺り動かしたことだろう。重い荷を背に心臓マヒで路傍に倒れるケースが過半だったとされ、倒れた場所へ墓替わりに馬頭観音が建てられることも多かった。
 観音様といえば慈悲相が決まりだが、こちらは観音ながら憤怒相。三眼、燃え上がる髪、頭上には馬の首が乗る。馬の供養塔として江戸中期以降に建てられるようになった。もともと愛馬供養のための石仏ではなく、頭上の馬にちなんで愛馬供養に“借用”されたというのが本当らしく、これが憤怒相の理由のようだ。
 ヒンドゥー教2大神の一方、ヴシュヌ神に由来するという説も。畜生の供養と思われるのか特段の年中行事はなく、したがって俳句の季語にもなりにくい。これだけ数が多い石仏にもかかわらず、よく知られるような句は残っていない。

46 【続・公文書の改竄(かいざん)】

2018年06月09日 | 言葉
 紀古佐美の深謀
 <延暦年間3度の戦い(『続日本紀』などから>(再掲)
①延暦8年の戦闘(官側動員5万2千8百、官側トップは征東大使・紀古佐美)▽官側損害=戦死25人、溺死1036人、負傷245人、泳ぎ裸身で帰る者1257人▽蝦夷側損害=戦死89人、焼失14村800棟
②延暦13年の戦闘(同10万、同征東大使・大伴弟麻呂)▽官側損害=逃亡340人▽蝦夷側損害=戦死457人、捕虜150人、馬損失85頭、焼失75か所
③延暦20年の戦闘(同4万人、同征夷大将軍・坂上田村麻呂)▽官側損害=なし▽蝦夷側損害=降伏5百人

 さて、後回しにした逃亡兵の件である。紀古佐美(きのこさみ)が敗戦を奏上(六月三日条)した6日後の6月9日、桓武(かんむ)天皇に征討軍の解散も奏上した。多勢の征討軍を維持し続けるには食糧が不足する。「上奏に対して裁定の返答を待つとなると、その間も食糧が減り続けるので、無駄な費用が増えます。それゆえ今月の10日以前に征討軍を解散して兵士を賊地(胆沢のこと)の外へ出すようにとの書状を、諸軍に送り知らせます」という内容だった。「今月10日以前に、書状を諸軍に送る」ことを9日に奏上しているのだから、事後承諾もいいところ。たとえ桓武天皇が「解散させるな」と命じたとしても、都から陸奥国までは1日やそこらで書状の届く距離ではない。
 
 桓武天皇の怒り
 案の定、桓武天皇は怒りに怒り、勅を発した。
「許可が下りて、その後に解散させても決して遅くはない。今、朕に、はっきり分かった。将軍らはうわべだけを飾った言葉で、罪や過失を巧みに逃れようとしているのだ」
 戦いの勝敗に劣らぬくらい、大軍維持のための食糧調達は重大事だった。当時は軍事費の大半を食糧費が占めた。以前から桓武が「遅々とした進攻が食糧費増大を招いている」と怒っていることなど古佐美はもちろん承知だ。そこで古佐美は食糧不足を「征討軍の解散」の言い訳にしたのだった。しかし軍の解散は、征討という国家事業そのものの中断を意味する。出先の将軍が事後承諾で軽々に決められる事項ではなかった。紀古佐美にしても、それが分からぬほど蒙昧(もうまい)ではない。ではなぜ、このような独断専行に及んだのか。

 虚偽報告の裏側
 真相は古佐美の胸のうちに秘されたままだから以下の文は筆者の推測だ。一つ言えるのは、先手を打って軍を解散させてしまえば、戦場からの逃亡兵数は不明のままになる、という事実だ。5万を超える官軍は東国を中心に集めた兵ばかりだったから、混乱に乗じて逃亡し、故郷を目指したとしても不思議はない。むしろ、これほどの敗戦にもかかわらず、また1の位まで細かく集計したにもかかわらず、1人の逃亡兵も出ていないことの方が不自然である。
 逃亡兵数をウヤムヤにすれば、戦死者や溺死者数もウヤムヤになる。敗戦の輪郭は不明のままになるから、将軍や副将軍へのペナルティーを下しにくい。先手を打っての軍解散は、考え抜かれた最後の一手ではなかったか。

 延暦13年の戦いでも数字の不思議
 延暦13年の戦いに移ろう。こちらの数字にも首をかしげざるをえない。蝦夷側を457人も殺害し、150人を捕虜にしたのなら、官軍側の勝利である点は間違いない。この時の官軍側の勝利が7年後の延暦20年に、阿弖流為(あてるい)が5百人を率いて降伏する遠因になったとも考えられ、全体の流れからすれば延暦13年の戦い以後、蝦夷側は劣勢に回ったのだろう。しかし敵を5百人近く殺害しながら、自軍戦死者がゼロというのは、どういうことなのか。たぶん戦死者を340人の逃亡者の中に含めてしまった結果だろう。
 ちなみに正史『日本後記』は全40巻のうち30巻分が中世末までに散逸してしまい、後世では散逸部分を『日本紀略』や塙保己一(はなわほきいち)の『類聚国史(るいじゅうこくし)』で補わざるを得なくなった。このため記載が簡略になったと推測される。その点も考慮されるべきだろう。なお、蝦夷側の戦死者以外は5人、10人単位で、勝利を収めたにしては①とは対照的に大雑把な数字である。逆に惨敗の①が5人、10人単位で、勝利の②が1の位までの丁寧な記述だったら、少しは本当らしくなる。

 「ネズミのごとき振る舞い」は瑣事? 背景と“事情”
 ちなみに延暦13年は西暦794年。ナクヨうぐいす平安京の、あの794年だ。桓武天皇にとって平安遷都と蝦夷征伐は2大事業であったから、2つとも達成した、あるいは達成のメドがついた、という形にしておきたかった。おめでたい席には、おめでたい報告が欠かせない。仮に延暦13年の戦いが官軍側におもわしくない結果であっても、正直な数字が天皇へ報告され、また散逸前の『日本後記』に報告通りの数字が記載されたかは疑問である。

 延暦8年の完敗の後、桓武(かんむ)天皇が激怒したことはすでに述べた。「事の経過を追ってみれば、奏上はほとんど虚飾である」「このような根拠のない戯言(ざれごと)は、まことに事実からかけ離れていると言うべきである」(いずれも七月十七日条)と叱責し、トップの古佐美のほか副将の池田真枚(まひら)と安倍墨縄(すみただ)らに「敗戦の責任」を取らせて処罰すると宣言した。墨縄には斬刑をにおわせるが、のちに官位及び位階の剥奪にとどめ、真枚も官職のみの解任とした。トップ紀古佐美への処罰はさらに甘く、「過去の実績を考慮して」という理由で一切罪に問われなかった。過去の実績が考慮されるなら、それなりの功績ゆえに出世した高官たちは皆、たいていの失敗は許される理屈になる。とんでもないオオアマな処分だ。実のところ「ネズミのごとき振る舞い」など、権力者にとれば最初から取るに足りない瑣事だったのかもしれない。

45 【公文書の改竄(かいざん)】

2018年06月07日 | 言葉
 改竄
 森友学園と加計(かけ)学園をめぐるモリカケ問題。次々と明るみに出る財務省の公文書隠しと書き換えに国民は食傷気味だが、これまで知られることのなかった公文書管理の実態には興味をそそられる。権力者の意向と役人の忖度(そんたく)との間で真実は揺らぎ、公文書の内容は微妙に変えられる--。情報過多の現代はともかく、正史と呼ばれる公文書類が歴史を伝える唯一の、あるいは主たる資料だった時代に、このような改竄が頻繁に行われていたとすれば、現代人が知る歴史は、その時代の権力者たちに都合の良い内容ばかりということになる。
 改竄の「竄」は、鼠(ねずみ)の字に穴カンムリをかぶせたもの。「竄」には「隠れる」「のがれる」「捨てる」のほかに「改める、文字を入れ替える」の意味も(大修館『漢語林』)。「他人の詩文の一部を盗み取って自分の作とすること」を意味する「竄窃(ざんせつ)」というコトバもある。穴カンムリの理由は「ねずみが穴に隠れる様子から」だ。ネズミのごとき振る舞いなら、エリート官僚らしからぬ行為であることは間違いない。

 『続日本紀』にみる虚偽報告の痕跡
 筆者は小説『残照はるかに』(2013年、海像社)を書くにあたって『日本書紀』や『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀』など、いわゆる正史と呼ばれるものを繰り返し読んだ。古代東北を舞台に大和王権と“先住民”蝦夷(えみし)の戦いを描いた小説だが、ここでも戦果を偽って天皇へ報告した形跡が読み取れた。正史そのものの改竄ではなく、虚偽の報告が正史に記載されたケースである。いつの時代にも「ネズミのごとき振る舞い」は横行していた。以下に概要を紹介する。

 東北古代史における蝦夷と大和朝廷の戦いには「三十八年戦争」の語で括(くく)られる期間がある。特筆すべきは延暦年間の3度の激突。とりわけ延暦8年(789年)の最初の戦いだ。朝廷側は兵5万2千8百を動員、うち選抜された計4千余が北上川沿いを北上して千2百の蝦夷軍と戦った。蝦夷軍は攻めては逃げ、追撃が止むと引き返して攻める、という行動を繰り返す。結果、追う朝廷軍は細長く延びて分断され、不利な態勢になったところを北上川に追い詰められて、多数の兵が溺死した。蝦夷軍の巧みな戦いぶりだった。

 <延暦年間3度の戦い(『続日本紀』などから>
①延暦8年の戦闘(官側動員5万2千8百、官側トップは征東大使・紀古佐美)▽官側損害=戦死25人、溺死1036人、負傷245人、泳ぎ裸身で帰る者1257人 ▽蝦夷側損害=戦死89人、焼失14村800棟
②延暦13年の戦闘(同10万、同征東大使・大伴弟麻呂)▽官側損害=逃亡340人▽蝦夷側損害=戦死457人、捕虜150人、馬損失85頭、焼失75か所
③延暦20年の戦闘(同4万人、同征夷大将軍・坂上田村麻呂)▽官側損害=なし▽蝦夷側損害=降伏5百人

 延暦8年の戦いの後で、征東大使だった紀古佐美(きのこさみ)が奏上した内容が『続日本紀』延暦八年六月三日条にある。一見して奇異の感を覚える数字だ。まず、1の位まで実に細かい数字が並んでいること。次に、溺死者や裸身で帰った兵が多かったこと。3番目に、延暦13年の戦いとは対照的に逃亡兵がいなかったこと、あるいは集計されなかったこと。最後に、惨敗したにもかかわらず戦死者が25人と意外に少なく、これに対して蝦夷側の戦死者は官側の3・5倍の89人だったこと、などだ。

 数字の怪と想像力
 詳しく検証してみる。まず数字の細かさについて。繰り返すが、この戦いで官側は完敗した。完敗した戦場で、なお敗れた側に犠牲者数を1の位まで細かく確認して帰る余力があるものだろうか。戦後も一帯を支配し続けるほどの、しっかりした勝利であれば、余裕をもって敵味方の犠牲者数を確認出来たかもしれない。しかし大半が溺死したり裸で逃げ帰ったりという大混乱の状況下では、たとえ専任の集計係がいたとしても、留まって犠牲者数を確認して帰ることなど出来ようはずもない。
 次の溺死者や裸身で帰った兵が多かったこと。これも最初の疑問に通じる。裸身で逃げ帰った兵の集計なら容易だろうが、川面に浮く溺死者を、どのように数えたのか。溺死者は途中の浅瀬に引っかかったり、川底に沈んでいたり、はるか下流まで流されていたりで、広い範囲に拡散していたはず。倒れたまま動かない地上の戦死者より、死んでなお漂い動く溺死者はさらに数えにくいだろう。
 冷静に考えれば明らかな矛盾だが、文献史学の立場からこの点に疑問が呈されたという話は聞いたことがない。虚偽報告が歴史的事実としてまかり通っているなら残念なことだ。
 さて、3番目の逃亡兵がいなかったか、あるいは集計されていなかった点。これは後回しにして【続・公文書の改竄(かいざん)】で触れたい。ちなみに惨敗したにもかかわらず戦死者が25人と少なく、対する蝦夷側の戦死者が官側の3・5倍の89人にのぼった理由は何だったのか。真相は不明ながら、このような数字であれば「不利な地形のために不覚を取ったが、本筋の弓矢と刀による合戦では負けていなかった」と弁解する余地が残るだろう。

 虚偽報告に怒るも、のちに許した桓武天皇の“事情”
 報告を受けた桓武天皇は「虚飾である」「事実からかけ離れた戯言(ざれごと)だ」と怒り狂った。桓武天皇は英明な君主であったから、このような虚偽など容易に見破ったと思われる。トップの古佐美のほか副将の池田真枚(まひら)と安倍墨縄(すみただ)らに「敗戦の責任」を取らせ、処罰すると宣言した。ところが、である。怒りは最初のうちだけで、特に紀古佐美などは罪に問われることがなかった。桓武天皇には桓武天皇の事情があったのだ。(46【続・公文書の改竄(かいざん)】へ続く)